第49話 南境界の進軍と冷たい銃口
夜明け前の凍てつく冷気の中、俺は除雪された通路を抜けて南境界の土手へ向かった。
吐き出す息が白く凍りつき、薄暗い雪原の輪郭をわずかに滲ませている。
雪を踏みしめる靴底から、小気味よい軋み音が伝わってきた。
土手の陰には、自警団のダンと二名の哨戒員が身を潜めていた。
手にした木製レバー式のクロスボウには、すでに鋭い鉄穂先のボルトが装填されている。
足音に気づいたダンが、雪の上で素早く身を起こした。
「領主代行様!」
「ダン、敵の様子はどうだ」
「街道の入口、野営の火が小さくなっています。兵たちが動き出しました。西の防壁と見張り櫓からも異常なしと合図が届いています」
ダンは低く引き締まった声で報告したあと、俺の身なりを見て眉を寄せた。
「……領主代行様、また昨日みたいに一人で前へ出る気ですか」
その声には、昨朝の対峙を目の当たりにした強い懸念が滲んでいた。
俺は静かに首を横に振った。
「昨日は筋を通すために土手の前へ出た。本家の言い分を聞き、受領証を盾に拒絶を突きつける必要があったからだ。だが今朝は違う。相手は力づくで村を蹂躙しに来る」
「なら、俺たちで迎え撃ちます! 土手の陰から一斉に射ち込めば、敵の足を止められます!」
「焦るな。クロスボウの有効射程は五十歩だ。相手が間合いの外にいるうちは、矢を無駄遣いするわけにはいかない。俺は南の丘陵の高台へ上がる」
俺は街道を見下ろす南側の斜面を指差した。
「あそこから遺物魔導を使って敵の動きを封じる。お前たちは土手の陰から一歩も出るな。俺が放つ高台からの一撃を合図にする。銃声が響くまで、絶対に引き金を引くなよ」
ダンは一瞬目を見開いたが、俺の眼差しをまっすぐに見つめ返し、力強く頷いた。
「了解です! 高台の音が轟くまで、引き金に指もかけず待機します!」
「頼んだぞ。背後はシェリーやボルドさんたちも固めている。落ち着いて持ち場を守れ」
ダンの肩を軽く叩き、俺は雪を踏みしめて南側丘陵の斜面へと向かった。
膝上まで積もる深い雪を掻き分け、斜面の岩場を登っていく。
風雪に削られた自然の岩場にたどり着き、大きな岩の陰に身を滑り込ませた。
新設の防壁や櫓ではない。風雨と寒気に耐えてきた荒削りな岩肌だ。
低く身を伏せれば、街道を進む敵からは完全に死角となる。
それでいて、ここからは南の街道の直線部と、村の除雪土手、そして新農地が一望できた。
空の東側が白み始め、夜の闇が青灰色の光へと薄れていく。
土手から百歩以上南の街道上で、敵の野営地に動きがあった。
昨朝の対峙のあと、強行軍で疲弊した兵と馬を休めるため、ヴァイスは隊列を土手から百歩以上南へ下げて街道上に野営を張っていた。
街道脇には、昨朝から控えている二頭立ての大型荷馬車二台が止まっている。
空の荷台を覆う幌が、吹き抜ける冷たい風をはらんでバサバサと音を立てていた。
荷馬車の周囲に、私兵たちが集まりつつあった。
革鎧の上に金属の胸当てを着け、長柄の槍や剣を手にしている。
だが、その足取りには明らかな重苦しさが残っていた。
悪路の山道を越えてきた疲労は、一夜の野営で完全に抜けるものではない。
まして目の前に広がるのは、完璧に除雪された道と、頑丈な家屋から立ち上る生活の煙だ。
昨朝に目の当たりにした村の異様な佇まいを前に、兵たちの表情には硬い緊張が張り付いていた。
その空気を切り裂くように、鋭い革の音が響き渡った。
バチンッ!
乾いた破裂音とともに、馬上の男が太い怒声を張り上げた。
「何をぐずぐずしているか、間抜け共が!」
軍馬に跨がった徴税騎士ヴァイスだった。
黒光りする重厚な鉄甲冑をまとい、分厚い熊の毛皮の外套を肩で揺らしている。
手にした太い革鞭を振り回し、手近な私兵の兜を容赦なく叩いた。
叩かれた兵が身をすくめ、慌てて背筋を伸ばす。
「相手はただの百姓と、出来損ないの三男坊だ! 昨日は沙汰を言い渡すために十数歩まで寄せてやったが、今朝は逆徒として叩き潰す!」
ヴァイスは馬上で鼻を鳴らし、街道の先にある村の土手を鞭の先で指した。
「夜陰に乗じて寝首を掻きに来る度胸すらなかった腰抜けどもだ! 落伍する者や命令に背く者は、その場で首を刎ねるぞ!」
怒声と処刑の脅迫が雪原に木霊し、私兵たちの顔が引きつった。
ヴァイスは私兵の一人を呼びつけ、軍馬の鞍袋から布地を引き出させて長柄の旗竿に取り付けさせた。
冷たい風の中に広げられたのは、白銀の地に猛禽の紋章が刻まれた伯爵家の軍旗だった。
「掲げろ! 本家の威光を拝ませてやれ!」
旗持ちの兵が旗竿を両手で支え、朝の光の中へ高く掲げた。
旗が大きくはためき、冷たい風をはらんで翻る。
「横一列に整列せよ! 槍を水平に構えろ!」
私兵二十名が慌ただしく雪を踏み分け、横一列の陣形を組んだ。
中央に軍旗を掲げた兵が立ち、その両脇で十九本の鉄の槍先が水平に突き出される。
二十名の隊列の真横に、軍馬に乗ったヴァイスが位置取った。
ジャリン、と硬い金属音が響く。
ヴァイスが腰の長剣を一気に抜き放った。
雪明かりを浴びた鋼の刀身が、青白く鋭い輝きを放つ。
「進めぇっ!」
号令とともに、私兵たちが一斉に雪を踏みしめて前進を開始した。
揃わない足音と、金属具の擦れ合う鈍い音が静かな街道に木霊する。
土手まではまだ百歩以上の距離があった。
前進しながらも、兵たちは村の土手の陰を警戒するように視線を走らせている。
その様子を見て、馬上のヴァイスが嘲笑を漏らした。
「怯えるな! 村の連中が持っているのは、せいぜい狩猟用の弓か粗末なクロスボウだ! そんなナマクラ、届くのはせいぜい五十歩がいいところだ!」
ヴァイスは長剣を振り上げ、街道に響き渡る怒声を張り上げた。
「百歩離れていれば矢など届かん! かすり傷一つ負わんわ! 土手を越えて皆殺しにしてやれ!」
号令を受け、二十名の隊列が足並みを揃えて前進してくる。
五十歩の射程外を保ち、街道の雪を蹴立てて、槍の穂先が除雪土手へ向けてじりじりと迫る。
高台の岩陰に伏せ、俺はその光景を静かに見下ろしていた。
土手からも街道からも見えない位置だ。
呼吸を整え、意識を内なる武器庫へ沈めた。
第3階層の奥、すでに開放された鋼鉄の隔壁の棚へと手を伸ばす。
冷たい空気が渦を巻き、右手の空間がわずかに歪んだ。
重厚な感触とともに、黒光りする小銃が手のひらへ滑り込んできた。
ボルトアクションライフル。
金属と機械油の匂いが、鼻腔をかすめる。
木目が締まった銃床は滑らかで、手袋越しにしっかりとした重みを伝えてくる。
機関部のボルトハンドルは、すでに前夜の試射のあと、しっかりと押し込まれ密閉されていた。
薬室には金属薬莢が装填済みだ。
手動のボルト操作だけで排莢と次弾装填を行える、連射可能な近代兵器。
五十歩のクロスボウや、七十歩のマスケット銃とは次元が違う。
村の連中には、古代の遺物魔導としか伝えていない。
ライフルの構造や火薬の知識を明かす必要はない。
今この場所で必要なのは、理不尽に境界を越えようとする強奪者を完全に叩き潰す力だけだ。
俺は岩肌に銃身を預け、姿勢を低く伏せた。
右肩に木製銃床を強く引き当てる。
冷気の中、銃身前方の照準金具の突起と、手元の刻みを合わせた。
視線の先、百五十歩彼方の街道。
雪を踏みしめて前進してくる二十名の隊列。
その中央で誇らしげに掲げられた、伯爵家の軍旗。
そして、馬上で傲慢に長剣を掲げるヴァイスの姿。
俺は息をゆっくりと吐き出し、引き金へ人差し指を添えた。
岩陰に伏せたまま、冷たい銃口を街道の隊列へ向ける。




