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最後の愛

「沙羅さん、帰ったよ。」

 部屋の奥からの答えはなかった。帰宅したアキラが見出したのは、ソファに寄りかかって気を失った沙羅だった。部屋の明かりはつけられていない。窓は開いたまま。カーテンが十月の風に吹かれ、踊っている。

「沙羅さん?。沙羅先輩?」

 アキラの手には息子と娘のメール文。活躍を知らせる嬉しいはずの彼等の通信だった。ソファやテーブルには、数少ない家族の写真が、子供たちが幼い時の四人の写真までが広げられている。


 ………………………


 この日忍からメールがあった。百合が無事に家についたとのことだった。

 百合は三日前に慌ただしく渡米していった。沙羅は百合を心配して、疲れを覚えながらも荷造りと後片付けに一生懸命だった。その後も、百合には細かく報告させ、忍には現地の報告をさせている。まるで過保護な母だった。

 忍からのメールによれば、百合は予定通り人工知能の研究の道が与えられるだろうと言うことだった。そのほかに忍はカリフォルニアのCRISPR-cas9技術の研究員に採用されたことが、記載されていた。

 子供たちは、それぞれにしっかりと未来を開きつつあった。沙羅は、曲がりなりにも子供たちを独り立ちさせ、今は彼らの飛躍を見守るだけでよかった。

 沙羅は、それらを手に取りリビングの外に広がるはけの谷を見渡した。


 こんなに幸せになって良いのだろうか。沙羅はそう思わずにはいられなかった。子供達との不仲は、心の中の大きなとげだった。沙羅の病と悩みを知った家族は皆、今では沙羅を受け入れてくれている。病は確かに大きな代償だったが、沙羅の思いは、子供達の思いに重なって、和解をもたらした。

 そのように子供達の氷の表情を砕き、和解に心を砕いたのは夫のアキラだった。アキラは沙羅を追い続け、腕に捕らえては愛を注いでくれる。沙羅は罪の意識から逃れるため、父の影を求めるためとは言え、自分の生きている意味を否定し、二度も彼から逃げ出し、他の男達に身を任せた。それでも神の愛は彼を経て彼女に注がれ続ける。

 今も彼女は彼女自身ををまた追い込んでいる。アキラはそれを望んでいないにもかかわらず。許されているにもかかわらず・・・。故に、アキラは何度も許し続け、許し続ける。彼女は今になって、ようやく彼女自身の罪の意識から抜け出しつつあった。

 そして……。


 ………………………


 沙羅は失踪前の家族写真を抱えたまま、ソフアに倒れ込んでいた。そのままアキラに抱かれたまま救急車で運ばれていった。


 ………………………


「忍君、沙羅さんが入院した。肝硬変からくる静脈瘤からの出血だそうだ。」

「静脈瘤は治したはずだったよね。」

「前回の手術とは別の箇所らしい。再発するなんて、知らなかった。今日の夜、つまりそちらで言えば深夜3時頃か、私が帰宅した時に彼女を見つけたんだ。病院で検査をしたら、今までとは別の位置に静脈瘤があるそうだ。静脈瘤がこれほどひどく再発したということは、肝臓が相当やられているかもしれない。」

「わかった。明日朝、こちらを立つようにするよ。」

「ああ、百合さんと奥さんによろしく。」


 ………………………


 手術の二日後、個室に運ばれた沙羅は目を覚ました。

「私どうしたのかしら。」

 アキラがそれに気づいて返事を返す。

「気がついたかい。ここは君の勤め先だよ。」

「私、気を失って……。」

「動かないほうがいい。もうすぐ担当のお医者様がくる。」


 しばらくして、若い病院長が病室を訪れ、沙羅の病状を説明した。彼は前院長の息子だった。彼によれば、手術でも出血はなんとか止めることができたという。

「沙羅さん。父がお世話になりましたね。この治療は、私からの恩返し、全力を尽くします。」

 病院長は、アキラを外へ呼び出した。

「残念ながら、もう手の施しようがない状態です。」

 医者はその後も色々と説明し続けた。要は肝臓癌のために二本の食道静脈瘤と一本の胃静脈瘤があり、胃静脈瘤の一部から出血していると診断されたという。また、肝臓は肝硬変から肝臓癌になっており、転移の見つかった肺癌も含めて第四ステージということだった。

「先生、抗癌剤がダメならオブジーボなり、免疫療法なり、適用できないのですか?。」

「ソラフェニブ、つまり分子標的薬はありますが、これは肝機能がほとんど失われている沙羅さんには適用できないのです。また、オブジーボのような薬では、もともと癌細胞の量が親指程度でないと、多勢に無勢、有効な働きは期待できません。残念ながら、今は癌を治療する手立てはない状態です。」


 病室へと戻ると、ベッドの上の沙羅は静かだった。アキラが沙羅を見ても、ただ微笑みを返すだけだった。


 ………………………


 出血を止めたあと、沙羅はすこしもちなおした。ベッドの上の沙羅は、説明を聞いたアキラさえももう治るのではないかと錯覚するほどに、元気を取り戻している。


「お母さん!。」

 忍一家と百合が病室に顔をのぞかせた。

「あれ、話に聞くより元気じゃないの。」

「止血の手術はうまくいったんだ。」

 そういうと、アキラは忍と百合を屋上へ連れ出した。

「今は出血は止まっている。肝臓癌は手の施しようがないらしい。肝臓がこの状況だから、また出血があるだろうと言われたよ。」

 忍達の顔色が変わった。

「やはり、助からない?。」

「どうやら無理らしい。」

「出血がまた再発するかもしれないと聞いたけど。」

「そう、その度ごとに輸血をしているが、体が輸血を受け入れなくなると、もう出血を止めることもできなくなる。」

「じゃあどうなるの?。」

「今は出血したら、血が止まるように輸血を続けている。体が輸血を受け付けなくなると、もう打つ手がないそうだ。」

「そんなぁ。」

 百合は、無言のまま涙を流す。忍はショックを隠せないまま、アキラをみつめる。重苦しい沈黙が三人を覆った。

「よう。」

 重蔵だった。


「おじさん。」

「おじいちゃん・・・・。」

 三人は、助けが来たように感じた。きっと、沙羅を、お母さんを救ってくれる人。三人は三様にそう感じた。


「沙羅さんの状況が悪いって?。」

 アキラは重蔵に今までの経緯を説明した。忍や百合が、今にも重蔵が奇跡を起こしてくれるのではないかと思うほど、重蔵は黙って聞いていた。

「そうか、沙羅さんはそんな状態になっていたのか。」

 説明をし終わったアキラと忍は黙りこくり、百合は涙を流した。

「おじさん。」

「おじいちゃん、お母さんを助けて・・・・。」

 重蔵は立ち上がった。アキラたち三人がその背中を見つめる中、重蔵は屋上の四方を見渡し、空を見上げた。


 ………………………


 次の日、病室には高校時代の友人たちも駆けつけた。沙羅はベッドの上で、起きていられるほどに、回復しているように見えた。そこでは、まるで沙羅の命の炎を守り続けるために、重蔵が個室の手前の席で静かに座っていた。それでも現実は厳しかった。事情を説明された者はすべて一様に顔を伏せた。時は確実に最後へと進んでいた。


 重蔵は、アキラを待合室へ誘った。

「今夜が危ないって・・・」

 そう言うと、アキラはテーブルに突っ伏した。彼にはもう何も残されていなかった。何もできなかった。それでもアキラは自分自身を責め続けた。重蔵はアキラをしばらく見つめながら、昔に思いをはせた。


「おめえ、覚えているか?。」

「何を?。」

「俺の嫁さん……。おめえが俺に引き取られる前のことだ。あいつぁ俺を残して天に昇っていっちまった。そして、お前の母ちゃんも…。」

「え?。うーん、おばさん?。そんな気もする。あまり覚えてないなあ。」

「俺は、あの時嫁さんがすべてだった。そのすべて、何もかもを失うことが怖かった。俺を置いて行くなって、何度も泣いたんだぜ。でも、変えられねえんだ。そして、おめえの母ちゃんも……。そう、俺はすべてを失った。今のおめえも同じなんだろうな。俺は自分自身を見失い、天の愛さえ見失っていた。あの時昇っていく彼女たちのために祈ることさえできなかったんだ。そのとき、俺の傍に慰めがあった。幼いお前がきてくれたことが慰めだったんだよ。それがあって、俺はやっと祈ることができた。」

「そうだったの。」

「アキラ、今は祈ろう。祈り続けよう。沙羅さんには今までお前が道を開いてきた。お前には慰めがある。彼女の子供という家族がいるからだ。今後も、お前が道を開くんだ。沙羅さんのために。沙羅さんが安心できるようにするのが、お前の沙羅さんにできる最後の愛だ。」

「最後の愛……。どうして…。家族全員がやっと沙羅さんに愛を注げるというのに。それが最後の間なんて・・・・」

 アキラは大粒の涙が顔を覆い、言葉を続けられなかった。


 アキラはひたすら看病し続けた。外は嵐となった。忍達がアキラの車を使って、買い出しもした。重蔵たちをはけの家に案内もしている。寡黙なレオーネはすべてをわかっているように、ひたすらに動き、走り、嵐を耐えた。

 窓の外の嵐を見ながらアキラは、さらに語り続けていた。

「元気になったら、子供たちのカリフォルニアへ行こう。君を励ましてくれた人々へ会いに行こう。」


 沙羅は、朦朧とした意識の中で、目の前に写真の父が来たと錯覚していた。それほどに、この頃のアキラは沙羅の父に似ていた。

「お父さん。やっと会えた……。生きていてくれたの?。カリフォルニアへ連れていってくれるの?。お父さん、私待っていたのよ。会いに来てくれるのを。お父さん。」


 アキラは、沙羅が混乱して発した言葉に、沙羅の求めているものがはっきりわかった。アキラは沙羅の父親の役を演じきろうと考えた。

「ようやく会えてよかった。もう大丈夫、怖れるな、私がそばにいる。お前の名を忘れずに呼び続けてきたんだよ。お前は私のものだ。大河の中でもお前は押し流されない、私が一緒にいるから。」


 沙羅は、父親の温かい腕の中に帰ることができた。その腕は力強く、その指し示す方には確かな未来があった。そのように、最愛の沙羅を抱きしめたアキラは、沙羅に未来を語り続けていた。まるでそれが沙羅の余命を伸ばせるかのように。いつまでも……。

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