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柔らかな白銀の髪が揺れるのを見つけて、イェシカは胸を躍らせた。
「でーんかっ」
見つけた後ろ姿を追いかけ、彼の腕に抱き着く。王太子のヨキアムにそんな態度で接することができるのは、婚約者であるイェシカぐらいなものだろう。
「っイェ、イェシカ」
無邪気に腕にしがみつかれ、ヨキアムは戸惑いをみせる。強く引き剥がすことはないが、やんわりと身を引いていた。
「今日も元気そうだね」
「殿下はお疲れですか? なら、一緒にお茶しましょう」
疲労回復の効果のあるハーブティーを用意するとイェシカは誘った。
二人の間に隙間を作ろうとするヨキアムに、イェシカは剥れ、さらに彼の腕にしがみつく。腕を解けないと察したヨキアムは、代わりに視線を明後日の方角へと向けた。
「いや、大丈夫。疲れてなくはないけど、別の意味で元気だから……」
「あたしとお茶するの嫌なの?」
じとっと半眼になりイェシカは、婚約者に詰め寄る。ヨキアムの返す微笑みには苦いものが滲んでいた。
「そんなことはないよ。えっと……、あ。書類を書き損じたことを思い出して、執務室に戻らないといけないんだ」
仕事に戻る必要があるといわれてしまえば、イェシカは引き下がるしかない。仕方なくつかんでいた腕を離す。
「お仕事、無理しないでね。あたし、膝枕でもなんでもするから」
「じゃあ、イェシカに頼るほど無理しないようにするね」
全力で労わる気概を伝えたら、やんわりと断られてしまった。労いは言葉だけで充分だと、ヨキアムは去っていった。
その背を見送り、イェシカは不満を零す。
「最近、避けられてる気がする」
「王太子殿下にですか?」
「そう」
護衛騎士のケネトが、彼女の独り言にしないために話し相手になる。現在、イェシカとヨキアムは婚約者であるが、それは国に定められた関係だ。ヨキアムが望んでのことではないと、イェシカも知っている。しかし、好きになってもらえば問題ないと彼女は好意を示し続けてきたのだ。
それなのに、ヨキアムはよそよそしくなり、かえって遠ざかっている気がする。
「胸が大きくなっただけじゃダメなのかなぁ」
眉を下げながら、イェシカは自身の胸元についた肉を持ち上げる。すると、身体の線が判りづらい聖女服でも谷間の皺が浮かんだ。
「聖女様、はしたないですよ」
その動作を控えるよう、ケネトは冷静に指摘する。自分は彼女を神聖視しているからいいが、他の俗物の目に触れては毒だ。ケネトの指摘にイェシカは素直に従い、腕を下ろす。
「やっぱり、この童顔が問題なのかも……」
先輩である先代聖女のアスタから、豊胸体操や効果的な食べ物を教えてもらい努力したイェシカは身体だけは立派に女性らしくなった。しかし、愛らしい顔立ちはそのままで小柄なのもあまり変わっていない。十九のヨキアムには、まだ自分が幼くみえるのかもしれない。だって、彼の初恋の相手は大人びた美人だ。
中身は愛らしいが流水のように涼やかな美貌をもつ先輩のアスタを思い出す。ヨキアムが好きだった彼女より、胸囲だけ勝ってもあの美貌には遠く及ばないのかもしれない。
ヨキアムがフラれて帰ってきた日を思い出す。あの日も、自分からお茶に誘った。そして、傷心だからと断られたのだ。
『僕だって好きなのになぁ』
アスタの想うロルフに負けないほど好きだという自負があった。それでも、自分の想いは諦めるしかないのかと、ヨキアムは自嘲する。
それだけの想いなのだと思い知らされ、イェシカは胸が痛んだ。自分だって、という気持ちは彼女もよく解る。おそらく今、自分とヨキアムは同じ痛みを覚えている。
伝わらない痛みに、イェシカは慰めの言葉もでなかった。
そして、盛大に一晩泣き、翌日アスタに励まされ、奮起した。異性として彼の目に映りたいと。それから、四年。豊胸体操だけではなく、婚約者と定められてからは妃教育も努力に努力を重ねた。ヨキアムが、自分の前では気安いままでいいといって許してくれるので、彼と話すときだけは言葉遣いもくだけたままだ。けれど、彼に会うまえは、かならず身嗜みは入念にチェックして、可愛くみえるようにしている。
「殿下、どんどんカッコよくなるのに」
眉目秀麗と謳われた王太子のヨキアムは、歳を重ねるほど女性たちから騒がれるようになった。パーティなどでエスコートしてもらうときなど、羨望どころか嫉妬の眼差しが刺さる。幼くみえる自分など押しのけて、婚約者の座を奪おうと嫌味をいってくる元婚約者候補だっている。
「いっそ、唯一の取柄の胸をばぁーんとだしたドレスでも着てみたら」
「聖女様の品格を損なうのでいけません」
次回参加のパーティ衣装案を護衛騎士がすぐさま却下した。野生動物の威嚇ではないのだから、聖女としても王妃候補としても品位は守っていただきたい。
「それに、聖女様はいつだって素晴らしいですよ!」
「ケネトに言われてもなぁ」
魅力が足りないと落ち込むイェシカに、ケネトは存在自体を全肯定してくる。褒められて育つタイプの自分にはいい相性の護衛騎士だと思う。しかし、さすがに反省が必要なときには体裁だけでも受け止めの言葉を返してもらいたい。愚痴を吐く相手を間違えた。
またアスタのところにいって慰めてもらおうとイェシカは画策する。どんなに大きくなろうと自身の胸に埋まることはできないので、先輩の胸に泣きつきたい。彼女の作る焼き菓子は美味しいので、それでも癒されたいものだ。きっと、優しい彼女はもてなしてくれることだろう。
近くにいるのに一向に縮まらない距離に、イェシカは諦めるしかない。好きになった方が負けなのだ。
「ほんとは、ケネトみたいな人と結婚した方がいいのかもね」
褒められたい甘やかされたい性格をイェシカは自覚している。本来なら、ケネトのように自身を肯定してくれる相手の方が付き合いやすいことだろう。想いを告げてものらりくらりと躱されるヨキアムではなく。
そう解っていても、聖女見習いだった頃、一緒に頑張ろうと励ましてくれた少年の笑みを忘れられない。似た立場の自分がいるから頑張れる、といってもらえてどんなに嬉しかったか。
「っダ、ダメだ!!」
「きゃ!?」
急に腕を引かれ、驚いて振り向いた先に、血相を変えたヨキアムがいた。彼は、さきほど執務室に戻ったのではなかったか。
「殿、下?」
「ケネトと結婚だなんて、僕が許さないからね!」
軽口に対して真剣に叱られ、イェシカは目をぱちくりとさせる。なぜ自分はこんなに怒られているのだろう。
「ケネトとなんて、しませんよ。殿下が好きなのに」
「…………へ? 僕に愛想尽かしたんじゃ」
「ないです」
自分の好きをなめないでもらいたい。ヨキアムがした誤解に、イェシカの方が剥れる。
そんな彼女の答えに、ヨキアムは安堵の吐息を長々と吐いた。
彼の反応に、イェシカはうずうずと訊いてみたい衝動にかられる。
「殿下は、あたしが他の男と結婚したら嫌なの?」
確認されて、ヨキアムはじわじわと赤面した。そして、観念する。
「……うん」
「ふぅーん、じゃあ、なんで避けてたの?」
今ヨキアムがここにいるということは、先ほどのは自分から離れる口実だったということだ。責められ、ヨキアムは言い逃れができない。
「だって、君は聖女なのに、婚前交渉はまずいだろ」
「うん??」
イェシカが小首を傾げるので、解っていないとヨキアムはムキになる。
「だからっ、イェシカが魅力的すぎて困るんだよ! そんなに育たれたら、男としていろいろまずいのっ」
「色仕掛け成功、おめでとうございます」
空気を読んでいるのかいないのか、ケネトが拍手を贈った。だが、そのおかげでイェシカはこれまでの努力が報われたことを認識した。瞳が喜びに輝く。
「やったわ、ケネトー!」
「だから、僕以外の男と仲良くはしゃがないでほしいんだけど……」
ケネトは表情筋があまり機能しないので、イェシカから求められた柏手に、両手をだして応えることで喜びを表す。彼女の喜びは自分の喜びだ。できる研鑽を重ねてきた彼女をみてきたらから余計に喜ばしく感じる。
目の前で堂々と他の男と手を重ねるイェシカに、ヨキアムは不満を零す。ケネトが護衛騎士の領分を弁えていると解っていても、面白くないものは面白くないのだ。
婚約が決まった二年前、イェシカから告白され、好きになってほしいと乞われた。そのときは、友人だと思っていた相手が女の子だったと知らされどうしたものかと思った。そして、答えを保留されたことに安堵した。しかし、年々女性らしくなる彼女にどぎまぎするようになって、ヨキアムは彼女への対応に困るようになった。パーティなどで聖女服より身体の線が判るドレスを着た彼女を、男の視線から守るのに躍起になっているなんて、昔では考えられなかった。
くるり、とイェシカが振り向き、いたずらっこのように微笑む。
「そんなにあたしのこと好きなんですか?」
護衛騎士に妬くほどに。
「うん。好きだよ」
いわせたイェシカの頬が桃色に染まる。そんな彼女が可愛いと感じてしまうのだから、これからは白状するしかない。
「これからは、あたしが言った分もいっぱい好きって言ってね」
ヨキアムの胸に飛び込んで、イェシカはすりすりと甘える。
甘えたな婚約者を抱き返すと、柔らかい感触が横隔膜あたりに密着した。自然と腹部より下に熱が溜まりそうになり、これはまずいと危機感を覚える。ふと護衛騎士のケネトが視界に入り、完全に二人きりになりきれない状況にかえって救われた。
観念してしまったので、これからは可愛い婚約者に甘えられる未来が待っている。
「あと二年、僕、我慢できるかな……」
ヨキアムは、先が遠く感じた。