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セント・グレイフォートは昔から、境界の曖昧な街だった。昼と夜、秩序と混沌、そして善と悪。
それらに線引きをしないまま、灰色のままで包括しているのが享楽というこの街の存在意義だ。観光街であるグレイフォートにおいては娯楽こそが大義の天秤であり、そのためなら政治も司法も便宜を図った。
だが、しかし。その天秤がここに来て、軋みをあげて揺らいでいる。
その元凶の名は、アイリーン・G・フライアーズ。この二年間で急速かつ大規模に機能した警察の自浄作用の立役者にして、そのわずかな間にヒラ巡査から警部補にまで上り詰めた鬼才である。
そしてその鬼才はといえば現在、果物売りの露店の主人の世間話にほとほと疲弊していた。
もっとも、その様子を表に出すようなヘマは流石にしない。あくまで穏やかに、店主の言葉一つ一つに丁寧に応じていく。その反応が今回ばかりは災いしてか、世間話が始まってからそろそろ十五分が経とうとしていた。
流石にここらで直接的に切り上げようかと迷い始めたところで、ようやく店主の気が済んだらしい。
「そんじゃリンさん、お勤めご苦労様! 引き留めて悪かったな!」
これはお詫びだと、露店の主人は店先から赤々とした林檎を一つ取り、アイリーン──リンに手渡す。店主が彼女と特別親しい訳ではない。他ならぬリン自身が、自分のことをそう呼ぶようにと、基本的に誰に対しても伝えていた。
「……いや、とんでもない。ご主人も気をつけて」
リンは一瞬躊躇して、しかし笑顔で林檎を受け取る。林檎一つ程度なら何が出来る訳でもなし、賄賂問題にはならないだろう。
一つ手を振って、リンは通りを歩き出した。何があるわけでもない和やかなコミュニケーションは、彼女が不得手とする数少ないうちの一つだ。解放された安堵から、ふう、と小さく息を吐く。
ただ、何も酔狂や良心だけで話に付き合っていた訳ではない。自らの足と耳で稼ぐ、これは情報収集の一環である。たかだか一般人の世間話と侮ると後に痛い目を見ることは、この数年で身に染みて理解していた。
とはいえ、とリンは手にした林檎を軽く放る。にこやかにお土産まで持たされては邪険にも出来ない。おそらく次も彼の話を時間の許す限り聞いてしまうのだろう、と自身に苦笑する。例え、情報面での収穫がゼロだとしても。
──いい人、なんだろう。多分。
──生憎いい人という人種には詳しくないが。
静かな自嘲につられて口の端を少し吊り上げたところで、背後から突然、スーツの肘の辺りを引かれた。
「あ、あのっ!」
「ん?」
上ずった声に驚いて振り向く。袖を引いた犯人はティーンエイジャーの少年だった。女性としては背の高いリンよりも頭半個分ほど小柄だ。背格好と顔立ちからしてハイティーンではないだろう。精悍さよりまだ可愛らしさの勝る顔立ちを不安げに歪めている。
「どうした少年」
「あっ、アンタ警察の人だろ? あ、あそこの道に! アンタのこと、呼んで来いって、その、俺っ!」
慌てた様子の少年が指し示す先を見遣れば、立ち並ぶ建物の間隙、暗く影を落とす細い路地があった。
「あー……大体分かった、まあ落ち着けよ」
ひとまず少年を安心させてやろうと、リンは軽くその背を叩く。
「要するに、私を呼んで来いって言われたんだな? 来なかったら酷い目に遭わせるって?」
自らも路地を指差しながら問えば、少年はこくこくと頷いた。
こういう手口には覚えがあった。自身は物陰に潜んで待ち構え、無害な通りすがりを脅して目当ての人間まで使いに遣るのだ。相手や場所がどうであれ、奇襲からの初手の優位性はそれなりに大きい。入り組んだ路地裏なら尚更だ。
が、しかし。
路地と少年を交互に見て、リンは軽く溜息を吐く。
──残念ながら、こういうのには詳しいんだよなぁ。
「……分かった、行こう。」
気乗りのしない声でそう応じると、リンは少年を伴って通りを越えた。




