終章 2
自分と言う存在が、ベキベキと不穏な音を立てて変質していく。
寿命が見えた時点で放心していた頭は、こうなることを理解していた筈なのに一向に呑み込もうとはせず、ただ、果てしない虚無感と破壊衝動だけを残していった。
彼を追い詰めた全ての人間の心臓を止めてやる…… 出来る気がする。100年の制約を終えた後、変質した私は、『とまれ』と姿を表すだけの存在ではなくなっている。そんな気がする。
ゆらゆらと、地表を漂う。
そして私は彼の家の前に、何かが貼ってあるのを見つけたのだった。
『もし、私が109歳まで生きられなければ、この遺書をどこか目立つところに貼っておいて欲しい。
あの子はきっと、自分で封を切れないだろうから――
これを開いたのは、父さんでしょうか。
それとも、親戚の誰かでしょうか。
私には、書いてある内容を読んだあなたが困る顔が見えます。よく見える所に―― 何なら玄関にでも張り付けておいて欲しいなんて書いてあるこの手紙の内容が内容ですから、こんなもの本当に張り付けて良いのだろうかと。
大丈夫です、ちょっと頭のおかしい内容ですが事実なものは事実ですし、あの子にさえ伝われば良いだけなので、死んで今更、誰に「頭おかしい」と言われても傷付く心もありません。何も考えず、玄関に張り付けて下さい。
君が私の前に姿を現した数日後、『自称蓮の妖精』という怪しい男性に呼び止められました。呼び止められた、というより捕らえられてちょっと幻術を喰らったと言った方が正しいのですが、あっ、だから私頭おかしくないです。そこで、君の話を聞いたのです。
私は真っ先に思いました。
エロ本買えねぇえッ!! と……
……これは切実な問題でした。
うまくイメージ出来ないのですが、私は四六時中見られているようです。普通好きな女の子の前でエロ本読みたがる男は居ません。嫌われたくなかったのでとりあえず禁欲したのですが、体育の授業などで男子だけの空間になった途端に飛び交う猥談の数々には、エロ本への過大な興味は日増しに濃厚になるばかり…… 将来は医者になろうとは決めていましたが、買えないのなら合法的に行こうと外科と内科の選択を迫られ何の躊躇も無く内科を選択しました。保健と美術の教科書が唯一のエロ本だった私が、です…… その後私が実習で如何に(略)
ということで、私の納棺の際には花なんていいので代わりに大量のエロ本を詰めて下さい。あの世で気兼ねなくオープンに舐め回すように読み漁る…… それが、私の最期の望みです。
高倉 奏
冗談ですよ? 冗談ですからね?
だからそこの〇〇中学校女子! 健康診断行く度にエロオヤジとか言いやがって! ありがとう! あらゆる感情が一気に冷めたよヤッタネ!!
何度も言いますが上記は冗談なので気にしたら負けです。
まぁ、半分は事実ですけどね!
……あと、半分の話をします。
好きな女の子の前で見栄を張りたがらない男は居ません。私はずっとあなたに見られているという思いで勉強に打ち込んで来ました。
少し、恥ずかしい話をしていいですか。
危険が迫ると目の前に『とまれ』という自分にしか見えない文字が出る。これは、自分の特別な能力だと思っていたのです。それが突然見えなくなり、原因を考えに考え、もしや背後霊的な何かだったのかと「そこに居るんだろう」と叫んだ事もありましたが、何も起こらなかったので、自分は力を無くしてしまったのだということで片づけました。
私はこの時を、後悔を持って過ごしています。
あなたに意思があったなら、苦しい思いをさせていたのではないだろうか。
助けてもらってお礼の一つも言わず感じず、腹が立ったりしなかっただろうか。
かたや、ずっとうじうじしている私を見て、自分を責めたりしなかっただろうか。
私は、あなたに伝えたいことがあります。
ごめんや、ありがとうでは足りない。
私は、行動であなたに示したかった。
そして胸を張って、自分の口で伝えたかった。
あなたの与えてくれた生は、こんなにも多くの人を救いましたと。あなたの与えてくれた命は、こんなにも素晴らしいものだったのだと。
……ですがどうやら、その願いは叶わなかったようですね。平均寿命が延びているとはいえ、それでも平均75歳ですし…… うーん、やはり、悔しい結果にはなりましたが紙にしておいて良かった。「また人型の君に」、なんて貴方を再び100年の檻に閉じ込めるような畜生なことは言いませんが、せめてもう一度、純白に輝く美しい「止まれ」の文字を見たかったものです。悔しいですね。いやほんと、実に悔しい。
最後にもう一つだけ、いいでしょうか。
厚かましいとは思うのですが、私の我儘を聞いて欲しいのです。
制約の時が過ぎたら、また、あの日の私のように、怪我をしそうな人を助けてあげてはくれませんか。
あなたは生きて下さい。
祈っています。
君が、君であることを忘れませんように。
高倉 奏
……ツッコミ所が多すぎて、どうしたらいいかわからないよ…。
毒気を抜かれてしまった私は、その場に跪いていた。
片思いだと思っていた。
100年を犠牲に現した姿は、ただの自己満足でしかないと思っていた。
あんな意味の分からないことを書いたのは、私が荒んでしまうことを君は分かっていたからですか? 私が、貴方を助けた私のままで居られるようにと、わざとおちゃらけてくれたのですか……? それは、私の買い被りなのでしょうか。
――あなたの与えてくれた生は、こんなにも多くの人を救いましたと。あなたの与えてくれた命は、こんなにも素晴らしいものだったのだと。胸を張って伝えたかった――。
……不器用な人。死んだら意味がないじゃない。
貴方の願いは叶っているわ。
とまれは彼の自宅を一望した。
彼の葬儀には、こんなに人が住んでいたのかと疑うくらいに人が集まり、誰もが涙を流しながら、長い長い列を作っていた。
「いつも看てくれてありがとう」と、「相談にのってくれて嬉しかった」と、それはもう、どこまでも、どこまでも――
あの日捨てられた夢の欄には、「お母さんのように、死んでも誰かが悲しんでくれる人になりたい」と、書かれていたらしい。
でも、こっちはあまり叶っていないわね。
悲しむ人が、皆おかしくて笑っているもの。
その町には、とても熱心な町医者が居た。
彼は訪れる患者の好きなテレビ番組すら覚えているくらいに、喋るのが大好きで、それ以上に聞くのが大好きな、人に慕われる医者だったのだと言う。いつ行っても、どんなに忙しくても、疲れた顔一つせず「待たせてごめんね」と、必ず診察してくれる。どうしても生活に困窮してお金がない時は、このご時世にも関わらずこっそりタダで診療したこともあったらしい。
そんな彼はまるで神様のようだったと、人々は町に小さな小さな祠を建てた。
傍には、彼の話した『とまれ』の伝説が書かれた板が取り付けられる。それから数十年が経過して、本当に危険が起こりそうな人の前に、『とまれ』という神様が現れた。
人々は、彼の隣に、もう一つ祠を作る。
そしてその前には、『とまれ』が人を助ける度に、美しい花が添えられた。
この場所を忘れられませんように―― いつか少年が抱いた願いと同じ願いを抱きながら、今日もまた、『とまれ』は走る。
君が、人々に忘れられませんように。
寄り添い合うように建てられた二つの祠から、花束が絶えた様を見た者はない。
-終-