第33話 聞かれなかった質問
最近、辺境伯と顔を合わせる回数が、少しだけ増えている気がした。
廊下ですれ違うだけの日もあれば、執務室で同じ空間にいることもある。けれど、どれも特別なことではない。
視線が合えば、軽く会釈をする。それだけだ。今日も、私は未整理の書類を抱えて執務室に入った。
「失礼します」
「ああ」
短い返事。机の端に書類を置き、いつものように小さな印をつけた箇所だけを示す。
「ここだけ、確認が必要かもしれません」
それ以上は言わない。辺境伯は頷き、書類に目を落とす。沈黙が流れる。以前の私なら、その沈黙が怖かった。
何か言われるのではないか。不足を指摘されるのではないか。けれど今は、違う。聞かれない。問い詰められない。
「王都に戻りたいか」とも、
「ここに留まるつもりか」とも、
一度も聞かれていない。それが、こんなにも安心するとは思わなかった。書類を置き終え、私は一歩下がる。
「以上です」
「助かる」
それだけの会話。執務室を出て、廊下を歩く。胸の奥に、静かな安堵が広がっている。
――聞かれなかった。もし、あの質問を投げかけられたら。王都に戻る気はあるか。ここに居続けるつもりか。
答えを出さなければならない。今の私は、その準備ができていない。戻らないと、はっきり言う勇気も。
ここにいたいと、口にする覚悟も。まだ、ない。だから。聞かれないことが、救いだった。
午後、中庭を歩く。風が穏やかに吹き抜け、木漏れ日が足元を照らす。私は、立ち止まって空を見上げた。
ここでは、決断を迫られない。選ばなくていい。選ばないままで、日々が続いている。
それが、どれほど優しいことか。
夜、部屋に戻り、窓辺に座る。遠くで虫の声が聞こえる。私は、今日一日の出来事を思い返す。何も起きていない。
それでも、心は穏やかだ。聞かれなかった質問は、まだ胸の奥にある。
けれど、それは今すぐ答えなくてもいい問いだ。私は、灯りを消す前に、小さく息を吐いた。
――聞かれないままで、いられる。
それだけで、今日も十分だった。
朝の執務室には、まだ手をつけていない案件が積まれている。
その中の一枚に、私の判断を待つものが混じっている。
聞かない人と、聞けない人が、同じ部屋で書類を捲っています。
じれったい、と思ってくださった方は、その分だけ★を。




