第1話:恋の始まりは、突然の暴落から
「本日の『神宮寺カレン』株、始値は1株4500円! 前日比プラス50円の堅調な滑り出しです!」
朝のホームルーム前。
2年B組の教室では、学級委員長の田中が教卓に立ち、黒板の前に吊るされた大型モニターを指差しながら熱弁を振るっていた。モニターには、どこぞの証券取引所かと見紛うような、赤と緑のチャートが乱高下している画面が映し出されている。
「昨晩、神宮寺さんが飼い犬の写真をSNSにアップしたことが好感され、買い注文が殺到しております! 投資家の皆様、本日は絶好の買い場かと存じます!」
「「「うおおおおおっ!! 買え買え! 限界まで買え!!」」」
教室中の男子生徒(一部女子も含む)が、血走った目でスマートフォンを連打している。
彼らが熱狂しているのは、東証プライム市場の銘柄ではない。
この私立・八重洲学園にのみ存在する非公式かつ絶対的な経済指標――『カレン株』である。
神宮寺カレン。
容姿端麗、成績優秀、スポーツ万能。さらに実家は日本有数の財閥という、ライトノベルのヒロイン設定を全部乗せしたような完璧超人だ。
あまりにも完璧すぎる彼女の「今日の機嫌」や「好感度」を数値化し、学園内の有志が開発したアプリで疑似的な株式売買を行うシステム。それが『神宮寺カレン株(通称:カレン株)』である。
初めはただのお遊びだった。
しかし、カレンの機嫌が良い日(株価上昇時)は、なぜか学園の購買部で高級パンが半額になり、食堂のメニューにステーキが追加され、逆に機嫌が悪い日(株価下落時)は、全教室のエアコンの温度設定が強制的に28度に固定されるなど、学園のインフラとカレン株が謎の連動(おそらく財閥の力)を起こすようになってから、事態は一変した。
今やカレン株は、全校生徒の生活と胃袋を握る、学園経済の中心となっていたのだ。
「……朝からうるせえな、お前ら」
俺、高坂優人は、自分の席で欠伸を噛み殺しながら、熱狂するクラスメイトたちを冷ややかな目で見ていた。
「おい高坂! お前も早く買っとけ! 今日のカレン様は機嫌がいいぞ! きっと昨日の夜、高級なスイーツでも食べたんだ!」
親友のメガネ男子、佐藤が俺の肩を揺さぶってくる。
「買わねえよ。そもそも、他人の感情を数字にして売買するなんて悪趣味だろ」
「バカ野郎! これは立派な経済活動だ! 俺なんか全財産(お小遣い)をカレン株に突っ込んでるんだぞ!」
佐藤が鼻息を荒くしたその時だった。
ガラッ。
教室の前扉が開き、プラチナブロンドの長い髪をなびかせて、神宮寺カレンその人が姿を現した。
透き通るような白い肌に、宝石のような蒼い瞳。彼女が教室に入ってきただけで、空気がパッと華やぐ。
「……おはようございます」
カレンが凛とした涼やかな声で挨拶すると、教室中の男子たちが「おおおっ」とどよめき、一斉にスマホの画面を見た。
『ピコンッ』
全員のスマホが一斉に鳴る。
モニターのチャートが、ピコンと少しだけ上を向いた。
【カレン株:現在値4520円(+20)】
【理由:カレン様、美しい挨拶によるマイナスイオン効果】
「上がった! さすがカレン様だ!」
「俺の含み益がランチ代になったぞ!」
歓喜に沸く教室。
カレンはそんな騒ぎには一切興味がないというふうに、すんっとした冷たい表情のまま、自分の席へと向かう。
彼女の席は――あろうことか、俺の隣だった。
「おはよう、神宮寺」
俺は特に意識することもなく、隣に座った彼女に声をかけた。
「……おはよう、高坂くん」
カレンはチラッと俺の方を見て、すぐにプイッと前を向いてしまった。
相変わらず愛想がない。
だが。
『ピピピピピピピピピピピピピッ!!』
突然、教室中のスマホが狂ったように警告音を鳴らし始めた。
黒板のモニターに映っていたチャートが、まるでナイアガラの滝のように、垂直にドカンと急上昇したのだ。
【カレン株:現在値5500円(+980)】
【理由:高坂優人に挨拶されたため(※内部アルゴリズムによる極秘感情データの爆発)】
「なっ……!? なんだこの急騰は!?」
「インサイダーだ! 高坂の野郎、カレン様に何か仕込みやがったな!?」
「待て、買い注文が追いつかない! サーバーが落ちるぞ!!」
教室が大パニックに陥る中、俺は隣の席を盗み見た。
カレンは相変わらず前を向いて、氷のように冷たい無表情を貫いている。
……貫いているが。
(……耳の先、めっちゃ真っ赤になってるんですけど)
そう。学園の連中は誰も気づいていない。
完璧超人の氷の令嬢・神宮寺カレンが、実は俺のことにベタ惚れであるという事実を。
そして、この『カレン株』の乱高下の原因の99パーセントが、俺の何気ない一挙手一投足によるものだということを。
俺が消しゴムを拾ってあげれば株価は上がり、俺が他の女子と少し話せば株価は大暴落する。
俺は図らずも、学園の経済を完全に掌握する『絶対的筆頭株主(ただし無自覚のフリをしている)』になってしまっていたのだ。
「高坂ぁぁぁ! お前、カレン様に何をした!? 言え! 投資家への情報開示(IR)義務違反だぞ!!」
「何もしてねえよ! ただ挨拶しただけだろ!」
俺は佐藤の胸ぐら掴み攻撃を躱しながら、深い溜め息をついた。
今日もまた、胃の痛い学園生活が始まる。
* * *
事件は、昼休みに起きた。
午前中の授業が終わり、俺は購買で焼きそばパンを買って教室に戻ってきた。
カレン株は午前中を通して右肩上がり。俺が授業中にシャーペンの芯を落とし、それをカレンが拾ってくれた際に指先が少し触れた瞬間など、株価は一時6000円の大台を突破した。
おかげで今日の学食は「ステーキ定食(A5ランク和牛)が無料」という狂った還元フェス状態になっており、生徒たちは狂喜乱舞していた。
「高坂くん、今日の昼食はそれだけ?」
自席で焼きそばパンの袋を開けようとした俺に、隣からカレンが声をかけてきた。
彼女の机の上には、高級料亭のおせち料理かと思うような、三段重の豪華な弁当が広げられている。
「ん? ああ、朝飯食いすぎちゃってさ。これくらいでちょうどいいんだよ」
「……そう。栄養バランスが偏っているわね。私の玉子焼き、少し分けてあげる」
カレンはそう言うと、持っていた箸で、美しく巻かれた出汁巻き玉子をつまみ、俺の口元へと差し出してきた。
「えっ」
「……あーん」
教室の空気が、完全に凍りついた。
周囲で弁当を食べていた男子生徒たちの箸が、ピタッと止まる。
「お、おい……カレン様が、高坂に……あーん、だと……?」
「幻覚だ……俺はカレン株のチャートを見すぎて、ついに幻覚を見るようになったんだ……」
カレン自身も、自分がとんでもないことをしている自覚はあるらしい。
冷たい無表情を装っているが、よく見ると差し出している箸の先がプルプルと震えているし、顔は茹でダコのように真っ赤だ。
「い、いや、悪いよ。自分で食べるから」
「……いいから、食べなさい。それとも、私の手作り玉子焼きは食べられないというの?」
「手作り!? これ神宮寺が作ったの!?」
「……朝早く起きて、出汁から取ったわ。……あなたが好きだと言っていたから」
「(言った! 確かに先週、家庭科の授業で『出汁巻き玉子が好き』って言ったけど!)」
俺が躊躇していると、教室の黒板モニターがけたたましいファンファーレを鳴らした。
【カレン株:現在値8000円(ストップ高)】
【理由:手作り弁当のおかず共有イベント発生(好感度限界突破)】
「ストップ高だああああああっ!!」
「歴史的瞬間だ! カレン株が上場来高値を更新したぞ!!」
「買いだ! 親のすねをかじってでも買い増せえええっ!!」
教室がウォール街のトレーディングルームと化した。
もはや断れる空気ではない。俺は観念して、カレンが差し出す玉子焼きをパクッと口に含んだ。
「……美味い」
「っ……! そ、そう……。よかったわ」
カレンはふいっと顔を逸らしたが、彼女の頭頂部から「プシューッ」と湯気が出ているのが見えた。可愛すぎるだろ、この生き物。
しかし、悲劇はこの直後に訪れた。
「優人くーん! 遊びに来たよー!」
教室の後ろのドアから、元気いっぱいの声が響いた。
現れたのは、1年生のショートヘアの女の子。俺の幼馴染であり、妹分でもある、橘ひまりだった。
「お、ひまり。どうした?」
「じゃじゃーん! おばさん(優人の母)から、優人くんがお弁当忘れてるってLINEきてさ! わたしが代わりに届けてあげたよ! 感謝してよねっ!」
ひまりはそう言って、可愛らしいウサギの柄の弁当箱を俺の机にドンッと置いた。
そして、あろうことか、俺の首に後ろからギュッと抱きついてきたのだ。
「えへへー、お礼は購買のプリンでいいよー」
「ばっ、お前、くっつくな! 暑苦しいだろ!」
幼馴染特有の距離感。俺にとっては昔からの日常茶飯事のスキンシップなのだが。
スッ……。
隣の席から、絶対零度の冷気が漂ってきた。
俺は恐る恐る、カレンの方を向いた。
カレンは、先ほどまでの真っ赤な照れ顔から一転、能面のような無表情になっていた。
しかし、その瞳には、かつて見たことがないほどの暗い炎――『殺意』と『嫉妬』が渦巻いている。
「た、高坂くん……その、親しげな女性は……誰?」
「あ、いや、こいつは幼馴染のひまりで、ただ弁当を届けてくれただけで……」
「そう。幼馴染。……昔から、ずっと一緒にいて、私よりも高坂くんのことを知っている、幼馴染」
ボキッ。
カレンが握っていた高級な塗り箸が、真っ二つに折れた。
その瞬間。
『ブオオオオオオオオオオンッ!!!』
教室、いや、学園中に、空襲警報のような不吉なサイレンが鳴り響いた。
【カレン株:現在値400円(大暴落・ストップ安)】
【理由:致命的な嫉妬イベント発生。対象(高坂優人)への殺意および絶望による市場崩壊】
「ぎゃあああああああああっ!!?」
教室中の「株主」たちから、断末魔の悲鳴が上がった。
「株価が……俺たちの資産が、一瞬で紙くずになったぁぁぁっ!」
「嘘だろ!? 8000円から400円!? ナイアガラなんてもんじゃねえ、隕石落下だ!!」
「お、俺のランチ代が……学食のステーキフェスが、突然『塩水とパンの耳』に変更されたぞ!?」
教室の蛍光灯がチカチカと点滅を始め、エアコンから噴き出していた冷風が生ぬるい温風へと変わった。学園のインフラが、カレンの絶望とリンクして機能不全に陥り始めている。
「高坂ぁぁぁぁぁぁっ!! てめええええっ!!」
株券(電子データ)を紙くず(電子データ)にされたクラスメイトたちが、ゾンビのように俺に群がってきた。
「お前のせいだ! お前が浮気なんてするから、カレン様がナイーブになっちまったじゃねえか!!」
「浮気じゃねえよ! ただの幼馴染だ!」
「市場(カレン様)はそう判断しなかったんだよ!! 早くなんとかしろ! このままじゃ俺たち、自己破産だ!!」
委員長の田中が、涙目で俺にすがりついてくる。
「高坂くん! 君は筆頭株主としての責任(IR対応)を果たさなければならない! 今すぐカレン様の誤解を解き、株価を回復させるんだ!!」
「無茶言うな! 見ろよあの顔!」
カレンはすでに弁当箱をしまい、机に突っ伏してしまっていた。周囲には「近寄るな」というオーラがATフィールドのように展開されている。
「だめだ……もう終わりだ。俺の青春(投資)は終わった……」
教室のあちこちで、膝から崩れ落ちる男子たち。
このままでは、学園経済が崩壊する。
そして何より、カレンにあんな悲しい顔をさせたままにするのは、俺自身が嫌だった。
「……わかったよ。なんとかする。道を開けろ、株主ども」
俺は覚悟を決め、席を立ち上がった。
そして、机に突っ伏しているカレンの隣に立ち、大きく息を吸い込んだ。
「神宮寺!!」
教室中に響き渡る大声。
カレンの肩がビクッと揺れ、彼女はゆっくりと顔を上げた。その目には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「な、なに……? もう私に話しかけないで。幼馴染さんと仲良くお弁当を食べればいいじゃない……」
「ひまりはただの妹みたいなもんだ! 俺が本当に一緒に弁当を食べたいのは……お前だけだ!」
しーん、と教室が静まり返る。
「えっ……?」
カレンが目を丸くして、俺を見つめる。
俺は真っ赤になりながらも、言葉を続けた。
「さっきの玉子焼き、めちゃくちゃ美味しかった。……だから、その、明日からも……俺の分も作ってきてくれないか? その代わり、俺もお前の好きなものを何かお返しするから!」
それは事実上、毎日一緒に昼食を食べるという『約束』であり、遠回しな『告白』に近いものだった。
「っ……!!」
カレンの顔が、耳の先から首筋まで、一瞬にして沸騰したように真っ赤に染まる。
彼女は両手で顔を覆い、机に突っ伏してバタバタと足をジタバタさせ始めた。
「あ、あわわわ……あしたも、優人くんのお弁当を……わたしが……っ!」
(あ、ついにキャラ崩壊して素が出てる)
その瞬間だった。
『パラリラパラリラパラリラパーン!!!』
教室の黒板モニターから、ファンファーレどころか、紅白歌合戦のフィナーレのような盛大な音楽が鳴り響いた。
【カレン株:現在値 99,999円(測定不能・システムエラー)】
【理由:高坂優人からのプロポーズ(仮)による、カレン様の脳内キャパシティ超過】
「な、なんだこの数字はぁぁぁぁぁっ!?」
「システムの上限を振り切ったぞ!! 未曾有のバブル崩壊ならぬ、スーパーインフレだ!!」
「学食のメニューが全部『高級フレンチのフルコース(無料)』に書き換わってるぅぅっ!!」
教室は阿鼻叫喚と歓喜が入り混じる、異常な熱狂に包まれた。
窓の外を見ると、校庭の噴水からは水ではなく、なぜか高級シャンパンが噴き出している(財閥の力、恐るべし)。
「高坂! お前は学園の救世主だ!」
「一生ついていくぞ、筆頭株主!!」
胴上げされそうになるのを必死に避けながら、俺はチラッと隣を見た。
机に突っ伏したままのカレンは、両手の隙間からこちらを覗き込み、極上の、それこそ株価が天文学的数字になるような、とびっきりの笑顔で微笑んでいた。
「……明日のお弁当、楽しみにしててね、優人くん」
その声は、相場を監視する俺の耳にだけ、密かに届いたのだった。
――こうして、俺と彼女の、株価と好感度が乱高下する異常なラブコメディが、文字通り『上場』を果たしたのである。




