「ユリーがそれをお望みなら」――エルザ・フラシャリ外務大臣は言った
「……では、みなさんもそれでよろしいですね?」
ユリアナが問いかけると、フルバツカ国全権使節団の女性たちは苦い顔のまま頷いた。
「ありがとうございます」
ユリアナは自らの名をその紙に記した。
「これを持って、イリリア共和国とフルバツカ国の賠償協定を締結とさせて頂きます。不幸な事件ではありましたが、これを乗り越え、両国の未来に向けて共に歩んでいきましょう」
イリリア・フルバツカ間における武力衝突事件に関する賠償協定が結ばれたのだった。
これによれば、フルバツカはイリリアに対し賠償として5400万レクを支払うことに合意した。
昨年のイリリアの国家予算が総額7億レクなので、かなりの額になる。もちろん、フルバツカにとってもかなりの損害だ。
そこでイリリアは、賠償金の何割かを現物で支払うことを認めた。鉄くずや工作機械、さらにはディナル山中の水力発電所の利権に交換したのだ。
その晩イリリア使節団は、協定の発効を祝ってささやかなパーティーを開いた。
「レディナちゃん、用意はいい?」
ユリアナが尋ねると、
「おう、いつでも行けるようコトルに待機させとるで」
ほろ酔いのレディナ産業相が、上機嫌に答えた。
産業省と大蔵省が招集した賠償鑑定団は、すでに国境の街、コトルにいる。可能な限り速やかに賠償金を受け取るべく、使節団がイリリアを発ったのと同時に召集された。
「例のあれはもう伝えてるよね?」
「まかしとき。いい葉巻が買えるで」
そこに、
「あらあら? 何か楽しそうなお話ですねぇ~」
ふらりと割り込んでくるものがいた。
「いやいや、大したことじゃないですよ、トクヴィル大使」
「残念ですねぇ。閣下も葉巻を嗜まれるのかと思ったのですが」
「はっはっは~」
連合王国の駐ローマ大使、シャーロット・トクヴィルの意味ありげな視線に、ユリアナは乾いた笑みを浮かべながらそれを躱すほかなかった。
その様子を遠巻きに見守っていたルカはため息をついた。
「あの人、なんだってこんなところに来たんですかね?」
「それがわかれば苦労ないわよ」
エルザもまた眉間に皺を寄せる。
「行かなくてもよいのですか? エルザ外相?」
外相、という部分を強調するルカに、エルザは首を振った。
「パス。今日は面倒事は勘弁。他人んちの家族パーティーに勝手に押し掛けてきた人のことなんか知らないわよ」
なぜ連合王国の、しかも大使級の人間が、イリリアの身内のパーティーに参加しているのか。それはこの場にいる誰もが分からないでいた。
講和条約の調印式が終わり、ホテルに帰ったロビーに一人待っていたのだ。
そして困惑するイリリア側を強引に説得して、ちゃっかりパーティーに参加しちゃっているのである。
「えっと、大使? その、お仕事の方はよろしいので?」
ユリアナは流ちょうなアルビオン語で尋ねると、トクヴィルはにこにこと笑って答えた。
「ええ。戦争も決着いたしましたし、久しぶりに休暇をいただいおりますのよ」
「それはそれは。そんな貴重なお休みにうちのパーティーにわざわざ割いて下さるなんて……」
「これでも大学時代の専門はレヴァントでしたの。当時は大戦争直前で、あのあたりはいつ爆発してもおかしくありませんでしたからね。ですから、ぜひ一度レヴァント諸国の方とお話をさせて頂きたかったのですよ」
「我々はネス湖の怪物ではありませんよ?」
ユリアナが冗談めかして言う。
「正直、イリリア人はその怪物より珍しいですわ。少なくとも我が帝国内では」
「あらあら、それは光栄、なのでしょうか?」
パーティーは、奇妙な雰囲気ながらも和やかに進んだ。初めは闖入者を警戒していたイリリア側も、トクヴィルの朗らかな態度に毒気を抜かれてしまったらしい。
彼女が再び爆弾を落としたのはそのころだった。ちょうどイリリアの開発政策に話題が及んだ時、彼女は言いのけたのだ。
「実は、イリリア開発銀行の株式を購入したいと考えていますのよ。300万ポンドほど」
「ごふっ!?」
何の気のなしに放っただろうこの言葉のせいで、ユリアナはワインを気管支に直行させ、レディナは口に入れようとしたチーズを思い切りエルザの顔面に向かって噴き出した。
「さ、さんびゃぐおふぁっ!! おえっ!」
「さ、三百万ポンドですか!?」
陸でワインに溺れているユリアナの代わりに、ルカが聞き返した。
「ええ。今日今すぐというのも難しいでしょうが、早くに」
「なななななぜ?」
「あら、ご存じない? イリリア開銀は我が国の投資家の間では話題になってますのよ? あいにくローマの株式市場でしか取引されていないらしいですけれども」
イリリア開発銀行は、政府が出資して設立した銀行だ。主にイリリア国内の地主、資本家に安い利子で貸し付けを行い、産業の発展と機械化、近代化を支援している。
銀行である以上金が必要であり、イリリア開銀は株式を発行して必要な資金を調達していた。といっても、イリリア国内にはそんな金はない。頼るのは外資だ。
開銀は設置当初から、主にエトルリアの資本家向けに株式を発行している。イリリア政府が出資しており、かつエトルリア政府が購入を奨励してくれているので人気は上々。多額の資金を集め、イリリアの殖産興業に貢献している。
「し、しかし、300万ポンドなんて大金、貴方個人から……」
「これでも資本家としてそこそこ成功しておりますの。大恐慌のせいで大損してしまいましたが、そろそろその負けを取り返さなくては、と思っていまして」
ここにきて、何とかユリアナが生還した。げほげほとせき込みながらトクヴィルの手を握る。
「大歓迎です! すぐにご用意しましょう!」
「あら、閣下自らそう申していただけるなんて」
「はっはっはー。友人を手厚くもてなすのはイリリアの伝統ですからー。ほらルカ! トクヴィル大使に新しいワイン持ってきて! 一番いいのだよ! ケチケチしないでさ」
「は、はい! 只今!」
こうして講和記念パーティーは、トクヴィルの歓迎接待パーティーへと変貌したのだった。
――――――
「で、トクヴィル大使の狙いは一体何なんでしょうかね」
「さあ? 連合王国の人間は何枚も舌を持ってるって話だし、私にはわかんないわ」
ユリアナはソファに寝ころびながら、投げやりに残り物のクラッカーをワインで流し込む。そしてソファの横に引っ張ってきた花瓶を置くための小さなテーブルの上に、チーズアソートを乗せた皿を置きポリポリとそれをつまんでいた。実にだらしない姿だったが、ルカはもう何も言わなかった。
トクヴィルが帰った後、メンバーたちはようやく落ち着いて各々の労いや食事に入っていたが、関係省庁の担当者はそんなことも吹き飛んでお仕事へ逆戻りしている。
ユリアナはと言えば、こういう時には特にすることもない為、部屋の隅で残飯処理係に徹するほかなかった。
が、ルカに捕まってしまったのである。
「300万ポンドなど、いかに投資家と言えどポンと出せる額じゃありません。それをイリリアに出すなんて」
「間違いなく裏はあるんじゃない? ポケットマネーじゃないかもね、そのお金」
現代日本で言うならば、アフリカか中央アジアの開発事業に数千万円単位の投資を行うようなものである。それこそ詐欺師が語りそうな話であり、いかに政府信用があるとはいえ、ハイリスク・ハイリターンであることに違いはない。
「連合王国政府、でしょうか」
「それは考えにくいかもねー。開銀株はエトルリア市場がほとんど独自権益として独占してたわけだし。そこにずかずか乗り込んで来るような真似はなかなかしないでしょ」
「……では本当に個人的な投資? でも」
「あちらさんも一枚岩じゃないってことでしょ」
ユリアナは、チーズをつまもうとして、空を切った。見ると、皿が空になっている。仕方なく、体を起こした。
「エルザー、ここにあったチーズってもうなくなったの?」
「ええ。残念ながら。でも代わりのものはあるわよ?」
エルザはアソートが乗っていた皿をどけると、代わりに自分がそこに座った。
「何? エルザちゃん食べていいの?」
「ユリーがそれをお望みなら」
「あー、遠慮しとく。胃もたれしそう」
「失礼ね。私はさっぱり系だし!」
ユリアナは『どういう意味だ』というツッコミを喉のところで抑え込む。話が脱線すると、ルカの機嫌が悪くなることは目に見えている。
「で、エルザちゃんが用意した、代わりのものって? 違ったら本当に食べちゃうよ?」
「ええー、私的にはそっちでもいいかもねー。っと冗談はさておき」
エルザはにやりと笑った。
「連合王国の政界及び官界と軍部はね、今二つに割れてるらしいのよ」
現在のアングロサクソン連合王国の基本的な国家方針は、自身が数世紀かけて築き上げた世界帝国の維持だ。
特に先の大戦争で産業・経済的な覇権を合衆国に奪われて以降、連合王国は広大な植民地に支えられた特権的市場に支えられているといっても過言ではない。
しかし近年のエトルリアやドイトラントの全体主義政権は、こういった世界システムに真っ向から異を唱えている。「その席に座るのは私たちだ」と。
つまり連合王国とこれら覇権的全体主義国家は潜在的に対立しているのだ。
しかしここに、大戦争の悪夢がのしかかってくる。
あの4年にわたって行われた地獄の泥沼的殺し合いの記憶が薄れるほど、20年は短くない。連合王国、というよりフランクや合衆国も含めたヨーロッパの大半の市民は、あのような大戦争の再来を忌避していた。
その世論を権力基盤とする民主議会もまた、戦争という手段をそう易々と取るわけにはいかない。
しかし、それでドイトやエトルリア、さらに人民連邦との対立関係が解消するわけでもなく……。
「つまりね、連合王国は、対立しているエトルリアとかと話し合いで紛争を解決して戦争を回避しよう、っていう宥和派と、武力を使ってでも芽は早い目に摘み取ってしまえっていう強硬派に分裂してるってわけよ」
「そして宥和派が今は優勢なんでしょ? ボールドマン首相もそっち寄りだって聞いてるし」
「まあね。現状の王国の軍備がそもそもドイトやエトルリアとの全面戦争に耐えられないし、あの国が今一番警戒してるのは人民連邦の共産主義思想なのよねー。大方防波堤にでもするつもりなんじゃないかしら?」
そういった意味で、宥和派は連合王国でもフランクでも主流にある。ユリアナはエルザの言葉を引き継いだ。
「でも、強硬派も静観しているわけじゃない」
手持ち無沙汰に髪の毛をクルクルといじりながら、ユリアナは空を睨む。
「将来的に状況が悪化して、開戦が、『第二次世界大戦』の勃発が不可避になった時に備えて、連中も連中で動いてるんだよ。イリリアは東地中海の要衝。うちを抑えれば、エトルリアは身動きできない」
「しかし、一応我が国はエトルリアとの同盟国。エトルリア勢力下にあります。そこに手を出そうとするとは」
「うちがエトルリアをそもそも信頼も信用もしてないってわかってるんでしょ。国として動いていない分自由が利くんだろうねぇ」
ユリアナはどこまでものんびりとしていた。
「でもまあ、私たちにできることは何にもなし! ありがたく投資を頂戴して、富国強兵に邁進するしかないでしょ」
「…………。そろそろ、寒くなってきましたね」
「うん。10月まで来たら、年明けなんてすぐだよ」
窓の外、ローマ市内に、若干冬の気配が混じった秋風が吹き渡っていた。
閲覧、ブックマーク、評価、コメント等本当にありがとうございます!
と言うわけでここで一度1935年編は終わりとさせて頂き、次回より新章、1936年編を始めたいなぁ、なんて考えています。あともし余裕があれば特別篇を数話ほど書きたい……、更新速度を速めろという話ですよね、申し訳ありません……。
今までは割と史実を反映させてきましたが、そろそろ自由奔放に生きようかな、もとい書きたいと思います! ぼちぼちと続けさせて頂きますので、応援の程よろしくお願い致します!




