3花火に誘えば
葉那が帰った後、私は一人で漫画の続きを描いていた。今回の内容は、葉那が居酒屋のバイトでビール瓶を割ってしまう話だ。これは、実際にあった話である。
私が葉那のアルバイトの様子を見に行きたくて行った時、葉那は嬉しさのあまり持っていたビール瓶4本を割ってしまったのだ。私は当時、驚くことしかできなかったが、葉那はかなり焦っている様子だった。
後々聞いた話によると、居酒屋でビール瓶を割るということは誰にでもあるらしい。しかし、ビール瓶はかなり値段が高いため、割るとこっぴどく怒られるらしい。葉那はそのことを知っていたため、焦っていたのだ。
今思い出しただけでも、葉那のあの焦った顔は忘れられないなぁ。
葉那の忘れられないことといえば、彼女が帰る前に言った言葉だ。その言葉が、ずっと頭の中に残っていた。
『絶対今日中に答えろよ!』
彼女と私は、一つの約束をした。先生の質問に対する答えを言うという約束だ。
先生の質問内容は、誰と行くか、ということだ。
そのせいで、私の漫画を描く手が何度も止まった。頭の中にアイデアがたっくさんあり、あとは絵に写すだけなのに、先生の顔や葉那の言葉が頭から離れなくて思うように描けないという葛藤に襲われた。
先生に対する言葉は、心の中ですぐに思い浮かぶ。なのに、いざ目の前に先生が現れると、魔法のように全て忘れ言えなくなってしまうのだ。
「先生と、行きたいです。」
私はこの言葉を何度も口にした。この一言を言えばいいだけなのに。てか、言ってどうなるってことだけど。言ったところで先生は何て言うのだろう?
俺も?
そんなこと、先生が言うわけない。私が一人で悩んでいるだけ。言っても何の意味もない。
「やっぱり、ごめんね、葉那。」
葉那との約束は守れなさそう。言っても先生を混乱させるだけだから。先生は医者。私はただの患者。邪魔なんて出来ないよ。
「‥‥よしっ!あと少し!」
午前中に漫画を二本描き終えた。午後にも二本描き終えることを目標にした。
現在時刻は14時ジャスト。夕ご飯の時間まで頑張ってやるぞ。
「空音ちゃん!空音ちゃん!」
「ん‥?」
私は、ゆっくりと瞼を開けた。目の前には、夕食を持った佐野さんがいたのだ。
「あれ?いまなんじ‥‥?」
「もう6時だよ!」
「えぇ?!6時?!」
私は、佐野さんの言葉に驚いてしまった。私は急いで立ち上がり部屋の壁掛け時計のもとに走った。
「マジ、かよ。」
確かに壁掛け時計の針は、6時を指していた。
え、てことは私って、4時間も昼寝しちゃったの?!
バカじゃーん。
私はしょんぼりしながら佐野さんの方向に足を向けた。
「空音ちゃん、これは?」
「ん?あぁ!ダメダメ!これは見ちゃだめ!」
私は机の上に広がっている手書きの漫画を隠すように布団の中に突っ込んだ。
あれは完全に、み・ら・れ・た‥‥。
私はさらに落ち込んだ。
初めてしっかりと他人に漫画を見られてしまった。
佐野さんの方を見ると、もう一つの机の方に食事を並べていた。
無言のまま、何も喋らないまま。
「今日はすき焼きだからねー。」
さっきまでのことはなかったことかのように喋った。何も、言わないのかな。
「それじゃ、食べ終わったらそのままにしておいて大丈夫だからね!」
そう言いながらスタスタと病室を出て行こうとした。
やばい、戻ってしまう!
「あの!」
佐野さんは開けかけた扉の手を止めた。そして、こちらを見た。
「どうしたの?」
「私の絵、見ましたよね?」
佐野さんは驚きもしないまま、私の目を見つめていた。その目は決して動くことなく、真剣そのものだった。私はその目を見て、逸らしたくなったが、彼女が逸させてくれなかった。
そして、一言だけ呟いた。
「うん。見たよ。」
やっぱり、見られてしまったのだ。その声はいつもより低く、佐野さんの声?と疑うほどだった。そのせいで私は、少しだけ弱気になってしまった。
私は、自分で自分と約束していることがあるのだ。
それは、自分で描いた漫画を他人に見せてはいけない、ということだ。
恥ずかしいということも勿論ある。しかし、私が描いた私だけの漫画を、そう簡単に人に見せたくないのだ。
私が病気にかかる前までは、将来は漫画家になりたいと考えていた。ジャンルは恋愛もの。自分を等身大とした恋愛ストーリーを描きたかったのだ。
入院する前からかなりの数の漫画を描いていた。授業中だろうが休み時間だろうが関係ない。書きたい時に描いていたのだ。
そして、一度だけ、『高校生漫画コンクール』というものに応募したことがある。
『高校生漫画コンクール』とは、大手漫画出版社が開催している高校生を対象としたコンテストだ。
主に恋愛ものの短編漫画を応募対象としている。これには大賞、副賞、準大賞、準副賞の4つがある。4つの賞のうち一つでも入賞すれば、コミカライズ化(漫画家デビュー)が確約される。
私はこのサイトを見つけた時、『これだ‥‥!』と確信した。自分でいうのもなんだが、かなり上手く描けていると思う。描かれた絵には、ハイライトや影が上手く描かれているし、コマ割りも読者が気になるような構成になっている。応募してみる価値はかなりあると思っていた。
私は父親にも友達にも内緒にして、高校生漫画コンクールに応募した。
応募から三ヶ月後に出版社の公式サイトにて結果発表がされる予定だった。
私は結果発表がされる三ヶ月間、死ぬ気で漫画を描き続けた。きっと賞なんて取れるわけがない。そう思っていたのだ。
三ヶ月後になり、私は授業中に一人で出版社のサイトを見た。バレないか心配になりながらも、見たいという気持ちが抑えきれなかった。
本当にこの時は緊張した。たった一人で描き、たった一人で応募して、たった一人で結果発表を見る。きっと、どの漫画家よりも頑張っているはずだ。
私は息を呑み、サイトを開いた。
結果は‥‥私の名前はどこにも掲載されていなかった。まぁ、そうだよな。どれだけ絵が上手くても、どれだけコマ割りが上手くても、漫画というものは正解がないから、賞なんて簡単には取れないのだ。
私は一人で悔し涙を流すために、休み時間にトイレに駆け込んだ。
『ひっく、ひっく。』
『ねー?誰か泣いてない?』
『腹でも痛いんじゃないの?』
バレてしまう前に、帰ろう。
実は、結果発表があった日は体調が悪いといって、一人で帰ったのだ。
本当に悔しかった。渾身の一作品が誰の目にも届かずに終わってしまうのが、悔しくてたまらなかった。
それから、私は他人に漫画を見られることに嫌悪感を抱いた。
しかし今、担当看護師の佐野さんに漫画を見られてしまったのだ。私は今にも涙が溢れそうになった。
「とっても上手だなーと思って思わず見惚れちゃった。」
「へ?」
佐野さんの返答は、私が思っていた返答とは全く違った。てっきり、下手とか、曖昧な返答をしてくるのかと思っていた。
「なんで‥‥上手いなんて、そんなの言わないでください。」
自分の描いた漫画が、他人に上手いと認められることは、こんなにも嬉しくて胸がいっぱいになることなんだと今知った。
「何があったかは知らないけど、素人から見ても空音ちゃんの絵はとっても耽美だよ。もっと見たいくらい!」
私は、頬に大量の涙が溢れているのに気がついた。その時にはもうすでに顎まで到達していた。
佐野さんは慌てた様子でハンカチを私の頬に当ててくれた。
「そ、そらねちゃん?!大丈夫?!大丈夫大丈夫!」
そんなこと言われると、さらに涙が溢れちゃうじゃない。
本当は否定されるのが怖くて、他人に自分の漫画を見せれなかったのかもしれない。
「す、すみません‥‥。」
「大丈夫、大丈夫だよ。」
6時を過ぎて少しだけ暗くなった病室に、私の泣き声だけが響いていた。
佐野さんはずっと、背中をさすってくれていた。
涙が少し収まったころ、佐野さんはハンカチを渡したまま、病室を出た。業務が残っているんだって。
「あ、あの!ハンカチ!」
「あげるあげる!予備はいくらでもあるからさ。」
‥‥カッケェ。
私はありがたく頂戴した。
佐野さんはくりくりっとした目にプリッとした唇が特徴的な童顔だ。その見た目に反して、ハンカチは派手な豹柄をしていた。
「ふふっ。」
それを見て、少しだけ微笑んでしまった。
「よしっ!大丈夫!」
私はハンカチを握ったまま、両頬を軽く叩いて自分自身を鼓舞した。
「やっば!」
そして、もう冷めているだろう夕飯のすき焼きを食べようと椅子に座った。今日もソファに座って食べる。ベッドの方の机の上には、漫画がたくさん置いてあるからな。
「いただきます。」
すき焼きと白飯は、私の涙をかき消してくれるような美味さだった。
「ごちそうさまでした。」
あっという間にすき焼きを平らげてしまった。やはりいつどのタイミングで食べても肉は美味しい。
私は立ち上がり、机の上に散らばっている漫画達を整理し始めた。今思えば、食事中に佐野さん以外の人間が部屋に入ってきたら漫画を見られていた。佐野さんに見られただけで終わったと思ったのに、先生なんかに見られたらそれこそ世界の終わりだ。
全ての漫画を枕元の引き出しにしまい、小さな紙にこう書いた。
『この引き出しは絶対にあけないでください』
そして、引き出しの取手に粘り強く貼り付けた。もっと早くこうしておけばよかったなとも思う。
「ふぅ。」
私は一呼吸ついた。
そして、今思いついたかのように洗面台に向かった。鏡の扉から歯ブラシと歯磨き粉を取り出した。ピンク色の歯ブラシに歯磨き粉をつけて、歯を磨き始めた。
シュカシュカシュカ
歯を磨きながら洗面所を出て、病室の窓際に足を運んだ。無造作に星が並べられている夏の夜の空を見ながら、順調に歯を磨いた。
空。空って、何でこんなに自由に自分の陣地を広げられるんだろう。
人間は、限られた時間、限られた縄張りを頑張って生きているのに。空っていうのは本当に自由だな、と思った。
って、私ったら何バカなこと考えてんだろう。早く歯を磨いてとっとと寝てしまおう。
私は視線を空から病室に向けた。空とはまた違う儚さがそこにはあった気がした。
「ペッ。」
口の中のものを吐いてうがいをした後、洗面台の電気を消した。
ドサッ!
「さいこう‥‥。」
全てが終わり、ベッドに寝転んだその気持ちよさは全ての物事を終わらせた人しか分からない。
ベッドは、最高だ。
私はリモコンで病室の電気を消した。
そして、ゆっくりと瞼を閉じて眠りについた。
日付が変わり、八月七日。
私は目を開いた。
「ふわぁ〜!」
誰よりも大きなあくびをした。
時間を問わずに暑さが続く八月。冷房をつけていても暑いと感じる。しかし、代謝が悪いため汗は一切でない。
私は立ち上がり、窓際に立ち窓を開けた。
宮古島の夏風が、一気に私の身体を刺激した。とっても気持ちがいい。夏風にしかないものがあった。すごく熱風なのは分かる。でも、熱風をも掻き消すほどの気持ちよさがあった。
これから先も、私は朝起きたら窓を開けて風を浴びようと思う。
時計の時刻を確認すると、針は7時半を指していた。もうそろそろ朝食が運ばれてくる時間だ、と思う。
私はベッドの机をセットしながら、朝食がくるのを待った。
コンコンコン
「おはようございまーす。検診の時間です。」
あ、朝食の前に毎朝の検診があるんだった。てっきり忘れていた。
毎朝の検診は、暑くなろうが変わらない日課だった。
先に病室に佐野さんが入ってきた後、首に聴診器を巻いた先生が入ってきた。
昨夜しっかり寝れたのか、先生の目はいつもの朝よりもパッチリとしていた。
それに比べて私の目は、悲惨なものになっていた。昨日の件で泣いたせいで、死ぬほど浮腫んでいるのだ。私の唯一の取り柄である二重目が浮腫んだら、もう終わりなんですけど。
そんなことを考えてボーッとしていると、すでに先生はいつものパイプ椅子に座っていた。
「心音聞くよー?」
「あ、すみません。」
私は急いでベッドに腰掛けた。先生は背が高いので、パイプ椅子に座っても余裕で私の座高に届くのだ私が座っているベッドが少し高いにも関わらずだ。
トクン、トクン、トクン
私の感覚的には、いつもより心音が安定している気がするけど。
ある程度心音を聞いた後、先生は耳から聴診器を離して再び首に巻いた。
そして一言。
「うん、回復してるね。」
かいふく?回復してるの?!
「え、あ!ありがとうございますっ!」
私は思わず立ち上がって深いお辞儀をしてしまった。
佐野さんの小さな笑い声が耳に届いた。
「うんうん。よかったよかった。このままいけば大丈夫だからね。あと、今日から外出オッケーだから。」
先生はそう言って立ち上がり、私の右肩を叩いた。
それと同時に頭を上げた。すると、すでに先生は目線を変えて出口に向かっていた。その背中は、ザ男の背中って感じだったな。
すると、佐野さんがこちらを向いて一言言った。
「それじゃ、朝食持ってくるね!」
佐野さんも先生と一緒に病室を出ていってしまった。
ガチャン
私は一人取り残された部屋に突っ立っていた。
心音に雑音があったため、しばらく外出禁止が出ていたが、今日になり回復に向かっているって。それに、外出オッケーだと?
最高かよ!!
「‥‥やったぁーー!!!!!」
ドサッ!
私はベッドに全身ダイブした。顔を枕にうずくめながら、ひたすら叫んだ。
「回復してる!回復してる!回復!回復!」
余命宣告されている私にとって、『回復』という一言ワードはどんな言葉よりも嬉しかった。
「はぁ。」
枕を抱きかかえたまま、天井を見上げた。
『このままいけば大丈夫だからね。』
このままいったら、どうなるんだろう?余命宣告がなくなって退院して学校に行ける?そしたら、本当に最高なんだけど。
ま、朝食がくるまでしばらくこのままでいるか。
コンコンコン
「はーい。」
「朝食持ってきましたよ〜。今日はどっちで食べる?」
「こっち。」
「はいよっ。」
佐野さんがベッドの机の上に運んだ朝食を置いてくれた。
「そんじゃ、食べ終わったらそのままでいいからねー。召し上がれ〜。」
佐野さんはいつものセリフを言って病室を出ようとした。彼女が部屋を出ていく前に、どうしても伝えたいことがあった。
「あ、あの、昨日はありがとうございました。」
私はベッドに座ったまま出て行こうとする佐野さんに感謝を伝えた。
すると、クルッと足の向きを変えた佐野さんが微笑んだ。
「どーも。また何かあったら言ってね!」
ガチャン
やっぱり佐野さんは、イケメンだ。
「いただきます。」
今日の朝食は、十六穀米ご飯にわかめの味噌汁、鮭の塩焼きとカニカマ卵焼き、絹さやガボチャ添え、ナスの田舎煮だ。そしてカットされたりんご。いつも通り健康的だった。
私はテレビのリモコンをつけてテレビをつけた。
『今日の天気は!』
ふ〜ん。今日も全国的に晴れなのか。ここ最近は晴ればかりで雨が必要な農家さんも大変だな。
コンコン
「空音ー!ファミチキ買ってきたぞ!」
すると、勢いよく父親が病室に入ってきた。
病人の娘に対する一言が、脳内デブすぎた。
「おはよう。また〜?佐野さんからダメって言われてるじゃん!」
父親は、ポカーンと間抜けな顔をしながら近くの椅子に座った。
「え〜!よく部活帰りに食べてたじゃないか!」
父親が持っているビニール袋の中をそっと覗いた。が、数え切れないほどのファミチキが入っていた。この量、誰が食べるのよ。
「多すぎだよ!」
「だって、コンビニの店員さんがフレンドリーで‥‥」
「そんなことどうでもいいから!」
「ショボーン。」
「あぁもう!ありがたくもらいます!」
父親は暗い表情から一気に明るい表情に変えた。ほんと、表情管理がよくできるもんだ。
「今日は何も言われなかったか?」
「回復してるねって言われた!」
「おおー!よかったなー!若い子は免疫が強いからな!こんな病気すぐに治っちゃうよ!」
父親は、満面の笑みをしながら私にハイタッチをした。その手は大きくて、頑丈な手をしていた。
「今から仕事?」
「そうだよ〜!今日こそは寝てやる!」
「そっか。頑張れ〜。」
私は朝ごはんを頬張りながら父親の話を聞いていた。
「もうこんな時間?!それじゃお父さん、仕事行ってくるわ!頑張れよ!」
そう言いながら重たそうなバッグを片手に持った。父親は足の先の方向を部屋の入り口に向けて、歩き出した。
「いってらっしゃい!」
いつもと変わらない日常。父親に挨拶を交わすのはあと何回になるだろう。
「ごちそうさまでした。」
私は朝食を食べ終えた。ある程度食器を重ねた後、私はゆっくりと立ち上がった。
そして、張り紙がしてある引き出しから描き途中の漫画を取り出した。
「これと、これと、これ。あ、でもこれも必要か。この場面はこの色を使おう。」
ぶつぶつと独り言を言いながら、作画に必要な素材を選んだ。
暗い夜を描くためには、星を描かなくてはならない。星を描くには流れ星が一番。流れ星を描くにはさきが滑らかな筆が必要。父親が買ってくれた新品の筆を棚の中から取り出した。
「これだ。」
私はとびっきり綺麗な筆を選んだ。
そして、ベッドの近くに置いてある点滴を運びながら病室を出ようとした。
コンコンコン
すると私が扉の取手に触れた瞬間に、扉の外から佐野さんがやってきた。
「空音ちゃー‥‥わぁ!びっくりした〜!ごめんごめん。」
「あ、ご、ごめんなさい。」
「いやいや、私が勝手に驚いただけだからさ。朝食回収しちゃうね。」
「ありがとうございます。」
「いえいえ、またお昼に来ますね。」
ガチャン
佐野さんが扉を閉めようとしたので、かろうじて閉まりそうな扉を開けた。
「おっと。はぁ。」
佐野さんはおぼんを持ったままスタスタとカウンターの方に行ってしまっていた。あの人はいつもどこか抜けている感じがする。
「よいしょ。」
私は点滴スタンドを持ち上げて入り口の段差を難なく突破した。
トコ、トコ、トコ
私は中庭をめがけて歩き出した。ここ最近は中庭ではなく、4階の大広場にいた。自分の部屋にいるよりも、中庭に行ったり大広場に行った方が漫画のアイデアが浮かぶのだ。その中でも特に中庭はアイデアがよく浮かぶ。外に出るということは、無限に広がる空があるということ。空があるということは、私の母親がいるということである。
私の母親は、幼い頃に交通事故で死んだ。父親の話によると、耽美で大人しい人だったらしい。近所でも有名な美人さんだった。
父親はそこまでかっこいい顔立ちではない。鼻先だけがとっても綺麗である。
私は母親の顔を覚えていない。抱かれたことも覚えていない。
だけど父親が言うには、私の母親は常に私を抱っこしていたという。私は毎晩のように夜泣きをしていた。そんな中でも母親は笑い絶えることなく抱っこをしていた。その姿を見て父親も私を抱っこしようとしたが、母親は大丈夫と言って断っていた。
『空音ってね、母さんがつけたんだよ。』
『へー。どんな意味なの?空音って。』
『空は、「どこまでも続く空のように、自由で可能性のある人生を歩んでほしい。」って意味なんだよな〜。母さんは顔が美人なだけじゃなくて頭も冴えていたんだよ〜!』
『ふ〜ん。空音の音は?』
『音は、「自分だけの音色」って意味だったかな〜。他人の真似ばかりするんじゃなくて自分らしい生き方を奏でてほしいって意味!』
『ふ〜ん。初めて知った。』
「由来なんて、何も意味ないな。」
私はふとした瞬間に母親のことを思い出す。母親のことと言っても、父親に言われたことだが。
空を見ると必然的に思い出すのだ。
ガチャ
私は筆と紙を右手に持って点滴スタンドを左手で押しながら中庭に続く扉を開けた。
外に出た瞬間、熱風が身体を刺激した。
この日は特に暑いがためか、外にはほとんど人がいなかった。いつもだったら老婆や老爺と看護師がいるのだが、流石の今日は誰一人といなかった。今日は気温が30度まで上がるらしい。
私はゆっくりと歩きながらいつもの定位置である中庭のベンチにこしかけた。ここはちょうど木陰になっており、暑さもなく涼しさもなく丁度いい場所だ。
「よいしょっと。あっつ。」
やっぱり今日は暑い。木陰といっても熱風だらけだった。
私は筆を手に持って頭のアイデアを描き出した。
「う〜ん。ここはこうで、あ、でもこっちはこうした方が‥‥。」
アイデアが出ると止まらない止まらない。私は漫画を描く時によくつまらない独り言を言っている。そうすることにより周りからの音を遮断して自分の世界に入り込むことができる。そうすればアイデア出しが楽になる。
今回の内容は、私の母親についての話。さっき思い出したばかりで記憶が新しいから描きやすい、という理由だ。
描いて完成した漫画は、絶対に誰にも見せない。一人を除いて絶対に見せないと決めているのだ。
一生見せないでやる。一生って言っても、もうすぐのことなんだけどね。
ミーン、ミーン、ミミーーーーーン
中庭では蝉の大合唱が始まった。
私は漫画を描く手を止めて、目を瞑った。
ミン、ミーーン、ミーーーーーン
蝉の鳴き声は十人十色だった。
それと同時にやってくる風が何とも気持ちよかった。暑さの合間に吹く涼しい風がやたらと気持ちがいい。
「‥‥な〜にやってんの?」
「え?うわっ!」
目を開くと、真上に先生の顔があった。
私は咄嗟に漫画を隠し、身体ごと先生の方を見た。
「何ですか!びっくりするじゃないですか!」
先生は、ごめんごめん、と言って私の隣に腰かけた。
「空音っていつもここにいるよねー。何やってんの??」
「ただの気分転換ですよ。」
「ふ〜ん。暑くないの?」
「暑くないですよ。代謝が悪いんで、別に汗もかかないですし。」
先生は怪しげな目をしながら私を見つめた。私はその目に耐えられなくて下を向いた。そこには、自分の痩せ細った手だけが映った。
「あぁ〜そういえば、この前君が言ってた夏祭り、明日には行けそうだよ。どうする?」
‥‥ん?
え?!夏祭り?!明日?私は嬉しさを隠しきれずにいた。
「え?!本当ですか?!」
「うん。」
先生は腕を組んで足を組んで頷いた。その顔に、ほんのり身体の体温が上がった。
念願だった宮古島祭に行っていい許可が降りるなんて。外出解除に続き、最高のお知らせじゃん!
「やったー!やった!やった!」
私は思わず立ち上がって派手に喜んだ。
「おぉ〜、すっげぇ喜ぶじゃん。」
「す、すみません。ほんとに、嬉しくて‥‥!」
「そっかそっか。まぁ座りなって。」
私は先生に言われて我に返った。そしてベンチに再び腰掛けた。
私は葉那に言われた言葉をなぜか思い出した。今日中に先生に伝えなくてはならないことが私にはある。
「あ、あのですね。」
「ん?」
「この間、お祭り誰と行くのって、聞きましたよね‥‥?」
先生は思いついたように言った。
「あぁー!うん聞いたわ。あんまり真摯に受け止めないでよかったのに〜!それがどうしたの?」
「わたし、先生と、お祭りに行きたいんです。」
わー!!!!!言っちゃったよー!!!葉那!言ったぞ!ついに言ったぞ!
私は今にも心臓が体から飛び出て死んじゃいそうだった。
私は先生の顔を見れないでいた。ただひたすらに下を向いているだけだった。
「‥‥そっか。」
先生は一言呟いた。それ以降何も言わないでいた。
ん?この空気感は何?私、やっぱり迷惑なこと言っちゃった?やだやだやだ!思ってた通り、先生にとっては迷惑なことなんだ!
「あ、あの‥‥!」
今からなら間に合う。今言った言葉を全て撤回しよう。
「うん。お祭り、一緒に行く?」
「へ?」
「何だよその顔は!そっちから言ったんだろ!」
えーーーー!!!!!!!
先生が、お祭りに一緒に行ってくれる?!?!
「え、あ、いやその、ほんとに一緒に行ってくれるんですか‥‥?」
「うん。てか、元々一緒に行く予定だったし。」
‥‥ん?もともと、行く予定だった?
「それって、どうゆう意味です‥‥」
「しー。」
先生は私の口元に指を当ててきた。私はドッと顔が赤くなった。
「本当は、担当医として一緒に付き添いで行くことになってたんだ。だけどね、俺はそんなんじゃなくて、空音と行きたいんだ。」
「わたしと?」
先生は口を緩めて静かに微笑んだ。私はその小さな笑顔に心奪われた。今にもベンチから落っこちて失神してしまいそうだった。
「うん。ゴホッ、ゴホッ。」
先生は軽い咳をした。
「あ、大丈夫ですか?」
私は自分のハンカチを取り出して先生に渡した。すると、ありがとうと言って受け取った。しかし、口元に当てて使うことはなく、自分の袖で咳を押さえ込んでいた。
「ごめんごめん。最近咳が続いてて。」
先生、大丈夫かな?
プルルルルル!
すると、中庭に着信音が鳴り響いた。先生の携帯だった。
「はい、は〜い、今行きまーす。」
どうやら仕事が入ったみたいだった。
先生は立ち上がって、私にハンカチを渡してきた。
「ごめんこれ、ありがとう。」
私はハンカチを受け取った。
「これから、どこに行かれるんですか?」
「ちょっと仕事。また夕方会いに行くから。」
「そう、ですか。分かりました。頑張ってください。」
私は先生に向かって笑顔を見せた。
「明日、楽しみだな。」
先生はそう言いながら、先生は私の頭を優しく撫でた。いきなりのことすぎて私は目を瞑った。
その手は大きくて、暖かな手だった。
先生は私の頭を撫でたあと、歩いて中庭から館内に入ってしまった。私はそれをしっかりと確認した。そして、
「はぁ〜!」
両手で顔を覆った。先生とお祭りに行けるってこと。先生に頭を撫でられなこと。先生に唇を触られたこと。色んな嬉しいことが一度に起きてしまい、私は今にも宇宙に飛んでいけそうな気がした。
私は、何度も何度も自分の顔を触った。恥ずかしさで死にそうになったからだ。触るたびに、顔の温かさが変わっていく。先生と話す度に身体中の体温がみるみる上がっていく。
先生という人を目の前にしたら、私の世界は180度変わって見える。そんな人に、人生で出会えると思っていなかった。
しばらくして落ち着きを戻したあと、私はベンチを立った。太ももの裏に隠しておいた漫画が目に留まる。私は静かにそれを手に取った。
ミーン、ミーン、ミーーーーーン
今日は熱くて溶けそうになる。蝉ももうすぐで命尽きるだろうに、頑張って泣いているんだなーとふと思う。
私は右手に漫画と筆。左手で点滴を押しながら館内に向かって歩き出した。
ガチャン
館内に入った瞬間、涼しい風が真っ先に感じられた。
代謝が悪く汗が出ないとはいえ、やはり部屋の中の方が涼しかった。
私は真っ直ぐ前を向きながらエレベータの前まできた。
ピンポーン
『上はまいります、ご注意ください』
エレベータの扉が閉まった。エレベータ内には誰もおらず、私一人だけだった。
ピンポーン
途中で誰かが乗ってくることもなく、私は4階にたどり着いた。
カウンターには数人の看護師がいて、挨拶された。
「空音ちゃん!こんにちわ!」
私はペコリとお辞儀をした。
大広場に出ると、何人かの老人と付き添いの看護師がいた。行く前よりも人数が増えている気がした。
そんなこと気にせずに、私は部屋に戻った。来る前に開けた窓がそのままになっており、私の体温なんかよりも温かな熱気が、部屋を覆っていた。
「よいしょっと。」
窓を閉めてエアコンの温度を2℃下げた。これですぐに涼しくなるだろう。
私はベッドに座って、窓の外を見た。
自由で可能性のある人生、か。
そんなのあるわけないのに、何で私は空音っていう名前なのかな〜。
(改良途中)
「えぇー!あの先生と二人で祭り?!やばいじゃーん!」
「声がデカい!」
放課後、葉那がやってきた。今日はいつも通りの時間割だったらしい。
まず最初にぶつぶつと独り言を言いながら部屋に入ってきた。耳をすませてみると、元彼の愚痴を言っていた。葉那は元彼が世界で一番嫌いらしい。
「ごめんごめん。だって!やばくないやばくない?!」
葉那は英会話に通っており、ここ最近は中々会えないでいた。久しぶり話す葉那とは、会話が止まらなかった。
私は、葉那に今日の出来事を話した。すると、私よりもテンションが上がって興奮気味になっていた。
「で、緊張してんの?空音ってそんなこと経験したことなさそう〜!」
葉那はいつもドンピシャの答えを提示してくる。
「そうなんよ。なんかもう、わぁ〜って感じよ。」
葉那は大爆笑した。
「あっはっはっは!」
「いや笑う要素ないだろ!」
「はぁーオモロ!絶対に結果報告して!」
私は分かった分かったと言いながら興奮中の葉那を落ち着かせた。
「でもさ、車椅子で行くんでしょ?」
落ち着いた葉那は眉を寄せて言った。
「うん。」
「それって先生が押してくれる感じじゃん?せっかくだから歩いて行きたくない?」
「そうだね〜。私は歩ける気がするんだけどね。先生がダメだって。」
「そっか〜。」
コンコンコン
二人で話していると、病室の扉が叩かれた。
「はーい。」
私が返事をすると、佐野さんが部屋に入ってきた。
「そろそろ時間だから‥‥」
「あ!分かりました!」
葉那の面会には時間が決まっていた。多分2時間。こんなにも短い時間で楽しまなきゃいけないなんて、ひどすぎるよ、と思う。
「じゃあまたねー!明日楽しめよ!」
葉那はキーホルダーをたくさんつけた鞄をリュックのように背負った。
「それ可愛いー!」
「これ?この間遊園地行った時に買ったやつ。」
「へー。可愛いね。」
「でっしょ〜!ピンク物を集めたんだ〜。今度空音にも買ってくるわ!」
「ありがと。」
「じゃ、またね〜!」
私は葉那に手を振った。彼女は早足で病室を後にした。
(改良途中)
改めて人に報告すると、恥ずかしさで死にたくなる。先生と二人で夏祭りは流石にやばいって。でも、第一は夏祭りを楽しむこと。明日が最終日だからめいいっぱい楽しまないと。
私はタブレットを取り出し、夏祭りの要項を確認し始めた。
コンコンコン
「入りますよ〜。空音?」
俺は空音にある用があり、空音の病室に入った。彼女の部屋は他の部屋とは違う点がある。
それは、大きな本棚が置いてあることだ。本ではない。大量の漫画が収納されているのだ。
彼女がここに入院してから、彼女の父親が設置した。わざわざ病院の医院長に許可を取りに直談判してまで。
俺はゆっくりと彼女のもとに行った。
「くぅ‥‥くぅ‥‥。」
返事もないまま近づいてみると、彼女は机の上に絵を広げながら眠っていた。
「ふん‥‥もう夕食の時間だぞ。」
俺は片方の手をポケットに入れながら、片方の手で空音の頬を優しく撫でた。彼女の頬は、思ったよりもプニプニしていた。柔らかくて、餅みたいだ。
すると、彼女の口元が優しく動いた。微笑んだのだ。
その小さな笑顔に、少しの気持ちが揺らいだ。
いつからだろう。
彼女のことを目で追うようになったのは。
時々、医者という立場を忘れ、彼女を患者として見れないことがあるのだ。
「ん〜‥‥せん、せい‥‥。」
彼女の寝顔を見ると、守ってあげたくなる。救ってあげたくなる。
絶対に死なせない。医療的に見たら可能性はかなり低い。でも、少しの可能性に賭けてみる価値はある。
俺は空音の頬を優しく触った後、部屋を後にした。
あれ?なんで、彼女のとこに行ったんだっけ?
まぁ、そんなこといいや。