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城壁横の古龍さんは住民票がありません  作者: 乾燥しいたけ
第一章 赤い布の内側で

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第4話 ドラゴン、寝返りにも申請がいる



ドラゴン生活二日目・朝。


俺、竜咲空。


昨日、巨大ドラゴンとして目覚めた。


人恋しくなって城壁都市レグナへ近づいた。


警鐘を鳴らされ、城壁前で事情聴取され、アルバート子爵の判断で即時討伐だけは保留になった。


そして俺は、西門外の草地で仮滞在を許可された。


正式な住民ではない。


街の中にも入れない。


住民票なんて、夢のまた夢。


それでも、森で一人きりよりはずっとよかった。


城壁が見える。


人の声が聞こえる。


煙突の煙も見える。


誰かがそこで暮らしている。


それだけで、昨夜の俺は少し安心して眠れた。


眠れたのだが。


「ソラ殿!」


鋭い声で目が覚めた。


リシェルさんの声だった。


俺は反射的に体を起こそうとして、寸前で止まった。


起き上がるな。


急に動くな。


尻尾を動かすな。


翼を広げるな。


昨日、何度も言われた。


俺は目だけを開けた。


視界の端に、城壁。


赤い布。


朝靄。


それから、赤い布の外側に立つリシェルさん。


彼女は昨日と同じように書類板を抱えていた。


ただ、昨日より少し目の下が暗い気がする。


「……おはようございます」


俺は小さく言ったつもりだった。


城壁の上の旗が少し揺れた。


リシェルさんがすぐに筆を動かす。


「起床時発声、風圧軽微。発声量、要調整」


「朝の挨拶も記録されるんですか」


「必要です」


「ですよね」


昨日から何度も聞いた言葉だ。


必要。


この街では、俺に関するだいたいのことが必要になる。


俺が息をする。


必要。


俺が喋る。


必要。


俺が尻尾を動かす。


もっと必要。


「ソラ殿」


リシェルさんが言った。


「昨夜、寝返りを打とうとしましたね」


俺は固まった。


「……打ってました?」


「未遂です」


「未遂」


「深夜二刻頃、右肩が沈み、尻尾の先が指定区域外へ出かけました」


「そんな細かく見てたんですか!?」


声が少し大きくなる。


赤い布の近くにいた兵士が顔を上げた。


リシェルさんが無表情で言う。


「発声量」


「はい」


俺は口を閉じた。


瞬き一回。


「肯定反応として扱います」


また扱われた。


リシェルさんは続ける。


「あなたの寝返りにより、赤布外の杭が一本倒れかけました。人的被害はありません」


「すみません」


「謝罪は受け取ります。ただし、再発防止が必要です」


「寝返りの再発防止って、どうすれば」


「申請制にします」


「寝返りを?」


「はい」


朝靄の中で、俺は空を見た。


異世界二日目。


俺は寝返りに申請が必要になった。


「具体的には」


リシェルさんは書類を一枚めくった。


もう作ってある。


怖いくらい早い。


「就寝前に、基本姿勢を決定します。右向き、左向き、伏せ、丸まりのいずれかです。睡眠中に姿勢変更が必要な場合は、可能な限り事前に申告してください」


「寝てる時に事前申告は無理では?」


「そのため、夜間監視者が異変を確認した場合、声かけを行います」


「起こされるんですか」


「必要なら」


「ドラゴンなのに、寝相で起こされる……」


「寝相ではなく、地形変動要因です」


「言い方が強い」


でも、リシェルさんの言う通りだった。


俺の寝返りは、ただの寝返りではない。


体高十メートル。


全長三十五メートル。


そんなものが夜中にごろんと転がったら、地形が変わる。


人が近くにいれば死ぬ。


赤い布の杭くらいなら、倒れかけただけで済んでよかったと思うべきだ。


俺は、ゆっくり息を吐いた。


上へ。


昨日教わった通り、鼻息は空へ逃がす。


朝靄が少しだけ揺れた。


「……分かりました。寝返り申請、やります」


リシェルさんは筆を動かした。


「寝返り申請に同意」


「書かれると妙に情けないですね」


「事実です」


事実は強い。


朝の確認は、それだけでは終わらなかった。


「次に、起床時の動作確認を行います」


リシェルさんが言った。


「俺、起きてもいいんですか」


「段階的に」


「起きるのにも段階が」


「あります」


まず、首だけを上げる。


次に前脚を少し引く。


その後、尻尾の位置を確認。


最後に体を起こす。


ただし、完全に立ち上がるのは禁止。


今日の予定は、伏せ姿勢と半起き姿勢の確認だけ。


「完全に立つのは駄目ですか」


「周辺への影響確認が済んでいません」


「俺、自分の家で立つ許可がない」


「ここは家ではなく仮滞在区域です」


「そこも刺さる」


仮滞在区域。


確かに家ではない。


屋根も壁もない。


ただの草地だ。


でも、昨日の夜、俺はここを少しだけ居場所みたいに感じた。


だから「家ではない」と言われると、少し胸が沈む。


リシェルさんの筆が止まった。


「……現時点では、です」


「え?」


「現時点では家ではありません。ただし、仮滞在が継続され、規則と安全が整えば、呼称は変更される可能性があります」


俺は少しだけ目を開いた。


リシェルさんは、こちらを見ていなかった。


書類を見ている。


でも、今の言葉はたぶん、俺が落ち込んだことに気づいて出たものだった。


「ありがとうございます」


「事実上の可能性を述べただけです」


「それでも、ありがとうございます」


リシェルさんは小さく息を吐いた。


「発声量は良好です」


「そこを褒められた」


少しだけ、朝の空気が柔らかくなった気がした。


俺は指示通り、ゆっくり首を上げた。


それだけで、朝靄が流れる。


城壁の上にいた兵士が二人、思わず身構える。


俺はすぐ止まった。


「停止しました」


リシェルさんが言う。


「はい」


「よろしい。次に前脚を少しだけ引いてください。地面を削らないように」


「はい」


前脚を動かす。


慎重に。


爪を立てない。


土を掘らない。


できるだけ、猫みたいに。


いや、猫はこんな爪を持っていない。


ずず、と地面が少しだけ削れた。


「あ」


城壁の上がざわめく。


リシェルさんがすぐに言う。


「停止」


俺は止まる。


「地面損傷、軽微。爪先角度が深すぎます」


「爪先角度」


「前脚を引く際、爪を立てず、肉球部分で支えるようにしてください」


「肉球あります?」


俺は自分の前脚を見た。


硬い鱗と爪の間に、確かに少し柔らかそうな部分がある。


ドラゴンにも肉球っぽいものがあるらしい。


驚きで少し尻尾が動きかけた。


「尻尾」


「はい!」


止める。


リシェルさんの筆がまた走る。


「自己身体構造への驚きにより尻尾反応」


「俺、自分の肉球に驚いただけなのに」


「それでも危険です」


「はい」


危険。


また危険。


でも、こうやって一つずつ分かっていくしかない。


俺の体は、俺が一番知らない。


リシェルさんが記録してくれなければ、何に反応して何が動くのかも分からない。


恥ずかしい。


情けない。


でも、必要だ。


「もう一度、前脚を動かします」


「ゆっくり」


「はい」


今度は爪を立てない。


肉球っぽい部分で支える。


少しだけ前脚を引く。


地面は、さっきより削れなかった。


「良好です」


リシェルさんが言った。


俺は思わず喜びそうになった。


翼がぴくっとしそうになる。


「翼」


「止めました!」


「確認しました」


危ない。


褒められても危ない。


俺は本当に面倒な生き物だ。


昼前には、新しい立て札が増えた。


寝返り申請について


一、就寝前に姿勢を決めること


二、睡眠中の姿勢変更は監視者の声かけに従うこと


三、尻尾は赤布内に収めること


四、夢を見ても翼を広げないこと


五、寝ぼけて火炎を吐かないこと


「最後の二つ、俺に制御できます?」


俺が聞くと、リシェルさんは即答した。


「不明です。よって記載します」


「不明だから禁止!」


「はい」


「夢で飛んでたらどうしよう」


「夢の内容を事前に確認する方法はありません」


「ですよね」


「ただし、昨日の観察では、睡眠中も呼吸は比較的安定していました。火炎反応も確認されていません」


「それはよかった」


「今のところは」


「今のところ」


油断させない。


リシェルさんは、絶対に油断させない。


その頃には、城壁の上の兵士たちも少しだけ慣れてきたようだった。


もちろん、弓は近くに置かれている。


バリスタも見える。


でも、朝のような張り詰めた空気は少し薄い。


代わりに、観察の空気が増えた。


「今度は首を動かすぞ」


「尻尾を見るんだ」


「鼻息、上だぞ」


「リシェル様、あの角度で大丈夫ですか」


俺は完全に訓練中の大型動物みたいだった。


いや、実際そうなのかもしれない。


問題は、失敗した時の被害が大型犬どころではないことだ。


「ソラ殿」


リシェルさんが言った。


「はい」


「昼の確認後、アルバート子爵へ中間報告を送ります」


「もう中間報告が」


「あなたは一日で規則を三つ増やしました」


「俺のせいですね」


「はい」


即答。


でも、リシェルさんは少しだけ声を落とした。


「ただし、停止指示への反応も増えています」


「それも報告されるんですか」


「当然です」


当然。


危険だけではなく、止まれたことも書かれる。


昨日、俺が頼んだ記録。


その意味が少し分かってきた。


「お願いします」


俺が言うと、リシェルさんは短く頷いた。


「承知しました」


午後になると、俺は少しだけ仮滞在区域の中で体勢を変える練習をした。


伏せる。


首を上げる。


前脚を引く。


尻尾を固定する。


鼻息を上へ逃がす。


半起き姿勢になる。


また伏せる。


それだけ。


それだけなのに、かなり疲れた。


人間だった頃、こんなに真剣に寝起きしたことはない。


寝坊して慌てて起きることはあった。


目覚ましを止めて二度寝することもあった。


でも、起き上がるたびに周辺被害を考えたことはない。


「人間の体って、便利だったんだな……」


俺は小さく呟いた。


リシェルさんが反応する。


「前の体に戻りたいですか」


その質問は、予想より深く刺さった。


俺はすぐに答えられなかった。


戻りたいか。


戻れるなら、戻りたい。


会社員の体。


普通の手。


普通の声。


普通の部屋。


コンビニに行ける体。


誰かの隣を歩ける体。


でも。


もし戻ったら、この街は俺と関係なくなる。


リシェルさんも、アルバート子爵も、ラウル隊長も。


昨日から始まった細い道も、消える。


まだ一日しか経っていないのに、そう思った。


「分かりません」


俺は言った。


「戻りたい気持ちはあります。でも、今はこの体で誰も壊さないようにする方が先です」


リシェルさんは、俺を見た。


それから筆を動かした。


「自己状態への不安あり。ただし、現状対応を優先する意識あり」


「それ、王都に送られます?」


「必要なら」


「恥ずかしいな」


「恥ずかしさより、正確さを優先します」


「行政が強すぎる」


でも、それでよかった。


俺の曖昧な気持ちも、危険も、止まれたことも、全部書かれていく。


その書類が、十日後の俺を決める。


そう思うと、恥ずかしいなんて言っていられない。


夕方前。


問題は、思わぬ方向から来た。


腹が鳴った。


ぐう、とかではない。


ごおおおおおん、だった。


地面が低く震えた。


城壁の上の兵士が一斉に振り向いた。


赤い布の外側にいたリシェルさんが、筆を止めた。


近くの馬が耳を立てる。


俺は固まった。


「……今の、俺です」


リシェルさんは静かに言った。


「確認しています」


「腹が鳴っただけなんですけど」


「腹鳴により周辺振動あり」


「腹鳴まで記録対象!」


「当然です」


当然だった。


俺の体は巨大だ。


腹の音も巨大。


普通の人間なら恥ずかしいだけで済むものが、俺の場合は警戒対象になる。


「最後に何か食べたのはいつですか」


リシェルさんが聞いた。


「昨日、目覚めてから何も」


「空腹状態で一日以上経過」


「そうですね」


「食事内容は」


「分かりません」


「竜種の食性、不明」


「はい」


「肉食か草食かも不明」


「自分でも分かりません」


リシェルさんの表情が、少しだけ険しくなった。


当然だ。


もし俺が肉食で、空腹で、街の近くにいるとなれば。


それは危険だ。


俺は慌てて言った。


「人を食べたいとかはないです!」


声が少し大きくなった。


城壁の旗が揺れる。


兵士たちが身構える。


「発声量」


「すみません!」


また大きい。


俺は口を閉じた。


リシェルさんは、少しだけ眉間を押さえた。


初めて見た。


たぶん、頭が痛いのだと思う。


俺のせいで。


「……食料について、早急に検討が必要です」


「はい」


「ただし、肉を与えることは住民感情に影響します」


「肉食ドラゴン感が出ますもんね」


「はい」


「草とか木は?」


「周辺環境を食害する恐れがあります」


「俺、食事でも災害」


「現時点では否定できません」


もう笑えない。


食べるだけでも問題になる。


本当に、ただ生きるだけで街の仕事を増やしている。


その時だった。


風向きが変わった。


城壁の向こうから、ふわりと匂いが届いた。


香ばしい匂い。


焼けた麦。


少し甘い。


少し焦げた、あたたかい匂い。


パンだ。


俺は反射的に顔を上げかけた。


リシェルさんの声が飛ぶ。


「停止!」


俺は止まった。


ぎりぎりで。


首は半分だけ上がっていた。


鼻先は城壁の方を向きかけている。


危ない。


このまま息を吸い込んだら、風が街側へ引かれるかもしれない。


俺はゆっくり鼻先を上へ向けた。


「……パンの匂いがしました」


声が、自分でも分かるくらい弱かった。


腹がまた鳴る。


ごおおん。


今度は、城壁の上の兵士だけでなく、リシェルさんの書類板まで少し震えた。


リシェルさんは無言で筆を動かした。


「空腹時、パンの匂いに強く反応」


「それ、書かれるんですね」


「極めて重要です」


「ですよね」


城壁の向こうから、誰かが叫んだ。


「リシェル様! パン屋のグレタが、竜に食わせるなら焦げた試作品があるって言ってます!」


俺は思わず城壁を見た。


リシェルさんも見た。


兵士たちも見た。


少しだけ、空気が変わった。


恐怖だけだった城壁の向こうから、初めて生活の匂いがした。


パン屋。


グレタさん。


焦げた試作品。


それは討伐でも規則でもない。


街の中の、誰かの手の中にあるものだった。


リシェルさんは、深く息を吸った。


たぶん、今日一番重い仕事が増えた顔だった。


「……食料提供に関する暫定手順を作成します」


「今から?」


「今からです」


「リシェルさん、寝てます?」


「今、その質問は不要です」


不要と言いながら、少しだけ声が疲れていた。


俺は申し訳なくなって、口を閉じた。


でも、腹は正直だった。


ごおおん。


三度目の腹鳴が、西門前の草地に響いた。


リシェルさんは、目を閉じた。


ほんの一瞬。


そして、書類板を構え直した。


「ソラ殿」


「はい」


「パンを食べる際も、指示に従ってください」


「はい」


「噛む速度、首の角度、鼻息、落下物、すべて確認します」


「パンを食べるだけなのに」


「あなたの場合、パンを食べるだけでは済みません」


その通りすぎて、何も言えなかった。


俺は城壁の向こうから漂う匂いを、できるだけ吸い込みすぎないように待った。


異世界ドラゴン生活二日目。


寝返り申請の次は、食事手順。


そして俺は初めて、この街の誰かが作ったパンを食べるかもしれない。


ただし、それが街との距離を縮める一歩になるのか。


それとも、また新しい規則を生むだけなのか。


それは、まだ分からなかった。

読んでくださりありがとうございます。

今回は、寝返りにも申請が必要になる回でした。

ドラゴンとして強い体を手に入れたはずなのに、まず最初に立ちはだかったのは生活の不便さです。

リシェルさんの仕事がどんどん増えていきます。

ソラの住民票取得は、まだまだ遠そうです。


面白そうと思っていただけたら、ブックマークや評価で応援してもらえると嬉しいです。

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