後日譚。白金の娘と、美味しいごはん。弐
「子どもの頃もね……ごはんは、こういうのだったから……これが『普通』だったの。だから初めてケニスのごはん食べた時びっくりしたんだよ。色々なものが色々な味がして」
ラティナが初めてクロイツで食事をした時--と、記憶を辿ってデイルは思い出した。彼女はあの時、ケニスが作ったデザートに目を輝かせていたはずだ。
「……甘いものってのは……?」
「果物くらいしか思い出せない……」
「そうか……」
森の中の生活で、満足な食事が出来ていないからだと思っていたが、それ以上の衝撃であったようだ。
「ヴァスィリオは……あんまり作物が採れないみたい。でも、魔人族は、大人の男のひとでも、人間族ほどごはんの量食べないから……なんとかなっているんだと思う」
昔を思い出すようにして、ラティナは言った。
「そういや、乾燥地帯に囲まれてたな……」
ハーゲルから見た地上の光景は、広大な荒野に囲まれているという印象のものだった。
『橙の神』の加護でもあれば、こういった場所でも充分な収穫が見込めるだろうが、それは恒常的な手段とは言いがたい。
環境の厳しいヴァスィリオは、作物の収穫量が少ない。
しかも、他国との交流を断っている為、食物を輸入することが出来ない状況である。
とはいえ魔人族は、元々頑強な種族であり、他の人族に比べて摂取するべき栄養分が少なくても、生命維持に支障がない。
結果、得られるものが限られているが故に、食事とは、必要最低限の栄養を摂取する目的を重んじて、楽しむという観点を取り除いていった背景がある。
更に幼いラティナは知らなかったことだが、先代の『一の魔王』は、だいぶ保守的な考え方をしていた王であった。新たな魔王であるフリソスが即位するまでは、その治世を基本的なスタンスとして置かれているといった政治情勢も関わっていたのである。
一方、クロイツはラーバンド国でも栄えている街だ。王都と港の中継点にあり、物流の要所で、物資は豊かである。
更にラティナが師事したケニスという男は、様々な地域の料理と食材を研究することの方に、人生の目的を置いていた男だ。優秀な冒険者であり、重戦士として一流の腕を持っていた--というのも、目的の為の手段に過ぎない。
事実、まだ現役を退くには早い年齢にも拘らず、あっさり『踊る虎猫亭』の入り婿になって冒険者を引退してしまった。
そんなケニスが腕を振るう『虎猫亭』は、様々な料理とレシピに、下町の酒場の基準ではあり得ないほどに、触れることの出来る店なのである。
ラティナは、そんな環境で育ってしまった。
もう今のラティナは、生まれ故郷の食文化に、戻ることは出来ないのである。
「そういや……ローゼは食事どうしてるのかな……?」
ふと漏らしたデイルの呟きに、ラティナの目が泳いだ。
酷く葛藤している顔をして、やがて力なく下を向いた。本当に感情が全て面に出る娘である。
「……フリソスの出したごはん……私が食べないって……問題ある気がする……」
「まぁ、今のお前の立場じゃなぁ……フリソスはあんまり気にしねぇかもしんねぇけど、周りがそう見るとは限らねぇからなぁ」
定期的にラーバンド本国と、やり取りしているローゼたちのもとには、あちらの食材があってもおかしくはない。
そのことに思い至ってしまったことは、ラティナに更なる葛藤を与えることになったのだった。
そして彼女は、わりかしあっさりと欲望の前に屈服した。
彼女は聖人君子でも雲上人でもない、俗世間にまみれた庶民派少女なのである。
「ふん♪ ふん♪ ふーん♪」
跳ねるような足取りで廊下を進む。
毎日の神殿内の散歩の結果、厨房の場所を見つけてしまったのも、我慢できない所以だった。
鍋を磨くのは、楽し過ぎた。手をかければそれだけ、ピカピカになっていく成果が視覚でも確認出来る。厨房の隅に置かれていた、焦げ付いた鍋を見掛け、どうしても気になってしまったのが発端であったが、ついつい目につく鍋を磨きまくってしまった。
後悔はしていない。すっきりした。
元々この場は神殿であるが故に、娯楽と呼べるものがほとんど無い。
読書をするにも、ラティナは魔人族の言葉を、話すことは出来るが読み書きは出来ない。学ぶことの無いままに故郷を出てしまったのだから、そこはどうしようもなかった。
することが無さすぎるのであった。
仕事中毒気味のラティナを大人しくさせておくには、適度な仕事を与えることが最も有効であることを、フリソスはまだ理解していない。
--フリソスが国主としてこなしている仕事量と、妹と過ごす時間の為に鬼気迫る様子でそれらを解消していく姿を見ると、やっぱりこの姉妹の根底は似通っているのかもしれないと、デイルなどは思っていたりする--
ローゼ相手に「ごはんください」とは言えないラティナであったが、現在ヴァスィリオには親友たるシルビアもいる。
子どもの頃から『良い子であらねばならない』という姿勢を崩すことの出来なかったラティナは、歳相応の愚痴や文句を、友人相手に漏らすことの方が多かった。それもあって、彼女はシルビアに割りと素直に愚痴をこぼしたのである。
しょんぼりと萎れるようにして、ラティナは訴えた。
「ごはんがおいしくない……」
それを聞いたシルビアは、大笑いした。
因みにシルビアが、これ以前にラティナから聞いた愚痴は、「面倒くさい」だった。全ての動作、着替えのひとつからちょっとそこまで散歩に行くことにさえ侍女が関わることが、ラティナとしては非常に面倒くさいのである。
それは、向こうにとっても仕事であるから、ラティナも妥協という名の我慢をしている。
唯一入浴だけは、ラティナは、我が儘を通して一人で入っている。気を抜く時間がなければ、やっていられないのが本音なのであった。
「笑えるくらい、まっずいよね……って言うか、魔人族の味覚からも、まずいんだ?」
「おいしくないとか、おいしいとかってのは、他と比べることが出来るからわかるんだよ。ここだと『ごはんはこういうもの』なんだもの……」
「飲み込めないくらい、まっずいって訳じゃ無いのが、絶妙なまずさだよね」
一応食料としての役割は果たしているのだった。
最低限のみが保証されているという、印象でもある。
「飴ならあるよ」
「うわあぁぁぁっ」
シルビアが、何気なく手持ちの飴を与えてみれば、ラティナは目をきらっきらに輝かせた。
小動物に餌付けをしたくなる気持ちがよくわかった。
「美味しい?」
「うんっ」
「良かったねえ」
食事の楽しみを奪われたラティナに、甘味を与えた結果、彼女は若干幼児化していた。ひたすらに幸せそうな顔をして、小さなキャンディを口中で転がしている。
「そういえば……」
「ん?」
ごそごそと自分の荷物を漁ったシルビアは、平たい缶を取り出した。かぱりと開けると、独特の匂いが立ち上る。
「このくらいしか今はないけど、持ってく?」
そんなシルビアに、ラティナは、手を祈りのかたちに組んで、潤んだ眸を向けた。
「シルビアっ……神さまみたい……」
そのコメントは、曲がりなりにも『神の末席』に連なるものが発して良いものではなかった。
「牛酪、うっれしいな、嬉しいな♪ 塩気が強いから、ちょっとだけ♪」
スキップと呼称するには、独創的過ぎる足取りで、ラティナは廊下を歩み、厨房へ突き進んでいった。
ラティナに従う侍女は、おろおろと後を追っていたが、今のラティナの意識の中には入って来なかった。
侍女の視点でのこのラティナの行動は、『白金の姫様の突然の奇行』である。
軽やかな足取りで、神殿内部でも貴人の立ち入ることの無い区画に突き進み、人間族の文化なのか、聞いたこともない不可思議な旋律を口ずさんでいるのだった。
侍女が慌てるのも致し方ない状況であった。理解の範疇外の行動であるのだ。
そして更に状況を混沌としているのは、妹姫に甘い『黄金の王』から、ラティナの意向を出来るだけ汲むように命じられていることだった。とはいえフリソスの価値観の中では、仕えられ傅かれるのが当然であって、下働きのような仕事をするというものはない。
ましてやラティナが好き好んでそういった仕事をやりたがっているとは、フリソスも侍女たちも思ってはいなかった。
育ちの差が、そのあたりに出ていたのである。
結果として、侍女はラティナを止めるに止めれず、その意図もわからないという状況であった。侍女の心痛はかなりのものなのである。
ラティナとしては、はしゃぎたくなるのも致し方ない状況であった。
「蜂蜜までくれるなんて、本当にシルビアは優しいなぁ♪」
あまりのラティナの喜びぶりに、シルビアは、虎の子の蜂蜜の小瓶も出したのだった。ラティナの様子は、とても使いかけの牛酪一缶に対する喜び方ではなかった。それ故、シルビアもなんだか申し訳なくなってしまったのである。
そして、そこまでラティナが追い詰められている事実に、ちょっと同情したのだった。
片手に牛酪の入った缶、片手に蜂蜜の小瓶を持ったラティナは、遠慮やそこで働く者の領分だとかといった、普段、気を遣っている部分を全て明後日の方向に放り投げて--厨房に突入したのであった。




