第32話 返事をしないという判断
王都からの書簡は、まだ机の端に置かれたままだった。
返事を書くための紙も、封蝋も、用意されていない。まるで最初から、返すつもりがなかったかのように。
補佐官は、机の向こうに座る辺境伯アレクシスを見つめた。
「……本当に、よろしいのですか」
問いは、慎重だった。
「返事を出さないままにすれば、王都は次の手を考えます」
「構わない」
アレクシスの声は、低く落ち着いている。
「曖昧な問いに答えれば、こちらが“関与を認めた”形になる」
補佐官は頷いた。
書簡は、“以前王都で補佐的役割を担っていた人材”についての所在確認。だが、それに答えることは、その人材が辺境伯領にいると明言することに等しい。
主語を与えれば、次は要求が来る。
戻してほしい。
協力してほしい。
あるいは、正式に呼び戻す。
「沈黙は、拒絶と受け取られませんか」
補佐官の問いに、アレクシスは首を振る。
「拒絶ではない」
「では」
「主語がない問いには、答えようがないというだけだ」
理屈としては、正しい。
王都は直接的な言葉を避けた。だからこちらも、直接的な答えを出さない。
それだけのことだ。
「彼女には……」
補佐官が、言葉を切る。
伝えるべきかどうか。迷いは、そこにある。
アレクシスは、即座に答えた。
「知らせる必要はない」
声は、揺れなかった。
「選ばせない」
その一言に、補佐官は静かに目を伏せる。
彼女は、選択を迫られれば、必ず自分を後回しにする。
王都が困っているなら。
以前の役割が必要なら。
そう言われれば、揺れるかもしれない。
だが、それは彼女の人生を基準にした選択ではない。
「こちらが守るのではない」
アレクシスは、続ける。
「余計な選択肢を、持ち込ませないだけだ」
書簡を手に取り、引き出しにしまう。
それで、この件は終わった。
一方、その頃。
私は、廊下の窓辺で、風に揺れる木々を眺めていた。
今日は、いつもより静かだ。
何かが動いている気配はある。だが、それは遠い場所での出来事のように感じられる。
私は、深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
呼ばれなければ、答えなくていい。
問われなければ、決めなくていい。
今の私は、その距離の中にいる。
誰かが返事を待っていることも知らないまま。
私は歩き出す。
今日も、役割は与えられていない。
それが、今は何より穏やかな判断だった。




