第十話 少女、そして
少女が目覚めると、そこは、病室のベッドの上だった。
清潔感を生成するためのものしかない、衛生的な空間。消毒用アルコールの匂いが、自分のここに至るまでの過去を肯定し、また否定しているかのような曖昧な思考にさせる。
「清ちゃん、大丈夫?」
「綾ねえさん」
少女の顔を覗き込んでいるのは、従姉妹の綾だった。綾はガーゼを張ったままの顔でほほえんだ。
「叔父さん、呼んでくるね」
「……うん」
ベッドわきの窓から、あたたかな春の日差しがそそいでいる。
「宮ノさん、宮ノ清さ~ん、大丈夫ですか?」
看護服姿の女性がやってきて清の顔を覗き込み、機械類を見ながらすこし会話をした。
「痛みとか、ないですか?」
「……はい、大丈夫です」
その時、女性が少女の右手に触れた。
「もう少しで先生が来ますからね」
点滴などをチェックした後、女性はそのまま病室を出て行った。
清はゆっくりと自分の右ひじを曲げる。
肘の先に、無くなっていたはずの『手』があった。
「……っ! なんで……っ」
清の目から、涙があふれた。
あの喫茶店で、あの団地で、清が見たものは、やったことは、何一つ、嘘ではない。幻でも、まやかしでもない。
右手があることが、そのすべてを肯定し、そして否定していた。
『もう、ここへは来るな』と。
「なんでっ! ……」
流れる涙は拭っても次々に溢れだしてきた。
そこへ、綾が叔父とともに戻ってきた。
「清ちゃん、雅叔父さん、呼んできたよ」
「清、無事か?」
「おじさん、わたし、……」
清は、そこから先の言葉が出てこなくなってしまった。何も助けられなかった自分が、助けられた。己の非力さに、ふがいなさに、黙ることしかできなかった。左手を強く握りしめた。
「もしもし、雅です。清と綾の見張り烏が消えたようなんですが。……え? 怨霊?」
その日、叔父の雅は、隣県での仕事中だった。
綾と清につけていた烏が消えたのを不審に思い、実家に連絡すると、二人が家に帰っていないので捜索しているが、どうやら怨霊に遭遇したようだ、というではないか。
「ああ、クソっ」
ここから実家までは、どんなに急いでも車で四時間はかかる。雅は、二人にただ無事でいてくれと祈るほかなかった。車のステアリングを握りしめる手が、無能の象徴に思えた。
実家まであと数十分というところで着信があり、二人が救急車で病院に運ばれたと綾の父親で雅の兄の悠が伝えた。
「兄貴、すまない。俺のせいだ」
雅は言いながら心底自分を不甲斐なく思った。
「雅、あいつらは自分たちで考えて動いたんだ。今やるべきことは、詫びることじゃないだろ。良介さんと環には俺から伝えるから。お前はまっすぐ病院に向かってくれ。俺もこれから向かう」
悠の落ち着いた声が、波立った雅の気持ちを鎮めていく。
「わかった」
良介と環は清の両親であり、環は悠と雅の妹である。
清の家から病院までは車で一時間ほどの距離だ。雅は、自分が病院に一番近い位置にいることを伝えてから電話を切り、車を発進させた。
雅は、泣きはらした顔でうなだれる清を前にゆっくりと話し始めた。
「清、たくさん危ない目に遭ったんだってな。怖かっただろ。でも、ほんとうによく頑張ったな」
清は、ぽろぽろと涙をこぼしながら首を左右に力いっぱい振った。
「わたし、なんにも、なんにもできなかった……なのに! なのにっ!」
右手を見ながら、力いっぱい握りしめる。
「(ああ、おんなじだ)」
雅には、泣いて意地を張る清の姿が、昔の自分と重なって見えた。
式神を扱えるくらいでは、濁流に飲まれる人々を救えなかった、あの頃の自分と。
「私、強くなりたい」
『俺、強くなりたい』
「ちゃんと守れるくらい、強くなりたい」
『強くなって、みんなを守りたい』
「ああ。なれるさ、必ず」
雅は清の頭をそっと撫でた。
『ああ、きっとなれるぞ』
そういって大きな手で頭を撫でてくれた、雅の祖父のように。
季節はすっかり夏の気配をまとっている。強くなり始めた日差しが、路地の入口に照り付けている。
「いらしゃいませ」
あれから二か月が経った。
清は綾と共にあの喫茶店に来ていた。
「マスター、久しぶりだね。元気だった?」
髪を短く切った清は、溌溂とした声音で言った。
「はい。おかげさまで。今日はどうなさいますか?」
「うん、いつもの、おねがいします」
私はレモンスカッシュで!と、肩の長さにそろえた髪を揺らして、綾が清の横から人懐こい笑顔で注文する。
「はい。かしこまりました」
二人ははまだ誰もいない店の長椅子に腰かけた。
清は右手を力強く握りしめる。手首から肘のちょうど真ん中あたりに、一周ぐるりと傷跡が残っていた。その傷は、一生残るだろうと医師から言われた。
もう何もできない自分でいたくない。この先の未来で、何もできなかったと思う自分には、もう会いたくない。
「そういえばさ、」
清は口を開いた。
「あの時、団地で、何があったの?」
綾はあの団地でどうして気絶していたのか、清はずっと聞きたかったのだが、自分の置かれた状況の手前、なかなかタイミングを得られず、聞けずじまいだったのだ。
「うん、じつはね」
と、綾はすこし俯き加減になってから顎に指を当てた。
「あんまり覚えてないんだ。えへへ」
従姉妹はのほほんとした笑顔を見せながら話し出す。
「清ちゃんから連絡をもらって、いそいで団地に行ったんだけど、その時は気配とか、特に何にも感じなくて。一旦外に出て、十分くらいしてからまた見に行ったときに、」
背後から頭を殴られたという。
「殴られた? 誰に?」
「たぶん、だよ。だから、本当はどうだったのか、よくわからないの。気が付いたら救急車の中だったから」
「そっか、まぁとにかく、綾姉さんが、無事でよかった」
えへへ、と綾はまた笑った。
「お待たせいたしました」
「はーい」
少女がカウンターに向かうと、注文した物のほかに清のメガネがトレーに乗せてあった。清は驚いて店主の顔を見た。
「こちら、お預かりしておりました」
店主はにこりと笑って言った。
「ありがとうございます」
少女は、丸い縁取りの眼鏡をかける。定価三百円の伊達眼鏡は、新品同様に光っていた。
「マスター、これ、また上手になったねぇ」
いいながら紅茶シロップの入ったグラスの中のまん丸の氷を指で軽く回して見せた。
「恐れ入ります」
「じゃあ、いただきます」
「ごゆっくりどうぞ」
ゴルフボールほどの大きさのコケ玉のような黒い妖魔が、二つの目玉をくるくると回しながら、たんぽぽの綿毛のようにふわふわと空中を漂っている。それは、それだけならばどこにでもいる浮遊物として、さして気にも留まらない存在だ。
その日、その時、その場所で、その妖魔は、壁をすり抜けて“たまたま”高濃度の瘴気の中を通りぬけた。
時間にしてほんの数秒のことだった。それだけで苔玉のような妖魔は、ゴルフボールサイズから直径一メートルほどの大きさに変化し、強暴化していた。
無機質な白い壁に囲まれたその部屋は三畳ほどで、机と椅子のみが置かれており、その椅子に男が腰かけている。入口の脇には聴取室と書かれたプレートが貼られていた。
四十がらみのメガネをかけた白衣姿の男は、数枚のプリントされた用紙に目を落としている。
少し癖のついた髪の毛が顔にかかり、表情は見えない。
男は用紙に目を通すと、後ろに重ねていく。
・報告書(1)
被害報告
怨霊による食害がおこなわれたため、ここに報告する。
日時:二〇××年4月××日 午後四時四十分頃
場所:〇〇市△△町三丁目五の一 ××ハウス
内容:怨霊による食害
概要:上記住所において怨霊により四名が食害を受けたと推察。なお、うち一名の消息は不明。
以下に詳細を記す。
被害者は以下の四名と推測される。(なお、怨霊の残存値は計測済み(33461ppm))。
粟屋シゲノリ、粟屋ミナミ、粟屋マナト、粟屋アキト。
粟屋マナト以外の三名については残留粒子解析で死亡を確認。なお、粟屋マナトは現在も消息不明である。捜索は委託業者に引継ぎ済み。
・報告書(2)
被害報告
怨霊によるエフダの暴走被害および怨霊による被害が発生したため、ここに報告する。
日時:二〇××年4月××日 午後四時四十分頃
場所:〇〇市△△町××五丁目二の二 喫茶○○
内容:怨霊によるエフダの暴走被害および怨霊による被害。
エフダ「飛目」の使用中に怨霊に遭遇し、飛目が暴走した。飛目は久良橋雅氏(識別番号009500572、営業許可証は次頁参照)により撤去済み。
負傷者氏名:宮ノ清
被害内容:飛目による両目の負傷、怨霊による右腕の負傷、どちらも軽傷。
当該負傷者は、無許可でのエフダの使用を認めたが、久良橋雅氏の同意のもとで行ったと言質を得た。当該者は未成年であり、素行および言動に不審な点は認められなかったため、今回は懲罰対象から除外した。
なお、久良橋雅氏に対しては監督責任者としての責務を怠ったとして、二週間の営業停止処分とした。
・報告書(3)
目撃情報
妖魔の目撃情報について報告する。
日時:二〇××年4月××日 午後四時四十分頃
場所:〇〇市△△町三丁目五の一 ××ハウス
内容:妖魔の目撃
目撃者氏名:久良橋綾
××ハウス三階廊下において苔状低級妖魔を目撃したと思われる。なお、目撃者の証言によると、通常の当該妖魔よりも大きかったとのこと。妖魔の残存は確認できず。
なお、当該場所においては怨霊による被害が報告されているため、同地での怨霊及び妖魔の再出現に警戒し、以下の通り二週間の半径三㎞圏内における見回りの強化を実施することとした。
見回り実施期間:二〇××年四月××日~四月××日
以上
男は最後の報告書を読み終えると、立ち上がって灯りを消し、戸を開けたまま聴取室を後にした。
お読みいただき、ありがとうございます。




