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「さて、と」
前任者を見送ったリンは、クライヴの向かいに腰を下ろす。彼女が持参した紙袋から書類とペンを出し終えるより早く、クライヴがリンに問いかけた。
「ねえ。アンタさ、名前は?」
唐突な馴れ馴れしさにか、それとも敵意が無いことそのものにか、リンの眉が怪訝そうに跳ねる。
「取調べしてるのはこっちなんだがなぁ。仕事受けた時に聞いてないのか?」
「聞かなくて良いと思った」
「で、今になって聞きたいと」
茶化すようなリンの台詞にあからさまに不貞腐れて見せれば、ああはいはいと苦笑をこぼされる。肩を一つ竦めると、彼女は漸く正式に名乗りを上げた。
「アイリーン・G・フライアーズ。リンで良い。階級は警部補、所属は港湾分署だ」
「リン? アイラじゃなくて?」
アイリーンの短縮形ならアイラやエイラ辺りが一般的だ。そう指摘すると、リンは何故か渋い顔をする。
「……昔、同じ名前の友人が居てな。アイラは彼女のニックネームだ」
しかし言い淀んだのも束の間のこと、リンから即座にカウンターが飛んで来た。
「で、お前は?」
「え?」
「名前だよ名前、ったく見事に黙秘通してくれやがって。それくらいは喋れよ、私『と』喋るってんならな」
これには流石のクライヴも少し返答を口籠もる。この刑事がやり手なのは良く分かっている。直接警察の世話になったことはないとは言えど、名前から余罪でも割り出されたら堪ったものではない。
「無いよ、そんなの。俺孤児だし、親の顔も知らないし、保護者だっていないし」
迷ったが、結局真実混じりの嘘を告げることにした。しかしリンはその主張を即座に斬って捨てる。
「それはない」
「何で」
あまりの即答にムッとするクライヴ。しかしそれに構うことなくリンは理由を語り始める。
「お前が私を狙った、それは間違いない。それなのに今はこうして、敵意も無く普通に会話をしてる。まあ多少反抗的ではあるがな」
「だから何」
苦笑を零したリンに苛ついて先を促せば、まあそう逸るなと手だけで諭される。
「さっきの二人にだって、ダレてただけで殴りかかったりする気配はなかったろ。という事は、私や警察への個人的な恨みじゃなく雇われの可能性が高い。これはさっきのお前の『仕事を受けた時には名前を聞かなかった』って発言で裏が取れてる」
その言葉に、クライヴは思わずぎくりと身を強張らせる。指摘された点は完全に意識の外だった。言われなければ情報を渡したことにさえ未だ気付いていなかっただろう。その反応にしてやったりと笑みを深くし、リンはさらに先を続ける。
「ということは、じゃあ雇い主の目的は何か。捨て駒による何らかのフェイクか、あるいは自分達では出来ないから誰かに頼んだか。
お前の場合は間違いなく後者だろう? であれば、事前に選考があったはず──お前は誰かに選ばれたんだ。名が売れているから選ばれた。少なくとも、そいつの仕事を特定できる通称がある筈だ」
そうだろ? と問うてくる視線は既に疑問ではなく確認の域だ。
「……さあ。身内で飼われてたかも知れないぜ?」
「だったら尚更呼び名はあるだろ」
苦し紛れの言い訳もばっさり切られ、クライヴは暫し閉口する。こうなると選択は二つに一つ、素直に吐くか、何も喋らないかだ。クライヴが選んだのは後者だった。
「……どうでも良いだろ、名前なんて」
この相手に名前を押さえられるのはどうにもまずいと、クライヴの直感が告げている。とにかく何も教えなければ良いとタカを括って、クライヴは黙秘を貫くことにした。
「どうでも良いなら適当に呼ぶぞ?」
「勝手にすれば。どうせ当たりっこない」
吐き捨てて、ふいと視線を逸らす。しかしリンはそんな態度にはお構いなしだ。
「どうかな。ジェーン、サム、エイベル、サディアス、スミス、あとはそうだな」
名前を列挙する声を止め、リンは少しだけ思案する。そうして目の前の少年の全身を眺めてから、彼女はその名を口にした。決してよくある名前などではないそれを、的確に。
「──クライヴ。」
果たして反応を抑え切れたかどうか。ちらりとリンの方を窺ったクライヴは、その意外そうな表情に失敗を悟った。
「……驚いた。まさかとは思ったがお前、本当にクライヴか」
「違う」
「どうして?」
「どうして、って」
どういう意味だと問い質す寸前、その質問の意図を理解する。
呼び名なんてどうでも良いなら、どうして否定するのか。
つまり、クライヴという名を敢えて否定した時点で、向こうの誘導尋問にまんまと引っかかってしまった訳だ。
初歩的に過ぎるミスに、クライヴは思わず額に手を当て天を仰ぐ。声にならない吐息を漏らすその様子に、リンがくつくつと喉を鳴らした。ひとしきり笑うと、リンは改めて問いかける。
「さて、じゃあクライヴ。ファミリーネームは?」
「無い。今度は本当だ」
「なるほど。歳は?」
今度は素直に引き下がったリンは、どうにも何らかの基準で事の真偽を見極めているようだった。与えている手掛かりに心当たりの無いクライヴは、一つ舌打ちを零して告げる。
「十六くらい。多分ね」
「住んでる場所は?」
「色々。もしくは無い」
「ホームレスって奴か」
敢えて捻った返答をしてみても、すぐに答えに辿り着かれてしまった。何でもない顔でサラサラとメモを取るその表情は、むしろ楽しそうですらある。
「後はそうだな………お前、荷物はどうした? 捕まってた時に持ってたので全部って事はないだろ」
その質問に、クライヴは苦い顔をする。それは今回の件で最大の失策であり、だから意図的に考えないようにしていた事だった。
「……アンタを襲った通りの物陰に隠してあったんだよ。さっさと片して持って帰るつもりだったのに」
銃もなけなしの手持ちも入った鞄は、今もまだあの路地裏にあるはずだった。一応ぱっと目に付かないようにはしてきたが、二、三日そのままに出来るほど念入りには隠していない。今頃は捨てられているか、誰かに持って行かれていてもおかしくなかった。
「そうか。後でこっちで回収しておこう」
「まだあれば、の話だけど。つーか回収したら返せよな、泥棒」
「それは中身次第だな」
軽口のように言うリンだが、ならば上手く回収されたところで手元に返って来るかどうか。望み薄の希望に賭けられる程バカではないと自負するクライヴは、盛大に溜息を吐き出した。
「さて、それじゃあもう一つ。これは私の個人的な興味なんだが」
奇妙な前置きをして、リンが改めてクライヴを見据える。真っ向から、その真意を測るように。
「お前、どうして私を呼んだ?」
これまでとは毛色の違う質問に、クライヴは戸惑う。理由ならある。それも、沢山。どれを告げるべきかと思案して、結局最も素直なものを口にした。
「……アンタが、初めてだったから」
「何が?」
「俺を見たのが」
流石にこの返答は予想外だったのか、興味深そうに耳を傾けるリン。先を促すような沈黙を受け、クライヴは言葉を選びながら先を続けた。
「最初からそうだ。舐めた態度を取ってはいるけど、実際アンタは俺に隙なんて一瞬も見せてない。どころか、挑発に乗って俺が何か漏らすのを虎視眈々と狙ってる。今だってこっちの思惑を量ろうと、視線から指先から、くまなく目を光らせてる」
そうだろと言うように顔を上げれば、件の視線と目が合った。
それはクライヴが、彼女と刃を交えた時から今まで意図的に意識の外に置いていたものだった。一挙手一投足を観測されている。その癖、無機質という訳でもない。言葉尻、身振り、空気感──感じ取れうるあらゆる要素からこちらを測ろうとする鉄色の瞳。
そうと認識してしまえば感じずにはいられない怖気をどうにかやり込め、クライヴは迎え撃つようにリンを見つめる。
「大抵の連中は俺をガキだと思って見縊ってる。それこそ眼中にないくらいに。俺をちゃんと見て、舐めた上で本気を出したのは、アンタが初めてだ」
両者の視線が真っ向から絡み合う。無言の応酬は牽制か、それとも互いの心中を推し量ろうとしたものだったか。
先に目を逸らしたのは、意外にもリンの方だった。溜息と共に小さく言葉を零す。
「まあ、仕事柄な」
「それに」
その態度を見て勢い付いたのか、更に言い募るクライヴは、今回一番の不満をリンにぶつける。
「俺の減らず口を聞くって言ったのはアンタだろ。何丸投げしてんだよ」
その瞬間の呆気に取られたリンの顔は、してやられてばかりだったクライヴには見ものだった。切れ長の目が大きく見開かれれば、終始老獪だった表情が幾分か若者のそれに変わる。意外とそう歳は離れていないのでは、などとどうでも良い思考が一瞬クライヴの脳裏をよぎった。
ぽかんとしたのも束の間、リンは我に返ると声をあげて笑い出した。
「っははは! いやそうだな、その通りだ! 良いだろう、聞いてやるから洗いざらい、心行くまでぶち撒けて行け? 何、遠慮はいらんぞ、時間だけはたっぷりある」
言い終えてもまだ衝動が収まらないのか、くつくつと喉の奥の方で笑い続けるリン。クライヴ自身何らかの反応を期待してはいたものの、勿論ここまでの大爆笑は望んでいない。予想を超えた過剰反応に抗議するように、唇を尖らせてクライヴが答える。
「洗いざらいも何も、アンタを狙った件なら知らないよ、何にも。言ったろ、あの時は聞かなくていいと思ったんだ。アンタの事も、相手の事も。どうせアンタは殺すだけの、アイツは金を寄越すだけの人だと思ったから」
むしろ意図的に聞かなかった節さえある。余計な情報は知らなくて良い。それは正にこういう場合のための保険だ。知らなければ話しようがないのだから、余計な恨みを買わずに済む。
もっとも相手によっては知る知らないに関わらず手酷く扱われる訳で、今回は比較的相手が良かったと言えるだろう。
何も知らない、などというある種投げ遣りな答えを受けたリンは、しかしあっさりと首を横に振った。
「それは別に訊く気はない。訊くまでもないしな」
「へえ?」
リンに試すような視線を投げかけたクライヴはふと、彼女の妙な様子に気付く。
リンはおもむろにポケットから何かを取り出してみせた。ペンにしては太いそれは、リン自身が赤いRECランプを示したことでボイスレコーダーだと知れる。
「私の名前が挙がってて、お前の名前が出るのなら、相手はあの女狐、ルチア・ヴォルピーノしかないだろ」
何事も無いかのように語りながら、リンはボイスレコーダーを示し、人差し指で机──否、この部屋を指し示し、そしてその指を口の前に立てる。
──録音されてるから喋るなってことか?
クライヴが自身の口元に指でバツを作って見せれば、リンは満足そうに頷く。その間も、彼女の語りは流暢に続けられている。
「何せヴォルピーノが私を目の敵にしてるのは周知の事実だしな。女狐の狙う獲物を横から掻っ攫おうって奴はそう居ない。最近じゃ私を直接狙って来る手合いはほぼあの女狐周りだ」
やれやれ、とリンはパイプ椅子の背もたれに身体を預けた。程よく伸びた上半身からは、疲れたような声が発される。
「まあ奴絡みなら仕方がないかぁ。ちょっと喧嘩が強いだけで何の後ろ盾もないストリートチルドレンじゃ、連中に脅されたらひとたまりもないもんな」
なるほどこれは指示がなければ反論していたことだろう。何故か向こうは今回の件を徹底して軽犯罪に仕立てたいらしいが、こちらとしてもお咎め無しで済むならその方が都合が良い。
采配に素直に感心していると、リンがちらりとこちらを窺ってくる。促すような気配を察して、クライヴは一つ笑って見せると殊勝な顔と震えた声を整える。
「……そう、です。俺、脅されて……俺、良くケンカとかしてたから、目ぇ付けられたみたいで。あいつら、万が一何か喋ったらお前も殺してやるって」
どうだとばかりにリンの方を見れば、笑みを深くした彼女は更に調子付いたらしい。
「そいつは災難だったなぁ。よく喋ってくれた。あとはこちらに任せてくれれば大丈夫だ」
声だけは心底同情したように取り繕っている癖に、薄ら笑いでわざとらしく頷く様はいっそ滑稽だ。こちらまで口の端が緩みそうになるクライヴの目の前で、リンはそれじゃあ、と持って来た紙袋を机の上に乗せる。
そこから取り出されたのは、一回り小さなデリの紙袋。そして、携帯電話大の何かのリモコンだった。そのうちデリの紙袋の方が、クライヴの前へと押し出される。
「捕まった時間が時間だっただろ? 腹空かしてるかと思って。やるよ、差し入れだ」
「えっ、いいの?」
確かに中央本部に連行されたのは昼過ぎだが、何よりクライヴ自身が朝から碌に食べていない。食い気に負けて思わず素で返した少年を、リンは微笑ましそうに眺める。
「ああ、ちゃんと喋れたご褒美だ。ちょっと遅いが飯の時間と行こうぜ」
やけに朗らかに笑ったリンは、手にしたリモコンを宙に向けると、そのスイッチを静かに押した。




