第2話 ドラゴン、城壁前で事情聴取される
ドラゴン生活一日目・昼。
城壁の鐘は、まだ鳴っていた。
カン、カン、カン、カン。
乾いた音が空に響くたびに、俺の胃のあたりが縮む。
いや、今の俺の胃がどこにあるのか分からないけど、気分としては確実に縮んでいた。
城壁の上には兵士たちが並んでいる。
弓。
槍。
それから、やたら大きい弩みたいなもの。
前世のゲーム知識で言えば、バリスタ。
ドラゴン相手に出す兵器として、あまりにも正しい。
正しいけど、俺に向けないでほしい。
「違うんです」
俺は、できるだけ小さく言った。
「襲いに来たわけじゃないんです」
そのつもりだった。
だが、俺の声は城壁の石にぶつかって、低く響いた。
兵士たちが一斉に身構える。
「声を発したぞ!」
「詠唱か!?」
「魔術師を呼べ!」
「矢を番えろ!」
「待て、まだ撃つな!」
撃つな。
その言葉だけは、とてもありがたかった。
俺は慌てて前脚を下げた。
敵意がないことを示したかった。
でも、爪が地面に食い込んで、土がばりっと割れた。
城壁の上がまた騒ぐ。
「地面を削った!」
「攻撃準備か!?」
「違う! 違うから!」
俺は必死に首を横に振りかけて、途中で止めた。
今、首を大きく振ったら、風で何か飛ぶ気がした。
俺はもう、動くだけで疑われる生き物になっている。
いや、実際危ない。
疑われても仕方ない。
でも、仕方ないで矢を撃たれたら困る。
「落ち着け、俺。まず、相手に怖がられない姿勢を……」
俺はそう考えて、ゆっくり伏せようとした。
頭を低くする。
前脚を曲げる。
体を地面に近づける。
これなら、少しは敵意がないように見えるはずだ。
大型犬だって、伏せればちょっと可愛い。
俺はドラゴンだけど。
巨大だけど。
全長三十五メートルだけど。
地面に腹をつけた瞬間、ずしん、と重い音がした。
土が揺れる。
城壁の上で、誰かが叫んだ。
「伏せたぞ!」
「突進前の姿勢か!?」
「違う! 降伏っぽいやつ!」
「竜が降伏するか!」
する。
今している。
かなり本気でしている。
「俺は敵じゃありません!」
俺はもう一度言った。
「本当に、街を襲う気はありません!」
城壁の上がざわめいた。
今度は、ただの恐怖だけではなかった。
戸惑いが混じっている。
たぶん、言葉が通じたからだ。
巨大なドラゴンが、城壁前に伏せて、人間の言葉で「襲う気はありません」と言っている。
冷静に考えたら、かなり変な状況だ。
俺が兵士なら、むしろ余計に怖い。
「隊長!」
城壁の上で、低い声が飛んだ。
「弓兵、構え維持! だが、まだ放つな!」
体格のいい男が、城壁の上に現れた。
鎧の形が他の兵士と違う。
隊長っぽい。
かなり隊長っぽい。
顔も怖い。
でも、混乱している兵士たちの中で、その人だけは声が揺れていなかった。
「竜!」
隊長らしき男が叫んだ。
「こちらの言葉を理解するか!」
俺は、できるだけゆっくり頷いた。
頷いた瞬間、城壁の上の旗がばさっと揺れた。
まずい。
頷くだけでも風が出る。
「理解します!」
「名はあるか!」
名。
名前を聞かれた。
少しだけ、胸が楽になった。
種類でも危険度でもなく、名前。
「竜咲空です! リュウザキが名字で、ソラが名前です!」
城壁の上が妙な空気になった。
「リュウ……?」
「ザキ……?」
「ソラ……?」
隊長が眉をひそめる。
「当地の名ではないな」
「俺の元いた世界の名前です!」
言ってから、しまったと思った。
元いた世界。
いきなり言うには、情報が重すぎる。
でも嘘をついても仕方ない。
俺はそもそも、この世界の常識を知らない。
下手に誤魔化す方が危ない。
隊長はしばらく黙った。
そして、短く言った。
「魔術師と行政官を呼べ」
行政官。
その単語に、俺は思わず反応した。
ドラゴンになって異世界に来て、最初に呼ばれる専門家が行政官。
不思議な安心感がある。
いや、安心していいのかは分からない。
少なくとも、いきなり討伐隊だけを呼ばれるよりはいい。
たぶん。
それから、俺は城壁前で伏せたまま待つことになった。
動くな、と言われた。
もちろん動かない。
動きたくても動けない。
前脚をちょっと動かしただけで兵士たちがざわつく。
尻尾を揺らしたら、城壁下にいた馬が暴れた。
それ以来、尻尾は完全固定だ。
鼻息も問題になった。
俺が普通に息を吐くと、城壁前の砂が舞う。
兵士が目を押さえた。
本当に申し訳ない。
「鼻息は上へ!」
隊長が叫んだ。
「上ですね!」
俺は鼻先を少し上げた。
息を吐く。
上へ。
風が空に抜ける。
城壁の旗が揺れる。
でも、地面よりはマシらしい。
「鼻息、上方向で維持!」
隊長が言った。
俺は真顔で頷きそうになって、やめた。
頷くと風が出る。
代わりに、瞬きを一回した。
「それは肯定か!」
「肯定です!」
「分かりづらい!」
俺もそう思う。
でも今の俺には、動作ひとつが災害の種だ。
こうして、俺は城壁前で伏せ、鼻息を上に流し、尻尾を地面に固定し、瞬きで返事をする巨大ドラゴンになった。
状況だけ聞くと、かなり間抜けだ。
でも城壁の上の兵士たちは、誰も笑っていない。
みんな真剣だった。
それが逆に、俺の危険さを教えてくる。
彼らにとって、俺は冗談ではない。
街の命に関わる現実なのだ。
やがて、城壁の上に新しい人影が現れた。
兵士ではない。
鎧ではなく、濃紺の上着。
腕に書類らしき板を抱えている。
長い栗色の髪を後ろでまとめた、若い女性だった。
年齢は二十代前半くらいに見える。
背筋がまっすぐで、歩き方に迷いがない。
彼女は城壁の上から俺を見下ろした。
怖がっていないわけではない。
でも、悲鳴も上げない。
逃げもしない。
むしろ、俺の爪、翼、尻尾、顔、鼻先の向き、城壁との距離を順番に見ている。
観察されている。
かなり冷静に。
「ラウル隊長」
女性が言った。
「現状を」
さっきの隊長が答える。
「大型竜種一体。言語理解あり。自称ソラ。敵意なしと主張。城壁前で伏せているが、動作のたびに周辺被害の恐れあり」
「被害は」
「倒木少数、城壁前の地面損傷、馬二頭が一時混乱。人的被害なし」
「火炎は」
「確認なし」
「魔術行使は」
「不明。発声時に風圧あり」
女性は板に何かを書き込んだ。
俺はその様子を見て、少しだけ震えた。
何か、すごく事務的に処理されている。
怖いのに、ちょっと安心する。
会社員時代、トラブルが起きた時に一番怖いのは、誰も記録しないことだった。
記録が始まると、少なくとも話し合いになる。
俺は今、巨大ドラゴンとして記録されている。
人生、何が起こるか分からない。
「竜咲空殿」
女性が俺を見た。
「はい!」
声が少し大きくなった。
城壁の旗が揺れる。
女性は眉を動かさずに言った。
「発声を抑えてください」
「あ、はい。すみません」
「私はリシェル・エルフォード。エルフォード子爵家の行政補佐官です」
行政補佐官。
本当に行政の人だった。
「リシェルさん」
俺が言うと、彼女は少しだけ目を細めた。
「呼称は後ほど調整します。まず、確認します。あなたはこの街を攻撃する意思がありますか」
「ありません」
「街内へ侵入する意思は」
「今すぐはありません。というか、入ったら壊すと思います」
城壁の上で、兵士たちが少しざわついた。
リシェルさんはすぐに書き込む。
「自己危険性の認識あり」
「記録された!」
「事実です」
強い。
この人、言葉が硬い。
「では、なぜ接近したのですか」
当然の質問だった。
当然すぎて、少し苦しい。
俺は城壁を見た。
その向こうに街がある。
煙突。
屋根。
人の生活。
俺が欲しかったもの。
でも、ここから見れば、その全部を俺が脅かしている。
「人の気配が欲しかったんです」
俺は言った。
笑いを入れる余裕はなかった。
「目が覚めたら、この体で。森にひとりで。何が起きたか分からなくて。街が見えて」
言葉を選ぶ。
できるだけ、地鳴りにならないように。
できるだけ、怖がらせないように。
「襲いたかったんじゃありません。近くにいたかっただけです」
リシェルさんは、すぐには書かなかった。
ほんの少しだけ、筆が止まった。
でも、表情は変わらない。
「街の近くに滞在を希望する、という意味ですか」
「はい。できれば」
「あなたの体長と危険性を考慮すると、通常の居住は不可能です」
「ですよね」
即答された。
分かっていたけど、ちょっと刺さる。
俺は三十五メートルだ。
普通の家に入るどころか、家を跨ぐ側である。
「街の住民になることも、現時点では認められません」
「住民……」
その言葉に、妙に胸が反応した。
住民。
住む民。
そこにいていい存在。
俺が今、一番遠いもの。
「ただし」
リシェルさんは続けた。
「即時討伐の判断を行うには、会話能力と敵意の有無について確認が必要です」
「即時討伐」
言葉だけで背筋が冷えた。
いや、背筋というか、背中全部。
翼の根元が少し動きかける。
城壁の上の兵士たちが身構える。
「翼を止めてください」
リシェルさんの声が鋭く飛んだ。
俺は止めた。
自分でも驚くくらい、反射的に止まった。
「……止めました」
「確認しました」
リシェルさんは、俺の翼を見てから、板に何かを書いた。
「停止指示への反応あり」
また記録された。
でも、今度の記録は少し嬉しかった。
止まれた。
怖くて動きかけたけど、止まれた。
「竜咲空殿」
リシェルさんは言った。
「はい」
「あなたが本当に敵意を持たないとしても、この街にとってあなたは極めて危険です」
「はい」
「あなたの一歩、発声、鼻息、尻尾の移動は、すべて被害につながる可能性があります」
「はい」
「その自覚はありますか」
「あります。今、めちゃくちゃあります」
「よろしい」
よろしい。
怒られているのに、少しだけ安心した。
俺は危険だ。
でも、危険だと分かった上で話してもらえている。
それは、ただ矢を撃たれるよりずっといい。
「ラウル隊長」
リシェルさんが言った。
「領主館へ伝令を。アルバート子爵の判断が必要です」
「承知した」
アルバート子爵。
この街の領主だろうか。
つまり、俺の今後は領主判断になる。
討伐か。
追放か。
それとも、何か別の形か。
リシェルさんが再び俺を見た。
「竜咲空殿」
「はい」
「領主到着まで、現位置で待機してください。許可なく立ち上がらないこと。翼を広げないこと。尻尾を動かさないこと。火炎を吐かないこと。鼻息は上方向を維持してください」
「はい」
「また、発声は必要最低限にしてください」
「はい」
「返答は、可能なら瞬き一回で行ってください」
「はい……あ、今のも声出した」
リシェルさんが書く。
「返答時に発声癖あり」
「それも記録するんですか」
「必要です」
必要。
この人の口から出ると、妙に逆らえない。
俺は瞬きを一回した。
今度こそ、声を出さずに。
リシェルさんは小さく頷いた。
「肯定反応として扱います」
扱われた。
俺は城壁前に伏せたまま、空を見た。
鐘の音は、少しずつ収まり始めていた。
でも、兵士たちの弓はまだ下がっていない。
街の門も閉じたままだ。
俺はまだ、こちら側ではない。
ただ、いきなり矢を撃たれるところからは、一歩だけ遠ざかった。
代わりに始まったのは、事情聴取だった。
異世界でドラゴンになって、最初に受けたのが事情聴取。
しかも鼻息の向き指定つき。
俺は少しだけ笑いそうになった。
でも、笑わなかった。
笑ったら風が出る。
今は、何も壊さないことが一番大事だ。
城壁の上で、リシェルさんが書類に筆を走らせている。
その横を、伝令の兵士が走っていく。
領主を呼びに。
俺の処遇を決める人を呼びに。
カン、カン、と最後の鐘が鳴った。
その音が消えた時、俺は初めて思った。
もしかしたら。
ほんの少しだけ。
討伐以外の道が、あるのかもしれない。
ただしその道は、どうやら剣や魔法ではなく、書類と規則でできているらしかった。
読んでくださりありがとうございます。
今回は、城壁前での事情聴取回でした。
本人は「襲う気なんてない」と思っていても、街から見れば完全に災害級ドラゴン。
リシェルさんとの出会いが、ソラにとって最初の命綱になりました。
次回は、いよいよ仮滞在の条件が決まります。
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