第99話 番外編 悪くない、の続き
本編をここまでお読みいただき、ありがとうございました。
これは完結のあと、季節がひとつ進んだ頃の、小さな後日談です。
派手なことは何も起きません。
ただ、言えなかった言葉が、ほんの少しだけ動く話です。
王都の務めが、ひと区切りついた。
終わったわけではない。あの夜に交わした「支え続けろ」は、命令ではなく確認で、確認には終わりがない。国家は誰か一人のものではないと、私はあの場で言ってしまった。言った以上、私はその言葉に縛られる。
けれど、縛られることと、押し潰されることは違う。
それを、私はようやく覚えた。
だから私は、王都を離れる許しを得て、辺境伯領へ戻ってきた。「戻る」という言葉が、自分の口から自然に出たことに、少しだけ驚きながら。
馬車が領境を越えると、空気が変わる。
甘い酒の匂いも、香水も、品定めの視線もない。あるのは、土と、風と、遠い森のざわめき。ここでは誰も、私が何者だったかを確かめようとしない。来た日と同じだ。
屋敷の前で馬車を降りると、見慣れた騎士たちが軽く頭を下げた。
「お帰りなさいませ」
お帰り、と。
その言葉に、私はもう動じなくなっている。最初の頃は、いちいち胸の奥が小さく鳴ったものだけれど。
「ただいま戻りました」
返した声が、自分でも不思議なほど柔らかい。
執務室の扉は、開いていた。
中に、辺境伯アレクシス・ヴァルドがいる。書類から視線を上げ、私を認めて、わずかに動きを止めた。
「戻ったか」
「はい」
「王都は」
「まだ、続いています」
私はそう答える。終わったとは言わない。終わらせない方がいいものが、この国にはまだいくつもある。
彼は短く頷いた。それ以上は聞かない。理由を聞かないのは、出会った日から変わらない。
私は窓辺に立つ。森が揺れている。光が柔らかい。
ここに来た日のことを、また思い出した。何も持たず、何も期待せず、ただ追い出された形で辿り着いた、あの日。
あのとき彼は、私に聞いた。
居心地が悪いか、と。
私は「悪くない」と答えた。好きだ、とも、ここにいたい、とも、あのときは言えなかった。
今は。
私は、窓の外から視線を戻す。
「アレクシス様」
名前を呼ぶと、彼は書類を置いた。
「なんだ」
ここから先を、私はずっと言えずにいた。言えば、何かが確定してしまう気がして。確定したものは、いつか奪われる。王都で、私はそれを嫌というほど学んだ。
でも。
奪われるのが怖くて何も持たないのは、もう、終わりにしていい。
「前に、聞いてくださいましたよね。ここは居心地が悪いか、と」
「ああ」
「あのとき私は、悪くない、と答えました」
彼は黙って、私の続きを待っている。急かさない。それも、変わらない。
私は、ひとつ息を吸った。
「あれは、半分だけ本当でした」
「半分」
「残りの半分は、言えなかったんです」
彼の眉が、ほんのわずかに動く。
私は、自分の指先が少し冷たいのに気づきながら、それでも前を見た。
「悪くない、ではなくて――ここがいい、と思っていました。あのときも。今も」
言ってしまった。
空気が、しんと静まる。けれど、その静けさは重くない。出会った日に肩へ掛けられた外套の、外の冷気とは違う温度を、私はなぜか思い出していた。
アレクシスは、すぐには何も言わなかった。
やがて、彼は立ち上がる。窓辺の私の隣まで来て、同じ森を見た。
「俺は、口が上手くない」
「存じています」
彼の口の端が、ほんの少しだけ動いた気がした。笑み、と呼ぶには足りない。けれど、確かに動いた。
「だから、ひとつだけ言う」
彼は、森から私へ視線を移す。冷えた湖のようだと、最初に思った目。けれど今は、その湖の底が、わずかに温んでいるのが分かる。
「君が、ここがいいと思う限り――ここは、君の場所だ」
役割ではなく。
証明でもなく。
ただ、いていい場所として。
私は、頷くことしかできなかった。涙は出ない。泣くのは、まだ期待している人の特権だと、かつて私は思った。今の私は、もう期待していないのではなく――叶ってしまったから、泣く必要がないのだ。
森が揺れている。
光が、柔らかい。
言えなかった半分を、私はようやく口にした。
その続きを、これから少しずつ、覚えていけばいい。
急がなくていい。
ここには、私を急かすものが、何もないのだから。
「悪くない」の残り半分でした。
じれじれにお付き合いいただき、ありがとうございます。
次は、受け入れた側――辺境伯アレクシスの話を。
彼が、なぜ理由を聞かなかったのか。




