第17章:手から零れ落ちるもの
天色が酷く陰り、重く低垂していた。
厚い灰雲はまるで、汚水をたっぷりと吸い込んだ巨大な海綿のように、古い工業倉区の上空を重苦しく圧迫し、もともと破敗していたエリアをいっそう沈悶で死寂なものへと変調させていた。風はここで完全に道に迷ったかのようで、どうあがいても吹き込んでこない。空気には終始、拭いきれない湿った鉄錆の臭気が立ち込め、ねっとりと鼻腔へと侵入してくる。それは、無数の年月が経過しても散りきらない古い血のようで、冷硬で腐朽した質感を帯びていた。
飛と舞が北側の倉庫街に足を踏み入れた時、時刻はすでに正午に接近していた。
だが、この場所に正午らしい暖意は一微ミクロンも存在せず、むしろ遠くから見るよりもはるかに圧迫感に満ちていた。高そびえるコンクリートの壁体が互いに交錯し、接続され、まるで巨大な迷宮を形作っている。それは所々に残されたわずかな日の光を、狭く、惨白な灰白色の光斑へと切り裂き、油垢にまみれた地面の上に斑模様に投げかけていた。飛が頭を上げると、大量の廃棄されたレールや吊装軌道が空中に懸垂しているのが見えた。長年の錆蝕によってそれらはねじ曲がり変形し、陰沈な天幕の下で縦横無尽に交錯して、まるで生錆びた鋼鉄で織り上げられた巨大な蜘蛛の巣のようだった。
周囲は異様なほどに静まり返っており、自分たちの靴底が細かい砂利を踏みしめる細かな「ササッ、ササッ」という物理音だけが、耳障りなほど明瞭に響いていた。
舞が先頭を歩いていた。
彼女は相変わらず、あのシンボリックな深紅の忍者装束を纏っている。鮮烈な紅は、この灰敗した廃墟のレイヤーにおいて、まるで頑固に燃え続ける一団の火炎のようだった。彼女の動作は極めて軽く、そして安定しており、前進するステップに合わせて腰肢が微かに起伏し、驚異的な体幹の発力を証明していた。あの暗銀色の短杖は彼女の手の中に逆手に握られ、半透明の杖身の内部では、あの淡いブルーの液体が極めて緩慢に、均一なテンポで流動し、光線の乏しい倉区の中で、かすかな幽藍の光芒を放っていた。
飛は彼女の側後方にぴったりとついていった。彼の右手は終始、スーツのポケットの中に差し込まれたままで、掌にはすでに細かな汗がにじみ、電力量残り15%のスマートフォンを死に物狂いで握り締めていた。
昨晩、隠れ家に戻った後、彼はベッドの上で長い間リプレイ(復盤)を繰り返していた。あの突発的に世界の動きが遅くなる瞬間。無限に拡大される攻撃の軌道、筋肉の駆動方式、そして危険の最も深いデッドスペースに潜む、完璧なバグ(隙)。危険がエンカウントした瞬間、すべては分解されたアーキテクチャの図面のようにクリアに視認できる。だが、そのプロセスが終了し、世界が正常なフレームレートに戻った途端、それらの貴重なアセット(記憶)は、まるで砂地にぶちまけられた水のように迅速に脳細胞から失われ、ただの曖昧な残像へと書き換えられてしまうのだ。
論理の痕跡を重んじるチーフエンジニアとして、飛はそのような制御不能な喪失を極めて嫌悪していた。
「脳のメモリがすべてを記録しきれないなら、物理デバイスにセーブして残すまでだ」彼は昨夜、暗闇の中で自分にそう言い聞かせた。
だから今日、彼は試してみたかった。もしあの減速の世界にエントリーした時、スマホの撮影モード(カメラ)をアクティベートしてそれらのモーション(動作)をシャッターを切ったなら、一体何が起きるのか? あの液晶の画面は、時間の断裂点をそこに死に物狂いで永久固定できるのだろうか。
「ここよ」
舞のステップが、突如としてぴたりと止まった。
彼女は短杖をわずかに持ち上げ、前方にある一箇所の断裂帯を指さした。そこは半ば崩落した古い積載プラットフォームで、鉄筋がコンクリートの破断面から剥き出しになり、まるで一列の返しのついた棘のようだった。そしてプラットフォームの後方では、一条の生錆びた重型レールが歪みながら下方へ延び、まっすぐに真っ黒な地下構造の中へと隠没していた。遠くから見れば、それはまるで廃墟の中に伏せる巨獣が、錆びた深淵の顎を開けて待っているかのようだった。
「昨日、私たちはこのフィールドには来なかったわ」舞は声を低く落とした。束ねられた黒髪のポニーテールが風に揺れ、その清らかな瞳には、前代未聞の最高レベルの警戒モードが灯っていた。「ここは深すぎるわ。地下のトポロジーは複雑に入り組んでる」
飛は前へ進み、彼女の傍らに立ち、その地下へ続く軌道を見下ろした。内部は真っ黒な一団であり、カビ臭い陰冷な湿気が這い上がってきていた。
「確かに、人間を隠匿するには最適なロジックだな」飛は頷いた。声は少し掠れていた。彼の視線はゆっくりと周囲の廃棄コンテナや巨大な構造物の陰をスキャンした。「そして――待ち伏せ(アンブッシュ)を仕掛けるのにも、最適だ」
どういうわけか、飛の首の後ろの皮膚の産毛が、突如として強制的に総立ちになった。
空気の中に、極めて淡く、しかし人の全神経を不快にさせる強烈な不協和音が存在していた。 静まり返りすぎている。完全にデッドサイレンスだ。このような放棄された工業区であるなら、多少は風が鉄皮を叩く物理ノイズや、鉄筋が温差によって軋む構造音が聞こえてしかるべきだ。それなのに今の周囲は、まるで何者かによって事前にボリュームを完全にゼロに絞り込まれたかのように、大自然に属するすべての音声を死に物狂いで圧迫していた。
飛の眉が瞬時に中央へと固く結ばれた。職業的な直感が、彼の胸の奥で最大級のアラートを鳴り響かせる。
次の瞬間だった。
ヒュン――ッ!!
極めて鋭く、凛冽な破風の物理音が、突如として彼らの頭上の高所から爆発した!
この一万分の一秒の刹那、飛の首の後ろの皮膚はまるで一条の氷冷な毒蛇に強く噛みつかれたかのように変調し、あの「危険を先読みする」遅延感知が、完全に暴力的なパルス(衝動)によって覚醒した!
彼の視野は、瞬時に一歩ずつ引き延ばされた。 本来なら危険の激流によって超高速で流動するはずの時間軸が、彼の瞳の中において突如として減速し、まるで粘稠な蜂蜜の沼の中で足掻くかのように変わった。空気中の、本来なら肉眼で視認できないはずの細かな塵埃が、一条一条の明確な軌道を描いて空中に極めて緩慢に浮遊している。頭上のあの生錆びた鉄骨が振動によって剥離させた鉄屑が、一粒、一粒、重力に逆らうかのような生硬なモーションで下方へと墜落していく。 そして、あの電線の上から凌空で墜下してくる黒衣の暗殺者。彼の下落する角度、脚尖がバランスを調整するために発した極めて細微な筋肉の痙攣が、飛の目には、完完全に分解されたアニメーションのフレーム(コマ)のように映し出されていた。
「左だ!!」
飛は猛然と口を開いた。時間の引き延ばしのせいで、彼は自分がこの二文字を吐き出した時、喉の奥が低く、歪んだ共鳴を鳴らしているのをリアルに感じていた。
そしてほぼ同時のタイムスタンプにおいて、舞の肉体は、まるで事前にそのコマンドを受信していたかのように、鏡界の原住民たるあの不条理な瞬発力を爆発させた。彼女の小腿の筋肉が一瞬で膨張し、その一身の緋色は一条の紅い残像と化して、強引に左側へと一メートル以上滑り込んだ。
ギィィン――ッ!
雪色の短刀が舞の肩の装束をかすめ、剥き出しのコンクリートの床に、これ以上ないほど刺すような火花と金属摩擦の悲鳴を炸裂させた。
一撃のエラー。だが、デッドスペースの影の中から、さらに高密度な足音が突如として明滅した。 直後、第二のシルエットが廃棄コンテナの陰からポップアップし、続いて第三、第四……。
これらの掃除屋たちのフレームレート(速度)は、完全に人間の限界を凌駕していた。一切の無駄口を省いたそのモーションは、まるで殺戮のプログラムを書き込まれた精密な自動機械のように、四方向から同時にパッキング(包囲)を仕掛け、一瞬にして二人のエスケープルートのすべてを完全にロックした。
舞の瞳の光は、一瞬にして冷徹な氷へと変調した。清らかな瞳孔の奥に、燃え盛る戦意の火炎が点火される。彼女は後退を選択しなかったし、恐怖のパラメータもゼロだった。
彼女の白く細い掌が、短杖のグリップの上で猛然と一回転した。
ブゥゥン――ッ!!
低い、直接骨格へと伝わる周波数の震鳴が瞬時に四方に拡散し、短杖の内部のあの淡いブルーの液体は狂暴に沸騰、流動し、この薄暗い倉区を一瞬で不気味な幽藍の色彩へと染め上げた。
次の瞬間、あの鮮烈な緋色のシルエットは、自らその無数の刃の風の中へと突撃していった。
彼女のスピードはあまりにも速く、空中には重なり合う紅い残像が展開され、乱雑な重機やコンテナの陰の間で激しく明滅を繰り返した。短杖が振り下ろされるたび、そのポジショニングは一分一寸の狂いもなく、空中へ幽藍の美しい弧線を一条一条描き出しては、敵の突き出してくる短刀と激しく正面衝突し、重い金属音を響かせた。直後、彼女はしなやかな錯身(折れ曲がり)で刀背を強引に圧迫し、相手のパワーを利用して側面に一記の鞭腿を放ち、もう一側から包囲を試みていた黒衣の男を力任せに強制後退させた。
飛は少し後方の、安全なコンテナの陰に立っていた。
彼の呼吸は完全にその周期を乱し、胸腔の中で心臓が肋骨を激しくノックしていた。あの「世界がスローモーションに墜ちていく」感覚は、周囲の危険のパラメータが上昇を続けるせいで、一波、また一波と、彼の全神経を暴力的に洗浄し続けていた。
刃の風や拳脚の軌道が、自分のプロテクト領域(安全圏)に接近を試みるたび、世界は強制的に減速する。 彼はあの暗殺者たちの、0.1倍速のモーションの中のあらゆる細かな隙間をクリアに見ることができた。
――今だ!!
飛は奥歯を噛み締め、迅速に右手をスーツのポケットから引き抜いた。あの光滑なスマートフォンの筐体が掌の中で、微弱ではあるが明確なバックライトの白光を放っていた。
液晶の表示。 残り電力:14%。
「リソースは十分だ!」飛は胸の奥で低吼した。
彼は肉体の酸痛を完全に無視し、直接カメラモード(撮影)をアクティベートすると、その真っ黒なレンズのモジュールを高く掲げ、前方のフィールドで激しい戦闘を展開している黒衣の群れへと真っ直ぐにロックした。
次の瞬間、視界の中の一人の掃除屋が突如として肩の軸を沈め、脚掌で床を強く掴み、何の前触れもなく同伴者のカバリングを利用して、舞の側後方の死角へと陰険な突進(突刺)を開始した!
飛の視野は、再びあの絶対的なスローモーションへと墜落した。 今回、彼の全精神は前代未聞の密度で集中しており、彼はあの小さなスマホの画面越しに、あの暗殺者が手首を発力させる前、小臂の筋肉組織が引き締まり、微細な収縮の紋様を描き出すプロセスを、一寸の狂いもなくクリアに視認していた。
「後ろだ!!」
飛は引き延ばされた声帯を震わせて叫んだ。
舞の肉体は、ほとんどその音声の波形を受信したのと同時に、物理の慣性を無視した折れ曲がりを完了させ、上半身を一瞬で低く沈み込ませた。
ヒュン――ッ!
幽藍の寒芒を帯びた短刀が、彼女の束ねたポニーテールの黒髪をかすめるようにして虚空を切り裂いた。凛冽な刀風は、彼女の黒い髪を数本切り落とし、それらは空気の中でゆっくりと漂散していった。
そして全く同じタイムスタンプにおいて、飛の右手の親指の指先も、スマートフォンの液晶のシャッターボタンの上に、確固たる力で、死に物狂いに押し下げられた。
パシャ。
極めて軽い、疑似的な電子の快門音(シャッター音)が、この減速の世界の中で、変調した引き延ばされた響きとなって落ちた。
だが、画面の上のアセット(画像)は、瞬時に定格された。 あの暗殺者の陰険な突刺のモーション、刃の先端とポニーテールの黒髪の間の、わずか一センチメートルにも満たない絶対的な隙間が、この一筋の白光によって、完璧に、そして鮮明にレコードされていた。
飛はそのディスプレイの上のクリアな画像を見つめ、心臓が突如として激しく一拍だけスキップし、直後、狂喜の奔流が胸の奥から湧き上がってきた。
本当にセーブできる! このフィールドの仕様はどれほど詭異であっても、現代文明のデバイスは、依然としてここの「現実」を強引に定格できるのだ!
飛の眼光は完全に変調した。あの一抹の中年男性の局促さは完全に蒸発し、代わりに、極めて理性的な、熱狂を帯びたチーフエンジニアの光がその眼窩に灯っていた。彼はまるでサーバールームで中核のバグをデバッグしているアーキテクトのように、絶えず一歩ずつステップを動かしてアングルを最適化し、狂ったようにシャッターボタンを押し下げ続けた。
パシャ。 パシャ。
強制的にあの遅延世界にエントリーするたび、彼はその多めに出力された400ミリ秒の知覚を利用し、スマホのレンズで敵のあらゆる攻撃モーションの鍵となる瞬間を的確にキャプチャーしていった。 それらは本来なら一筋の黒い残像に過ぎず、普通の人間なら認識することすら不可能な超高速度の連撃や刺殺。 だが、この一枚、一枚と定格され、連拍(連写)として記録されていく写真データ(ログ)の前には、それらのモーションは一寸ずつ解体され、白日の下に晾し者にされていった。
画面の上の画像を展開していくことで、飛は、これらの黒衣の奴らの連携プロトコル(規則性)を、少しずつ読み解き始めてすらいた――それは、厳格なまでに硬直した、一つのロジックの公式だった。誰が高頻度のラッシュで舞の閃避フレームを圧迫する役割なのか。誰が側翼でフェイント(偽動作)を繰り返し、彼女の重心のパラメータを強制変更させているのか。そして、誰が毒蛇のように最後の死角にハイドし、本当の致命的な、一切の音声のない一撃を繰り出してくるのか。
他人の目には血生臭い残虐な格闘に映るであろうこの光景も、今の飛の目には、すでに脆弱性に満ち溢れ、自分が一行一行デバッグしている最中のソースコードと大差なくなっていた。
しかし、現実の世界のレイヤーにおける激戦は、飛が規則性を看破したからといってイージーモードになるわけではなく、むしろ一歩ずつ、その狂暴さを限界まで引き上げつつあった。
舞は密度の高い刀光の中で翻転し、騰躍していたが、その精致な横顔には重い沈黙が張り付き、呼吸はすでに明確に異常なほど重くなっていた。彼女は敏锐に、今日のこの包囲網の違和感を検出していた。 奴ら、今日のエントリー人数は昨日よりもはるかに多く、そして、完全に狂っている。 何よりも、あいつらの目的が書き換わっている。もはや以前のように一撃で命をデリートしようとはせず、まるで巨大な、粘稠な漁網のように、自傷行為に近い打法を繰り返して、彼女と飛の二人のステップを、じわじわとプラットフォームの断裂面のエッジへと引き摺り下ろそうとしていたのだ。
「飛の兄さん!」
舞は短杖の一撃で暴烈な幽藍の光芒を爆発させ、前方の二振りの短刀を力任せに震退させると、唇を惨白に震わせて低吼した。「近くにスタンドしちゃ駄目! 後ろにエスケープして!」
飛はスマホを内ポケットに収め、ステップをリセットして後退しようとした。
だが、彼の視線が全く届かないデッドスペースの底流において、一人の本来なら床に転がっていたはずの掃除屋が、突如としてスプリング(弾頭)のように猛然と跳ね上がった。その瞳には冷酷な光が明滅し、餓狼が獲物を貪るかのようなモーションで、側面の死角から一直線に飛の腰のレイヤーへと撲を仕掛けてきたのだ!
「うわっ!」
飛は顔色を激変させ、身体は本能的な恐怖によって強引に後退(闪避)を試みた。だが、彼の肉体スペックはあまりにも「脆弱(脆い)」すぎた。長年オフィスデスクに拘束されてきた中年男性の肉体は、高速の移動において全体の重心を完璧にコントロールすることなど、最初から不可能な仕様なのだ。
靴底がツルリと滑った。彼の一足のカスタム革靴は、油垢の浮いた一枚の断裂した鉄軋鋼板を力任せに踏みつけてしまっていた。
巨大な失重のパラメータが瞬時に襲いかかり、飛の身体は猛然と後方へ倒れ込んでいった。
そして、その極度の慌乱の断点において、彼のスマホを握っていた右手の五指が、無意識のうちにふっと緩んでしまった。 あの彼らの唯一の希望をロードし、まだ微弱なバックライトの蛍光を放っていたスマートフォンが、彼の指先を離れ、そのまま空中へとフリップ(脱手)していったのだ!
「しまっ――!?」
飛の眼窩は恐怖のあまり引き裂かれそうになった。彼は見てしまった、スマホが空中で二回転ほどフリッピングし、直後、氷のように冷たいコンクリートの地面へと重く激突し、その光滑な床の上を、プラットフォームのあの深すぎる断裂面のエッジに向かって、一直線に滑落していく光景を。
飛の顔色は一瞬にして完全な惨白へと変わり、脳内からは呼吸のコマンドすらもが完全に蒸発した。あの中には、彼がさっきレコードしたばかりの写真データがある。この世界に関する絶対的な証拠がある。何よりも、それは彼とあの「正常な世界」を物理的に繋ぐ、唯一の臍の緒なのだ。
ほとんどいかなる損得勘定も経ない本能のまま、彼は身体全体をそのまま前方へと地面に投げ出し、手首を限界まで引き伸ばして、あの深淵に落ちようとしているスマートフォンを死に物狂いで掴み取ろうとした。
そして、まさにこの一瞬の完全な無防備の断点において。
もう一条の、極めて凛冽な、死の腥気を帯びた寒芒が、飛の完全な視覚のデッドスペースから、毒蛇が巣穴を出るかのような超高速度で、彼の完全に無防備になった背中のレイヤー目がけて、狂暴に斬り下ろされた!
あの一刀。もしホールド(直撃)すれば、飛の肉体は、その場で真っ二つにデリートされる。
少し離れたフィールドでその光景を眼端の余光に捉えた舞は、その一対の清らかな瞳孔が、万分の一秒の刹那に針の尖のように収縮し、心臓が何者かの手によって木っ端微塵に粉砕されたかのような激しい精神のエラーを起こした。
「飛の兄さん――っ!!」
彼女の声帯から引き裂かれた悲鳴が迸った。音声は極度の恐怖によって、完全にそのトーンを歪ませていた。
この一瞬。あの赤雀村のあらゆる掟。戦闘において常に自分のフレームを維持しなければならないというあの格闘のプログラム。それらのすべてが、あのボロスーツを着た中年男性の命を前にして、彼女の脳内から一瞬で完全に叩き割られ、消去された。
彼女は一切の躊躇(試行)を選択しなかった。万分の一秒の天秤にかけることすら拒絶し、彼女の小さな肉体は、空中において物理の慣性を完全に無視した、強烈な方向の折れ曲がり(強制変向)を稼働させた。
本来なら前方の敵を強く押さえ込んでいたあの完璧な攻守のフォーメーションを、彼女は自分の力で、強引に、そして暴力的に破砕したのだ。
背中のレイヤーを完全に敵の刃の前に露出しながらも、彼女はそれを一微ミクロンも気に留めることなく、身体全体を一筋の燃え盛る紅いラインへと変調させ、一直線に、地面に向かって撲を仕掛けていた飛の身体へと衝突していった。
ドガァッ!!
鈍い、肉体同士の衝突の物理音。
飛は、一塊の温かい、緊密でありながらも巨大な偉力が、自分の側腹部にまともに激突したのを感じた。身体は地面の上を横方向へ半メートル以上も狼狽に滑っていった。だが、その無様なローリングの中で、彼の右手の五本の指が猛然と床のコンクリートを掻き毟り、爪の隙間から血の跡が滲み出たものの――ついに、最後の一センチメートルの極限の境界線上で、あの滑落しかけていたスマートフォンを死に物狂いでグリップした。
「掴んだ……っ!」
彼が歓喜のログを出力するよりも早く、耳元に、舞の短い、圧迫された呻き声が飛び込んできた。
さっきの、あのすべてを投げ打った強烈な衝突のせいで、舞は飛を刃の風の下から強引にエスケープ(プロテクト)させることには成功した。だが、彼女自身の重心パラメータは完全に崩壊し、身体は巨大な慣性のまま床へと激しく倒れ込んでいった。そして、本来なら包囲を仕掛けていた掃除屋たちは、この千分の一秒の完璧な空白を逃すはずもなかった。数柄の重兵器が、彼女の手首のレイヤー目がけて、容赦なく力任せに振り下ろされた。
ズガガァンッ!!
激しい、骨肉と金属の衝突の物理音の中で、舞の、これまでどんなフィールドであっても決して手放すことのなかった、指節が惨白になるほど握り締められていたその掌が――ついに、巨大な衝撃の応力によって、強制的に開かされてしまった。
あの、常に彼女に寄り添い、彼女が自分の命の継承としてプロテクトし続けていた暗銀色の短杖が、この一瞬、完全に脱手して空中へと跳ね上がった。
――。
舞の顔色から、一瞬にしてすべての色彩が蒸発し、完全な惨白へと書き換わった。
あの手杖は空中で、一条、また一条と、氷のように冷たい、幽藍の回転軌道を記述していく。この薄暗い倉区のフィールドにおいて、そのビジュアルは酷く凄惨に見えた。
飛は無意識に頭を持ち上げた。
時間という概念が、この最も致命的なデッドスペースの節において、再び無形の偉力によって、狂暴に引き延ばされた。 周囲のすべての音声が再び引き伸ばされ、変調していく。飛は片手でスマホを強く握り締めたまま、身体は床に伏せた姿勢のまま、自分の頭上の斜め上方の虚空から落下してくるあの短杖の軌道を見つめていた。彼の頭脳は、いかなる合理的なトレードオフ(権限の比較)を行う時間すら与えられていなかった。
彼の左手が、まるで独自の意思によって動かされたかのように、本能的に、真っ直ぐに上へと突き出されていた。
彼の掌のド真ん中が、完璧なアライメントで、あの回転する短杖のグリップの表面を死に物狂いにホールドした。
入手の瞬間。伝わってきたのは、以前のあの潤いのある温かみではなかった。
――ズ、ズ、ズゥン。
低い、まるで魂の最深部の地層から爆発したかのような古びた震鳴が、飛の掌のノードの中で瞬時に爆裂した。短杖の内部のあの淡いブルーは一瞬で浅ブルーへと変調し、直後、沸騰した乳白色の濁流へと相転移し、壁面に激しく衝突を繰り返す。
世界は、この一万分の一秒の断点において、突如として完全な真空へと墜落した。 掃除屋たちの荒い呼吸の声も、金属が擦れ合う物理音も、この一瞬、すべてが完全に世界から消去された。
飛の瞳孔は、一瞬で針の尖のように収縮した。
あの、全細胞を恐怖させる狂暴な拉致の偉力が、いかなる前奏も、いかなる猶予も許さずに、再び轟然と降臨したのだ!
彼の左手が一歩ずつ透明に変わり、皮膚の下の骨格と血管が、無意味に明滅するデジタルデータのブロックへと姿を変えていく。周囲の空気は狂ったように歪み、折れ曲がり、空間は一枚の古い紙切れのように、虚空から伸長してきた見えない巨手によって、強引に漆黒の亀裂を引き裂かれていった。
「いや……っ!!」
舞は少し離れた床の上で、身体を伏せたまま、飛の肉体が再び砂嵐のようなモザイクとなって崩壊していく光景を、その両目で死んだ魚のような、しかし激しい絶望の目で直視していた。 この一瞬、このどんな時でも一枚の氷のように冷静だった少女は、その生涯において初めて、完全な精神の防衛線を引き起こした。彼女の目の縁は一瞬で真っ赤に染まり、涙が津波のように眼窩から溢れ出た。彼女は全細胞の残リソースを力任せに爆発させ、手脚を狂ったように動かして泥土を這い、飛のいる場所へ死に物狂いに撲を仕掛けた。
その剥き出しの絶望は、まるで世界で唯一の繋がりを失おうとしている、瀕死の孤狼のようだった。
だが、空間が破砕し、デタッチ(転移)が執行される速度は、彼女のフレームレートよりもはるかに速かった。
彼女の指先は空気の中で必死に前へと伸ばされ、届くことを求めて足掻いたものの――。 あと数センチメートルという絶対的な死角の距離を残したまま、飛のスーツの衣襟に触れることは叶わなかった。
次の瞬間だった。
飛の身体は、彼女の指先の前で、あの狂暴に明滅する白色のノイズ光斑を伴いながら、驟然として、完全に消滅した。
まるでこの世界の物理法則によって、一枚の巨大な消しゴムを使われ、その場から冷酷に、そして徹底的にデリートされたかのように。空気の僅かな擾乱すら、そこには残されていなかった。
そして、主のホールドを失い、飛とともに空中へと引き上げられていたあの暗銀色の短杖は、拉致の偉力が消失した後の絶対的な真空の中で、力なく、斜め下方へと墜落していった。
チィィン――。
極めて清らかで、しかし言いようのない孤独な回響を伴った金属の衝突音が、静まり返った古い倉庫街の中に、寂しく広がっていった。
音声が、戻ってきた。 湿った冷風が再び咆哮を上げて倉区の中に吹き込み、地面の埃を巻き上げ、それらは極めて緩慢に、先ほどまで飛が伏せていたあの泥土の上に、再び無機質に降り積もっていった。
だが、あのダークブルーのスーツを着た中年男性の姿は、すでにどこにも存在しなかった。
舞は埃にまみれた床の上に呆然と膝を突き、その身体は、まだ必死に手を伸ばして彼を掴み取ろうとしていたあのモーションのまま、硬直していた。
彼女の指先は冷たい空気の中に浮いたまま、激しく、ガタガタと震え続けていた。 だがそこには、ただ吹き抜ける夜風があるだけで、もう何も残されていなかった。
彼女の、これまでどんな過酷なフィールドであっても冷徹なブレードのようだったその瞳は、この一瞬、その生涯で初めて、大きく広がる、まるで灰のような無神と完全な空白へと沈み込んでいった。 胸の奥の、あの細い、張り詰めていた糸が、この一秒間の断点において、轟然と断裂し、血肉の滲む空洞をそこに残した。
しかし、現実のレイヤーのタイムラインは、傷痛に対して一微ミクロンの猶予も与えはしなかった。
次の瞬間だった。
バリバリバリ――轟!!
人間の鼓膜を粉砕せんばかりの巨大な物理破壊音が突如として背後から爆発した。彼らの後方にそびえ立っていたあの斑模様のコンクリートの灰壁が、強烈な外力によって猛然と叩き割られ、無数の尖鋭な破片とレンガのクズが、激しい豪雨のように四方へと飛散した!
数道の、陰惨な殺気をまとった漆黒のシルエットが、漫天の煙塵の中から、ほとんどタイムラグなしに同時に突入してきた!
舞の肉体は、忍者としての長年の条件反射によって、本能的にその意識を覚醒させた。
だが、先ほどのあの魂の半分を毟り取られたかのような巨大な失神は、すでに彼女の精神のプロテクトに致命的な脆弱性を発生させていた。彼女の格闘のリズムは、この一瞬で完全に崩壊していたのだ。
シャララランッ!!
数条の、返しのついた氷のように冷たい精鉄の鎖が空中できれいな弧線を描き、調整されることなく、極めて容赦なく、彼女のまだガードを構えきれていない手首のノードを強く締め上げた! 同時のタイムスタンプにおいて、左右の黒衣の男たちが密着し、二双の、分厚いタコにまみれた力任せの手掌が彼女の肩の軸を強くホールドし、床へと強制下圧をかけた。
「――滾ろっ!!」
舞の喉から、瀕死の孤狼のような凄まじい低吼が迸った。全身の緋色の布地が、一瞬で彼女の爆発させたパワーによって激しく獵獵と鳴り響いた。彼女は強引に驚異的な腰腹の発力を稼働させ、左側の鎖を巻き付けていた敵を一腕で力任せに放り投げ、右脚は空中へ凌厲な弧線を描いて、もう一側の襲撃者のゴーグルを正面から完全に粉砕した。
だが、さらに多くの漆黒の影が、いかなる悲憫のパラメータも持たずに、潮水のように幾重にも圧迫をかけてきた。
彼女の両手と両脚は、すぐにさらに多くの氷のように冷たい鎖によって一重、また一重と強く緊縛され、金属のラッチがロックされる絶望的な「カチャリ」という物理音が響いた。
彼女は、自分を制圧している掃除屋たちの顔など一瞥すらもしなかった。 彼女の、泥土と涙に汚れたその顔は、強く右側へと偏向し、その血走った瞳は、先ほど飛が完全に消失したあの泥土の空間を、狂ったように凝視し続けていた。彼女の喉からは押しつぶされた悲鳴が漏れ、なおもその脚で床を 掻きながら、あの何もない空間に向かって這い進もうと足掻いていた。
次の瞬間だった。
周囲の、あの激しい鎖の擦れ合う物理ノイズが、一瞬にして唐突にボリュームを下げていった。
舞を強く押さえつけていたすべての掃除屋たちが、全く同じ一秒の断点において、整然と掌の力を緩め、それから恭しく頭を垂れて、両側へとステップを退いた。
重く、そしてゆっくりとした足音が、破壊された灰壁の向こうの、暗い煙塵の深部からゆっくりと響いてきた。
黒笠。
あいつは相変わらず、あの残破な、風に微かに巻き上がる漆黒の長袍を纏い、巨大な黒笠の縁を極めて低く押し下げ、顔の大部分を濃密な陰のデッドスペースへとハイドしていた。あいつのステップは決して速くはなかった、むしろ庭園を散策するかのような気楽さだったが、一歩踏み出すたびに、足元の砕けたコンクリートの破片が完全に粉末へと踏みつぶされ、その身体からは、周囲の気圧を一瞬で氷点下へと叩き落とすかのような、深淵のごとき絶対的な威圧感が放射されていた。
舞は強くあいつを睨みつけた。唇は自分の歯によって激しく噛み破られ、鮮血が滲み出ていた。その瞳の憎悪の光は、実体のあるブレードとなってあいつの喉を掻き切りかねないほどだった。
だが黒笠は、舞を見ることはしなかった。彼女の存在など最初から関知していないかのようだった。
あいつはただステップを止め、飛が完全に消失したあの泥土の前に立ち、ゆっくりと、その少し佝僂でありながらも恐怖のパラメータに満ちた身体を折り曲げた。
あいつは一枚の黒い皮革の手袋をはめた手を伸ばし、極めてエレガントに、ゆっくりとした動作で、泥土の上に転がっていたあの暗銀色の短杖を、ゆっくりと、その手の中へと回収した。
杖身の内部、あの淡いブルーの液体は、先ほどの暴烈な沸騰を経て、今は再び完全な死寂を取り戻し、極めて緩慢な周期で流動しながら、かすかな、虚飾に満ちた幽藍の微光を放っていた。
黒笠は短杖を掌の上に載せ、その陰冷な夜風の中で静かにしばらくそれを見つめていた。 黒笠の陰の死角からは、いかなる表情のログも読み取ることはできなかった。
風が、さらに激しさを増し、古い工業区の高所にある廃棄鉄皮をパチパチと叩いて、世界の瀕死の悲鳴のような細い音を響かせていた。
あいつはついに、わずかにその黒紗に隠された頭を持ち上げた。 窓の破れ目から漏れ落ちてきた惨白な光線が、ちょうどあいつの、少し過剰なまでに青ざめた、どこか病的なまでに冷徹な顎のラインを一度だけ照らし出した。面紗の陰のその輪郭は、いっそう陰森で神秘的なパラメータを帯びていた。
あいつは言葉を発しなかった。ただ短杖を衣服の奥へと収めると、身を翻し、無尽の暗黒の深部へと、一歩、一歩と、静かに歩み去っていった。
そして舞は、完全に床の上に崩れ落ちたまま、あの発光する聖器が暗闇の奥へと連れ去られていく景色を見つめていた。彼女の身体からは一寸ずつ、すべてのパワーが蒸発していった。あの一対の、かつてはブレないブレードのようだった瞳は、この一瞬、完全に、光の届かない絶望の深淵へと沈没していった。




