第九話 少年と男
遠くでだれかの声がした。
それから、次に聞こえたのは、男の声だった。
声が頭に直接響く。
「主、強いのう。タマシイと肉がまだ残っておったぞ。今は動きにくかろうがしばしの辛抱じゃ」
誰だろう?
男の声は落ち着いているが、楽しげだ。
たましい? にく? どういうことだろうと疑問に思ったが、自分の状況が全く分からず、少年は黙りこんでいた。
「はぁ、後はなんであったかの。おお! そうであった! お主の父君と母君を忘れておったの」
「あの……」
少年は、恐る恐る話しかけてみた。なぜかはわからないが、この男は悪い存在ではないような気がしたのだ。
「うん? なんじゃ?」
実はこの時、話しかけた、というのは少年にとっては少し当てはまらない感じがしていた。むしろ、心で思った、というのに近かったのだが、男が呼びかけに答えたので、少年はそのまま続けることにした。
「ぼく、弟が、いるんです。たすかりますか?」
「おお、そうであったか。うむ、お主の言う『助かる』というのが『生きている』ということならばおそらく」
男はそこで言葉を少し区切って、慎み深く言った。
「難しかろうよ」
「そうですか。なら、天国には行けますか?」
「ほう、お主は聡いお子じゃなあ。名は何という?」
「マナトです」
「まなと、か。良い名じゃ。しかし、その名は金輪際、名乗らぬほうがよい。名は命も同然。それを知る者の前で名乗れば、次は必ずとられるぞ」
「あなたは、ぼくの命をとる人なの?」
「そうであるともいえるし、そうでないともいえるかの」
ささやかに男は答えた。少年は、どういう意味だろう、と思ったが、それ以上は答えてはもらえないような気がしたので、今は黙っていることにした。
「では、主の屋敷に行こうかの」
男は言い、少しの間の後、再び声がした。
『彼の地へ案内せよ』
決して大きくはないが、その声は鈴のように澄んだ音をたてて響いた。
「我は飛べぬでな。お主の屋敷へは歩いて行くしかない。遅うなるが、すまぬの。さあ行こう。夜は我が庭ぞ」
その声は朗らかで少年をどこか安心させた。
それから少年と男は、夜道を歩きながらお互いのことについて話した。
男は地獄から来たと言った。そこではいつもこき使われていること、なかなか外(この世)に出られなかったこと、そして男は少年に会えてうれしいと言い、何もかもあの少女のお陰だと話した。
「地獄にはタカムラという者がおってな、それはもう鬼のように恐ろしい男なのじゃ」
地獄から来たことが本当なのか、少年は気にはなったが、今の自分の状態と、記憶の無かった間の顛末を聞いて、いまはこの男を信じるしかないと思った。
少年もまた、男と同じようにあの少女に感謝していた。もし少女がいなければ、自分は今頃こうして男と雑談を交わしてはいないのだ。
そして少年は、自分の体がほとんどなくなっているという事実を冷静にとらえ始めていた。
「ねえ、見て見て、これ、かっこいいでしょ」
小さいときに転んだ傷跡が肘にあった。へその横にほくろがあった。
「パパ! ごめんなさい! もうしないから!」
背中に、肩に、太ももにお父さんが叩いた痕がついていた。
お父さんとお母さんにもらった、体。
もう、それはほとんどなくなっている。
風邪を引いたとき、おでこに触れられた冷たさも、叩かれた時の痛みも、さすってくれた時のぬくもりも、これから先、感じることは、もう出来ない。
少年は急に不安になった。
この状態で、自分にできることはあるのだろうか。せっかく生きているのに体が無ければ、満足に生きることはおろか、家族を天国に行かせることなどできないかもしれない。
でも、と少年は思う。
体があったときに、自分に何ができたのだろうか。
怨霊にあっさりと喰われてしまったじゃないか。
何もできなかったのだ。
家族を救うことも、怨霊を止めることも、助けを求めることさえも。
そう、何ひとつ、できなかったのだ。
それなら、前を向くしかない。だって、後ろを振り返っても、そこには未来も希望もないんだから。
今、自分にあるものは何だろう、できることは何だろう。
今の自分にできることは、考えることだ。
この人に、どうやったらいいのか、聞いてみよう。まずはそこからやってみよう。
少年は、もう失うものがないという立場に立っていた。そこから見えることは、体を持っていた時よりもはるかに多いような気がした。
しばらくして、男のつぶやくような声が聞こえた。
「お主、お主の家族が天国に行けるか、と聞いておったの」
「……はい」
「それは、お主次第じゃ、と言うたらどうする?」
少年は、考えながら答えた。
「う~ん。僕はたぶん、あなたに命を握られているのですよね? だったら、僕の答えは一つしかありえません」
「ふふふ。ではもう一つ聞こう。お主はいまいちど、人になりたいか?」
少年は、その答えは簡単だと思った。
「いいえ。人でなくても構いません。家族を天国に行かせられる最善の方法を、あなたは知っているのですよね? ぼくは、自分がその役割を果たせるのなら、どんな姿でもいいと思っています」
「まこと、今日はなんと良き日であろうのう!」
「はい! ぼくもそう思います」
少年は大きな声のつもりで答えた。
「ここにの、ちょうどおあつらえ向きに骸がある。美しい猫じゃ。お主、これをどう思う?」
「猫ですか! ぼくは猫が大好きですよ!!」
もう一度、体が手に入るかもしれない。しかも今度は、猫になれるのかもしれない。少年の心は、歓喜していた。
「ふふっふふふふっふふふ」
しばらくして笑い声が落ち着くと、今度は低く微かな男の何事かを唱える声が聞こえ始めた。それは、壺の底の方からじわりじわりと響いてくるような声で、少年はかすかに痺れのようなものを感じ始めた。
「顔の布はまだつけておれ」
「……はい」
足の裏に、地面の感触がある。のどから発せられる自分の声が体を通って周りに反響して耳から聞こえる。手をにぎり、感触を確かめる。少年は、新しい自分の体を布の隙間から見た。すこし毛深い銀色の毛が、街灯の下できらきらと輝いている。
「?」
尻の付け根に違和感があった。見ると、尾が生えている。尾を振るという動作は初めてしているが、動かすというよりも、動いてしまうというのに近かった。尾は、根元から二股に分かれて揺れている。
「その尾はな、『まともでない』証じゃ」
男が言った。
「ふふ、ぼくは『まともでない』んですね。う~ん、でも、この方がずっと『まとも』な気がするなぁ」
少年はなぜか、この先なにがあろうとも、自分は大丈夫だという気がした。
「ほっほっほっ。よいよい。あとで主に名を与えような」
男は蝙蝠扇で顔を半分ほど隠し、上機嫌で笑いながら、お主はこれから先は地獄で生きることになる、と説明してから言った。
「名、ですか」
「うむ。なまじ地獄では、本当の名は命とりじゃ。名は絆じゃ。大事に隠しあれ。普段は別の名で呼び合う。我も本当の名は隠しておるのじゃ」
「では、あなたのことはなんと呼べばいいですか?」
男はうむ、そうじゃの、としばし考えてから、ピンときた! という顔をした。
「せんせい、というのはどうじゃ?」
「せんせい!」
少年は、それが馴染みのある呼び方だったので、見目のきれいな男のことがとても近しい存在に思えて、うれしくなって駆け出しながら何度も口に出した。
「せんせい! ははっ。せんせーい! は~やく~」
「ほほほ。そんなに急に駆けるものでない。転ぶぞ」
「は~い! せんせい!」
「お主、こやつをどうしたい?」
頭のない怨霊を前にして、男にそう尋ねられた時、少年は今の自分には選択肢があるのだと思った。もう、怨霊に喰われることしかできない、無力な自分ではない。
「ぼくの家族を天国に行かせる、最善はなんですか?」
少年は男に尋ねた。
「これを調伏すればよい」
男はさらりと答えた。
「(ちょうぶく? ちょうぶくって、なんだろう)」
と、ちょうぶくの意味がわからず、しかたがないので自分がどうしたいと思っているのか、少年は考えることにした。それというのも、男はあえて難しい言葉で言ったような気がしたからだ。男のそれは、先ほどまでの少年に対する言葉遣いとは違っていた。
少年は、目の前でびくびくと小刻みにふるえている怨霊を見ながらしばし考えた。
さっき、この怨霊と自分がそのまま戦うことを、せんせいは止めた。種をとって、ハンデまでつけた。
怨霊の体には、家族の顔が歪んで張り付いている。
なら、この怨霊は、今の自分になら倒せるということだ。それは、『倒すことが、家族を天国に行かせられる最善の方法』だ、ということではないか。自分にできそうなことはどんなことかを考えてから、少年は男に言った。
「せんせい、ぼくは家族を天国に行かせたい。だから、こいつを食べてもいいですか?」
「ああ、許す。存分にやるがよい」
男はやさしく微笑んだ。
少年は、今、自分は生きている、と思った。それは、これまでに感じたことのないものだった。自らにとって正しいと思える答えを導き出した今、人間だった頃よりもずっと今を生きていると思えた。
「アサツキ、というのはどうじゃ?」
地獄に向かう牛車の中で、男が唐突に言ってきた。
「アサツキ……? ハッ! もしかして、それ、ぼくの名まえ、ですか?」
「うむ。どうじゃ? 気に入ったかの?」
少年は、うれしさのあまりふるふると震えながらうなずいた。
「アサツキ……。せんせいはぼくに、体だけでなく、名までくれました。もうおとうさんですね! あれ? おかあさん、かな?」
う~ん、どっちだろう、とつぶやく少年を、男は目を細めて見つめた。
牛車から狩衣の男と獣の少年、アサツキが降り立つと、そこには寺にあるようなものよりも遥かに大きな、朱塗りの立派な門がそびえていた。門の左右には黒い塀が続き、果てが見えない。
アサツキと名付けられた少年は、牛車で一眠りをしている間に、男の術によって猫の顔から人のそれに変わっていた。体は獣のままで銀色の毛に覆われている。
「ここが地獄の門じゃ」
狩衣の男は蝙蝠扇で口元を隠しながら少年に言った。
茜色の空の下、二人が門を見上げていると、
「遅かったな。お待ちかねだぞ」
どっしりと引く声がして、目の前にひとりの男が現れた。身長が二メートルはあろうかという大男である。目鼻立ちのはっきりとした顔で、どことなくのんびりとしている気配がある。大男が足音もなく突然目の前に現れたため、アサツキは少し驚いた。
「おお、牛頭か。ご苦労じゃの」
「お前に労われる筋合いはねえぜ」
鼻に金の輪が付いている牛頭は、耳をほじくりながら呑気な態度で男に返した。
「さっさと中に入れよ」
今度は面長のこれまた大きな体躯をもつ男が、気配もなく現れた。こちらの男は耳に金の輪を付けていた。
せっかちそうな印象があるな、とアサツキはひそかに感じた。
「おお、馬頭、うむ、では行こうかの」
大男たちが、門扉に手をかけて引くと、ぐぐぐ、と門が開く。その門は、アサツキ少年が住んでいた団地よりも、はるかに高さがある。横幅はこれが開くことが、信じられないと目を見張りながら、地獄の大門をくぐった。
赤茶けて荒れた大地をしばらく進むと、遠くに赤い神殿づくりの建物が見えてきた。
歩く道すがら、地獄はいつも夕暮れ時の空のままなのだ、と狩衣の男はアサツキに話して聞かせてくれた。
神殿までは牛頭と馬頭が付き添ってくれたが、神殿につくと朱塗りの門の前に二匹の小鬼が待っており、今度は小鬼たちの後ろをついて歩いていく。アサツキは、本当に地獄には鬼がいるのだなと、小鬼たちを見ながら感心していた。
神殿のなかは木で造られた荘厳なもので、どこもかしこも赤く、歩きながら目がちかちかしてきたころ、奥まった場所にある扉に突き当たった。
飾り金具のついた頑丈な引き戸を、小鬼たちが左右に引くと、そこははじめてきたはずなのになぜか見覚えがあるような気がした。
「ここが“閻魔宮”という評定じゃ。ここで、亡者の裁判が行われる」
男の説明を聞いて、アサツキには合点がいった。
「だから見たことがあるのか。あれ、でも、じゃあ、え? あ、いいのか。いや、……え?」
アサツキ少年は、見たことがあるってことは見てきた人がいるってことだから、などとぶつぶつといいながら苦悶していた。
「遅うなったの、タカムラ」
狩衣の男が評定へ入るなり歩み寄ったのは、すらりと背の高い束帯姿の男であった。