第34話 選択肢が増えている
朝の執務室には、まだ誰もいなかった。
私は少し早めに部屋へ入り、机の上に積まれた書類に目を通す。未整理の案件がいくつかあり、そのうちの一つに視線を止めた。
以前なら、迷わず手を伸ばしていただろう。
気づいてしまった以上、放っておけない。
誰かが困るかもしれない。
早く整えた方がいい。
そう考えて、先回りしていた。
けれど、今日は違った。
私は一度、手を止める。
――今日は、触れなくてもいい。
そう思った。
理由はない。体調が悪いわけでも、気分が乗らないわけでもない。ただ、“選んでいい”という感覚が、少しずつ根づいてきている。
机の上には、他にも小さな案件がある。緊急性はないが、整えておけば楽になるもの。
私はそのうちの一つを選び、椅子に腰を下ろした。
選んだ。
誰に命じられたわけでもなく、自分で。
それだけで、胸の奥に小さな変化がある。
午前中、辺境伯が執務室に入ってきた。
視線が机の上を一巡し、私の手元で止まる。
「それを、選んだのか」
問いというより、確認だった。
「はい。急ぎではありませんが、整えておいた方が良いかと」
「そうか」
それ以上、何も言われない。
正解かどうか、評価もない。
ただ、受け入れられる。
その沈黙が、以前よりも重くない。
昼前、ふと朝見送った書類が気になった。だが、誰も困っている様子はない。声も上がっていない。
私は、窓の外を見た。
森が揺れている。
――今日は、選ばなかった。
それでも、世界は回っている。
午後、使用人の一人が小さな相談を持ってきた。
「こちらの確認をお願いしてもよろしいでしょうか」
私は一瞬考え、頷いた。
「見ます」
それは、頼まれたから選んだ。
以前の私は、頼まれなくても抱え込んでいた。
今は、違う。
触れるかどうか。
関わるかどうか。
引くかどうか。
少しずつ、選択肢が増えている。
夕方、部屋に戻る。
今日は、全部を整えなかった。
けれど、何も壊れていない。
ベッドに腰を下ろし、手のひらを見る。
選んだ、という実感が、ほんのわずかに残っている。
王都では、選ばされていた。
ここでは、選んでいる。
その違いが、今ははっきりと分かる。
私は、静かに息を吐いた。
選択肢が増えている。
それは、自由というよりも、安心に近い。
明日もまた、選べる。
それだけで、十分だった。




