第126話 旧い名で、呼ぶ
レオンハルトと私は、二人で向き合った。
最初に名を賭ける決裁をする、と彼は言った。だが、その前に閉じねばならない帳簿が、彼には一つあった。
私は、あの消し忘れられた署名をもう一度、机に置いた。
カイル、と書かれた一枚を。
「あなたは、名を変えてやり直しました」と私は言った。「それは、悪いことではありません。人は、変われる。あなたは、本当に変わった」
「だが、清算ではない」
「はい」
「カイルのしたことは、レオンハルトの善政では消えない」
彼は、その一枚を見つめた。
「私は」と、彼は絞り出すように言った。「あの日、あの場であなたを見なかった。隣にいた人を数にも入れなかった。……なぜ、あなたが辺境を陰で支えられるほどの人だったのか。それを失って、初めて王都が回らなくなって、それでも私は――『それだけのことだ』と自分に言い聞かせた。理由を理解しようともしなかった」
――その言葉を、私も忘れてはいなかった。
「その理由を、私はずっと理解しないまま、名を変えて逃げた。……すまなかった」
彼は、頭を下げた。
王太子が、追放した令嬢に。
私は、その謝罪を受け取った。
赦すのでも、罰するのでもなく――ただ、名をあるべき場所へ返すのだと、私は決めていた。
そして、静かに言った。
「カイル様」
彼の肩が、揺れた。
もう、誰も呼ばなくなった名。彼が捨てた名。
「その名で、あなたのしたことを記録に残します。裁くためでは、ありません。……名を変えて、消してしまわないために。カイルがしたことを、カイルの名でこの国の帳簿に残します。それが、あなたの清算です」
彼は、長いあいだ俯いていた。
やがて顔を上げたとき、その目には、逃げ場を失った者の、けれどどこか楽になった色があった。
「……ああ」と、彼は言った。「そうしてくれ。私は、カイルだ。それを隠さない」
いちばん上品な黒塗りが、剥がれた。
部屋を出て、私は王都の廊下を歩いた。
理由を理解しようともしなかった、と彼は言った。
辺境には、理由を聞かずに受け入れた人がいる。同じ「理由」という言葉が、これほど遠い。
帰ったら、この話をしよう、と思った。
……いや、しないかもしれない。あの人は、聞かないのだから。
「私は、カイルだ。それを、隠さない」
変わることと、清算することが、やっと、揃いました。
次回、捨てられた聖女の、名を、正します。




