12伝えたかった、たった一つのこと
「そらね?」
私はゆっくりと目を開けた。徐々に視界が広がっていった。それと同時に、白衣姿の先生が私を見つめていた。
「せん‥‥せい?」
全身に何の感覚もなかった。しかし、自分の手を見ると、先生の大きな手が重なっていた。
「空音。」
先生は再び私の名前を呼んだ。その大きな瞳に、私は圧倒されてしまった。
「あの、そんなに見つめなくても‥‥。」
「あ、ごめん。」
そう言って先生は椅子に腰掛けた。
「先生、お仕事は大丈夫なんですか?」
「うん。今は空音といたいから。」
「そうですか。」
先生は優しく微笑んだ。私もつられて笑った。でも、酸素マスクが私の表情を隠してしまった。こんなの、邪魔でしかないよ。
私は無理やり酸素マスクを外した。
「あ、外すのは‥‥」
「もう、いいでしょ?」
酸素マスクを外すのを止めようとした先生の手は、ゆっくりと退陣した。
「なんだか今日は、明日まで元気になれなそうだから。せめてこれくらい外させて。」
先生は少しだけ眉を寄せながら私の頬横を撫でた。
「へへ。ありがとうございます。」
「‥‥うん。」
「そういえば先生?花火大会のこと、覚えてますか?」
先生は目を見開き、窓の外の景色を見上げた。もちろん外に花火なんてない。
「もちろん。ぱぁ〜って。すごく綺麗だったのを覚えてる。俺、花火とか全然興味なかったんだけど、君と見たら、本当に綺麗だと心の底から思えた。」
「何か先生、キャラ変しました?(笑)」
「キャラ変?」
「なんだか、気持ちをよく伝えてくれるようになったっていうか。」
「そうかな?」
「あ、いいことですからね?!」
先生は大きく口を開けて笑った。私もつられて笑った。二人で大きく口を開けて笑い合った。一瞬にして病室は暖かな空気に包まれた。
「あっはは!はぁ〜!先生?」
「ん?」
「私ね、先生の笑った顔が一番好きなんだ!だから、手術終わった後もたっくさん笑ってくださいね。」
「‥‥うん。」
「あ、ごめんなさい。空気がちょっとね。」
宮古島の冬風が窓の隙間から入る一方、病室の空気はほんの少しだけ悪くなった。
「先生?」
会話の沈黙を切り開くように、私は先生のことを呼んだ。
「ん?」
「あの‥‥お医者さん、続けてくださいね。」
「え?」
困ったような顔をする先生に、私はまっすぐ目を向けて言った。
「私、先生と出会って思ったんです。お医者さんて、たくさん努力して勉強してるなって。そんなの、大変に決まってるじゃないですか。今まで、たくさん挫折したと思うし、泣いたと思うし。先生は泣かないからそうかは分からないけれど。」
ふと先生の方に顔を向けると、優しく微笑みながら、眉間に皺を寄せていた。
「先生は、かっこいいし優しいし診察も丁寧だし、それに、人の心を引き込む力があると思うんです。すぐに相手の懐に入って。本当に、私の憧れの人なんです。」
私は恥ずかしくなり、先生から目を逸らした。しかし、先生の方から鼻をすする音が聞こえた。
「先生?」
先生は片方の手で私の手を握りながら、もう片方の手で涙を拭っていた。先生が涙を流すなんて、初めて見た。最初で最後の先生の涙。とっても綺麗だった。
「いや、ごめん。その‥‥君の言葉があまりにも素敵すぎて。」
恥ずかしそうに涙を拭う先生を見て、本当に幸せだと思った。
私はずーっと言いたかったことを先生に伝えた。
「‥‥ずっと、好きでした。出会った時から今までずっと。」
緊張はしたけれど、言葉はスラスラと出てきた。だって、ずっと心の中で貯めてたから。
先生は、困った表情をしながら少しだけ笑った。そして私の頭を撫で始めた。
「俺もだよ。だから、せめてもう一度、君の名前を呼びたい。」
「‥‥はい。」
「空音。大好きだ。」
私は、目から涙が溢れた。頬に感覚はないけれど、涙が伝わるのを感じた気がした。
宮古島の風が病室のカーテンを優しく揺らした。
「今日は、風が‥‥温かい‥ですね‥‥。」
もう、何も怖くないや。
先生とも、話せたし。
みんな、大好きだよ‥‥。
次から次へと海岸に寄せる波。
けれど、その間に訪れるほんの瞬き分の静けさ。
まるで空の音が止まるような沈黙の中で、少女の胸の動きもそっと止まった。
海は何も気づかぬふりで、また次の波を寄せる。
永遠に続く波の中で少女の一度きりの命が、たしかに揺れていた。