74話 どうしようもない龍神様
農民たちを『湖』の岸に残して、私たちは船で奥へと向かった。兵士の1人に櫓を漕いでもらって、私はついつい舳先に立ってしまっている。……いえ、やってみたかったのよ一度くらい。
「大丈夫ですかね……」
「大丈夫、だとは思うが」
兵士とお兄様の会話に、一瞬だけ背筋を震わせる。あ、武者震いというやつかしらね。
まあそれはともかくとして、私は振り返ると兵士たちに声をかけた。
「交渉が決裂したら、あなたたちはお兄様を連れて下がってちょうだい」
「は、はい」
「レイクーリア、いいのかい?」
兵士たちは頷いてくれたけれど、お兄様が私を気遣ってくださる姿に少しだけどきりとした。いえ、いいからそうお願いするんですけれど。
「万が一龍神様がお暴れにでもなったら、このあたりは酷いことになるかもしれません。お兄様たちにはその前に、住民たちを避難させていただかなければ」
既に彼らは、それなりに離れたところに移動しているらしい。でも、そこまで影響がないとも限らないのよね。何しろ相手は龍神様、なのだから。
それからもう1つ、私と私の周りにとっては大事な理由を口にする。
「それに、お兄様はエンドリュースの大切な跡継ぎなのですから、危険があってはいけませんでしょう?」
「……ごめん」
「大丈夫ですわ。龍神様ならばきっと、お話を聞いてくださいますから」
あの、お兄様。アルセイム様もそうなのだけれど、お顔の整った殿方がしょげた表情になられるのって愛らしいのですが、でもレイクーリアは少し悲しいですわ。
だって、そういった殿方が一番輝くのは幸せな笑顔のときではなくって?
ようし、お待ちくださいませ龍神様。私は闘志を燃やしておりますわ。
そうして、多分『湖』の中央あたりというか、もともとは龍神様の祠がある場所にやってきた。ほんの小さな祠と、その周りの森が水面にぽっかりと浮かんでいるように見える。
周囲に視線を巡らせていると、不意に声が湧いてきた。
『何してんの?』
まるで少女のような声と共に、祠の向こうからひょっこりと顔が出た。もちろん人の顔ではなくて、祠にお祀りしてある龍神様の像とよく似た、蛇のようでもっと違う顔。角が生えていて、長い髭が数本にょろんと生えている、薄青い顔である。
そうか、これが……なんて思っている私の後ろから、お兄様がその顔に声をかけられる。
「……あの、龍神様でいらっしゃいますか」
『そうだよー』
あ、やっぱりそうなんだ。えらく脳天気な言葉遣いに、正直信仰心が吹っ飛びかけたのは秘密よ。どうやらこの方、龍神様とはいえまだ幼い方のようだし。
「この度は、お願いがあって参りました」
『お願い? なーに?』
「この水を、引かせてはもらえないでしょうか」
『え、なんで?』
と、やっぱり変なことを考えている私を通り越すようにお兄様と龍神様の会話は続く。あ、でも何というかこの龍神様、自分のなさったこと分かっていないのかしらもしかして。
『ここはお前の領地にしたいから、やってみなさいって母様から言われたんだもん。だから、わたしはわたしのやりたいようにやるのー』
「母様?」
『えっとね、人間の言い方で言うと龍女王様、になるのかな?』
わあ。龍女王様のご令嬢であらせられるのね。
あの、このご令嬢大丈夫でしょうか龍女王様。一発ぶん殴ったほうが早いかもしれないわ、うん。
『わたしもね、母様みたいにこれだけひろーい湖でのんびり暮らしてみたかったんだあ』
「ですが、これでは人間の畑や家が水浸しになって住めなくなってしまいます」
『人間は他のとこ行けばいいじゃないのー。ここは、母様がくれたわたしの領地だもーん』
あ、思いっきり話が通じていない。というか、話を聞く気もないわねこの龍神様。
これ、お兄様を避難させたほうがいいと思う、うん。
「ですが、龍神様よりも先に人間は長く住んでおります。龍女王様も、その人間たちと共に生きてほしいのではないでしょうか」
『だって母様、今お疲れで寝ちゃってるし』
それでもお兄様は、必死に龍神様を説得なさっているのだけれど……いや、本気で話聞かないんじゃないかしら、このご令嬢。
『んもー、邪魔しないでくれる? もうちょっと湖広げたいんだから』
「いい加減になさいませ」
もう我慢ならないわ、こんのワガママ娘。いえ人、と言うか龍神様のことは言えないと思うけれど。
「お兄様を連れて下がって。ここからは私の番みたいだから」
『え、なにー?』
ああ、さすがに龍神様。人が自分に力で対抗してくるとは思っておられないのでしょうね。
それをやるのがこの私、レイクーリア・エンドリュースですから。
「どうやらお話を聞き入れていただけないようなので、これからは私なりのやり方で聞いていただくことにします」
『あなたなりのやり方?』
祠があるせいか、このあたりの水深はせいぜい膝までみたいね。そこに降りて、後ろ手で船をしっしっと遠ざける。
そうして私は、愛用のメイスを構えた。
「ええ。エンドリュースの娘として、力ずくでお話を聞いていただきますわね」