第76話 王都の空気
王都の門をくぐった瞬間、空気が変わった。石畳の整然とした街路。磨き上げられた塔。視線。視線が、刺さる。
馬車の窓越しにも分かる。噂は既に広がっている。
「辺境の令嬢が戻ってきた」
「港を勝手に動かした女」
ささやきは、風より速い。私は目を閉じない。逸らさない。ここはかつての場所だ。だが、帰ってきたのではない。
呼ばれて来た。立場が違う。王城前で馬車が止まる。扉が開き、辺境伯が先に降りる。続いて、私。
石段の上に立つ王都の役人たち。礼はするが、温度はない。
「辺境伯アレクシス殿。王太子殿下がお待ちです」
形式は整っている。敵意も露骨ではない。それが、王都だ。城内に入ると、視線はさらに増える。貴族たち。
官僚たち。昔、見慣れた顔もある。一瞬だけ、胸の奥が揺れる。だが、止まらない。
「緊張しているか」
隣で辺境伯が低く問う。
「少しだけ」
「良いことだ」
短い言葉。王太子宮へ案内される。重厚な扉が開く。レオンハルトが立っていた。変わらない。
いや、以前よりも静かだ。
「久しいな」
感情を抑えた声だった。抑えていると分かる程度には、残っている。
「辺境伯」
そして、私を見る。一瞬の沈黙。
「レティシア嬢」
名前を、正しく呼ぶ。それだけで、空気がわずかに変わる。
「本日は協議だ」
「裁きではない」
はっきりと言う。その言葉は、宰相派への牽制でもある。私は一礼する。
「承知しております」
目を逸らさない。
彼はわずかに頷いた。
「明日、公開の場で議論する」
「王都議会、軍部、宰相府が出席する」
つまり。本番は明日。今日は、前夜。退出の際、廊下の向こうから一人の男が近づいてくる。細身。鋭い目。
冷静な顔だった。廊下で待っていたのだと、あとで気づいた。
「政策監察官ルシアン・ヴァルドール」
自ら名乗る。声は柔らかいが、刃がある。
「港の再稼働、見事でした」
賞賛ではない。観察だ。
「ですが」
彼が半歩詰めてくる。
「国家は帳簿だけで動きません」
私も一歩も引かない。
「帳簿なくしては、もっと動きません」
一瞬。ほんの一瞬だけ、彼の口元が動いた。笑ったのか、評価したのか。
「明日を楽しみにしています」
そう言って去る。心理戦は、既に始まっている。
夜。王都の客室は静かだ。だが眠れない。懐かしさはない。未練もない。ただ一つ。
明日、ここで何を示すか。港を動かした。だが国家を動かすには、証明が足りない。私は帳簿を開く。
構造を整理する。統制は強い。だが持続は分散。その論理を、王都に理解させる。
窓の外、王都の灯りが揺れている。ここは冷たい。だが、怖くはない。
私は逃げる側ではない。
立つ側だ。
明日。
王都は、答えを出す。
刺さる視線の数だけ、この街は前と同じでした。




