昔々あるところに
少女の声が、少し前から何度も頭の中を反響している。
「浅葱!」
甲高い、それでいて綺麗で良く通る声だ。
俺はこの声を良く知っている。
そう思った直後、脳天を突くような前頭部への強い衝撃で俺は覚醒した。
「いつまで寝ているの、起きなさい! 浅葱!」
青草の香る草原に、寝転ぶ俺の間抜けな顔を真上から覗き込む少女は、艶やかな長い黒髪を風に靡かせながら大声で叫んでいる。
薄化粧をしたまだあどけない顔立ち、気品ある上質な布の着物や髪飾り、高貴かつ雅なその風貌からは、彼女が只者でない事は余りにも明らかだ。
しかし、その敬いの全てを無駄にする程の力強い拳は、寝惚けて虚な俺の目を覚まさせるには十分だった。
「鈴蘭、せめて普通に起こせはしないか?」
生い茂る雑草が、無防備なうなじと足首に当たっている。起き上がって手をつくと、より一層深々と葉先が刺さった気がした。
紅で彩られた唇をへの字にして踏ん反り返る少女は鈴蘭、この村の領主であり村長でもある長の娘である。つまり、この小さな村では姫宮と呼ばれる存在だ。
「お前などにはそれで十分よ」
「なんだと」
嘲笑を浮かべて不敵に見下してくるその偉そうな態度は、正しく高位に相応しい風格だが、そこに深窓の姫宮らしい佇まいは伺えない。
慣れとは恐ろしいもので、村一番のお嬢様とたかが米屋の次男坊の俺が、この通りまるで対等に話している。村では希少な同年代とはいえ、物心ついて身分を自覚し始めた頃には相当な違和感を覚えたものだ。ただ彼女のこの性格も相まって、最近はもうわざわざ形だけの敬意を示すことすら億劫なくらいだ。
「こんな昼間から、働きもせずに原っぱで寝こける阿呆を、丁寧に起こしてやる義理は無いわ」
「阿呆? 人のことを殴って起こす御転婆に言われたくは無い」
「起こしてやっただけ有難いと思いなさいな」
「何だと不細工!」
「そっちこそ、のっぺり顔で短足な癖に!」
こうして、毎日のように言い合う鈴蘭だが、どんな喧嘩をしても結局何度も俺に話しかけてくるあたり、満更嫌われている訳でも無さそうだ。
この時期の大人達は、来る祭りに向けて土地神様に捧げる供物の準備に駆り出されている。結局のところ、手伝いをしようにも家業を継ぐ太郎でも無い限り、子供達は皆面倒な雑用係になるのだ。
この村では、名もなき神を祀っている。
人里からそう遠くない山と山を隔てる渓谷の底、荒々しい急流に削られ続ける岩の隙間の洞窟で、雨風を凌ぐようにして小さな祠が佇む。そして、この土地を治める谷底の神には、人の命と引き換えに願いを叶える力があるとされている。
神と人との禁忌の取引。人智を超えた神力によって、富や名声、あるいは異能、人の心すら手中に収めることができる。だが、その引き換えは命。当然、取引の結果はまさに神のみぞ知る。
今は昔、代償を顧みず自ら谷に飛び込む愚か者が跡を絶たなかったそうだ。しかし、掟の厳しくなったこの時世、神より賜りし力で私腹を肥やす者はそういない。
神との取引は、正しく行わなくてはならない。
当然、罪なき村人を谷に突き落とすことなどせず、毎年の神への供物は仕来りに沿い、装飾品を施した人形や食物を総出で用意することとなっている。
例に漏れず、祭りの準備に駆り出された俺は、慌ただしさに耐え切れず村外れの原っぱで休息を取っていた。それだと言うのに、この鈴蘭ときたら、何故俺をすぐに見つけ出すことができるのか。
「村長に言いつけるぞ!」
脅しにもならない脅しに、鈴蘭が挑発される。
「言えるものなら言ってみなさい! それとも祭りの準備は滞りなく、全て終わらせたからお暇なのかしら? お気楽者は良いわねえ」
笑いながら眉を吊り上げる鈴蘭はどこか楽しそうで、恐らく自分もそんな顔をしているのだろうと思う。気恥ずかしくて、顔を強張らせようと努力してみるも、鈴蘭の前では無駄だと心の何処かでは理解していた。
退屈で小さな村でも、こんな日々が続いて行くのなら悪くは無い。
「それより、先日壊した屋敷の戸について、父上から話があるそうよ」
「あれはお前が俺を押したからだろう」
「壊したのは貴方よ。観念して頭を下げに行くことね」
「嫌だね。俺は逃げ延びる」
「あ!」
丘の下の川辺まで走り回って、追い掛けてくる鈴蘭を撒こうと、裾が濡れるのも構わず水に浸かって走る。
ここまで来れば、上等な着物を纏う彼女は、そこら中に広がった石ころの上で悔しがるばかりだろうと高をくくった。
してやったりとにやけ顔で振り返ったのが間違いだった。
上等な着物、繊細に施された化粧、そんな物はこの村一番のお転婆姫には関係ないのだ。豪快な音を立てて、彼女は俺を追いかけてきた。水浸しの衣類など、こうなってはもう気にもとまらない。容赦なく川水をかぶせて来る鈴蘭に、俺も負けずと手で水をすくって投げる。
全身びしょ濡れになりながらも、俺達は笑っていた。
俺は、鈴蘭とずっと仲の良い友人で在りたい。願わくば、ずっとこのままで、お互いに新しい家族ができたとしても、一生このままの関係で居たかった。
それにしても、額に濡れた髪を張り付かせながら満面の笑みを浮かべる鈴蘭のなんと美しいことか。
目を奪われながら、逸らすようにまた水を投げかけ、本人には決して言ってやるものかと唇を噛み締める。
その時、突然轟音が鳴り響いた。心臓が止まると思える程に早鐘を鳴らして、双眸を見開き、音の発生源を探した。
それはすぐに見つかった。山だ。
村のすぐ裏の山が、物凄い音を立てて煙を上げている。まるでこの世の終わりのような、尋常では無い音とともに、野鳥は飛び去り、動物達も逃げて行く。
夕焼けも相まって、空が赤黒くさえ見えた。現実味のない、絶望的な光景だった。
「土地神様の祭りの時期だと言うのに、なんて事かしら」
「とにかく、村へ戻ろう。子供だけでは危ない」
焦った俺たちは互いに冷静を装って、しかし体中についた草や水を払うのも忘れて村へと走った。
そして数日後、土地神の怒りを鎮める術として、本来は人形を置くはずだった儀式の生贄に、姫宮である鈴蘭が選ばれたと知った。
両親からその話を聞いたのは、すでに鈴蘭が逃亡防止の為に、別邸へ隔離された後であった。