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婚約破棄された悪役令嬢は、役割を与えられない場所で静かに生きる 〜尽くしても報われなかった私を、理由も聞かずに受け入れてくれる領がありました〜  作者: 東雲透


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第35話 名前を呼ばれない安心

 中庭で、小さな揉め事が起きていた。


「違います、私ではありません」

「ですが、昨日の担当はあなたでしょう?」


 若い使用人同士が、声を抑えながら言い合っている。


 私は、少し離れた場所からその様子を見ていた。


 やがて補佐官が現れ、穏やかに事情を聞き、解決へと導く。誰かの名前が呼ばれ、誰かが指示を受け、誰かが謝る。


 名前。


 はっきりと、音にされるもの。


 私は、呼ばれなかった。


 そこに関わることもなく、ただ通り過ぎる。


 以前の私なら、あの場に足を踏み入れていただろう。


 原因を整理し、責任の所在を曖昧にし、誰も傷つかない形を探す。

 そうやって、場を整えてきた。


 そして最後に、こう言われる。


「レティシア様がいなければ」


 その言葉は、誇らしくもあり、同時に重かった。


 期待が乗る。

 役割が固定される。

 “あなたがいないと困る”という鎖がかかる。


 私は、それを当然だと思っていた。


 でも、今は。


 名前を呼ばれない。


 役割を割り振られない。


 指示も、責任も、与えられない。


 それが、こんなにも楽だとは思わなかった。


 午後、執務室で書類を整えていると、使用人が辺境伯の名を呼ぶ。


「アレクシス様、こちらを」


 はっきりとした声。


 辺境伯は振り向き、応じる。


 私は、机の端に立ったまま、そのやり取りを見ている。


 誰も、私を呼ばない。


 それは、無視ではない。


 必要とされていない、という意味でもない。


 ただ、前提にされていない。


 それだけだ。


 夕方、廊下を歩いていると、若い使用人が笑いながら誰かの名前を呼ぶ声が聞こえた。


 楽しそうな響き。


 私は、立ち止まる。


 自分の名前を、最後に軽やかに呼ばれたのはいつだっただろう。


 王都では、常に重みを伴っていた。


 「レティシア様」

 その呼びかけには、期待や責任が含まれていた。


 ここでは、違う。


 そもそも、呼ばれない。


 部屋に戻り、椅子に腰を下ろす。


 私は、静かに呟いた。


「……楽だわ」


 誰にも聞かれない声。


 名前を呼ばれない安心。


 役割を背負わされない静けさ。


 それは、目立たない幸せだった。


 もし、明日また名前を強く呼ばれる日が来たら。


 私は、少しだけ戸惑うだろう。


 でも今は。


 誰にも呼ばれないこの時間を、守りたいと思う。


 私は灯りを落とし、目を閉じた。


 名前がなくても、私はここにいる。


 それが、今の私には、ちょうどよかった。

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