第4話 次世代の契約オタク
地下契約書庫の階段は、冬でもひんやりしている。
私は袖を握りしめながら降りて、最後の段で足を止めた。
机の灯りが1つ。
その下で、ティオが背筋を伸ばしてノートを開いている。羽根ペンではなく鉛筆。彼にしては珍しく、消しゴムのかすが散っていた。
「おはようございます、聖女さ……いえ、リディア様」
「おはよう。今日の顔、完全に研究者ね」
ティオは慌ててノートを閉じようとして、逆に表紙を見せてしまった。
そこには大きく、まっすぐに書かれている。
老後契約研究ノート。
「……見られました」
「見た。かわいい」
「かわいくありません。真面目です」
背後で靴音がして、セルジュさんが入ってくる。
いつも通りの無表情。けれど机の椅子を、私の方へ少しだけ引いてくれる。
「今日の作業は、棚卸しではありません」
「え、違うんですか」
「棚卸しです。——ただし、総集編ではなく、部品です」
セルジュさんは淡々と言って、ティオのノートの横に紙束を置いた。
過去案件ファイル。白い結婚、奉仕無制限、命捨ての誓約、世界契約の改訂案。
紙の山の向こう側に、人の生活が透けて見える。
「テンプレ化、でしたよね」
ティオが喉を鳴らす。
「標準老後契約。誰でも使える形に」
「相談所の看板にするには、硬すぎる」
「硬くてもいいんです。硬いのは、盾ですから」
その言い方が、少しだけ誇らしげで。
私は笑ってしまいそうになって、喉の奥で止めた。
棚の奥に、1冊だけ逆向きのファイルが差さっているのが見えた。
誰が、何のために?
気づいた瞬間、セルジュさんの視線が同じ場所に刺さる。
「……後で開きます」
彼は短く言い切った。
逃げ道を確保する声だ。
ティオが唾をのんだ。
「逆向きって、誰かが……わざと?」
「棚が迷路だからこそ、近道を作る人がいるんです」
セルジュさんはそれだけ言って、指先で棚の番号をなぞった。
迷路を知り尽くした人の動き。正確すぎて、かえって怖い。
私はその怖さを、未来の紙に封じたかった。
私は小さく笑ってごまかす。
「それ、条文にします?」
セルジュさんがほんの少しだけ私を見る。
「……ええ。近道は、時に命綱になります」
私たちは、まず部品を作る。
紙を切り、条文を短冊にして並べる。石板に貼って、分類して、言い換えて、また削る。
「『休暇』は権利じゃなくて義務にしませんか」
私が言うと、ティオの目が丸くなる。
「義務、ですか」
「権利だと、使わない人が出る。前の私みたいに」
「……了解です。休暇義務。強い条文ですね」
「強くないと、守れないことがあるの」
女神さまの声が、紙の匂いの隙間から降ってきた。
『うんうん。人間、優しい言葉で自分を縛るからねえ』
「今それを言われると、刺さります」
『刺さったところは、条文化して縫おう』
ティオが、妙に真面目な顔で頷いた。
次世代の契約オタクが、ここに育っている。
昼前、相談所に顔を出すと、掲示板の端に小さく追記が増えていた。
老後契約:相談増。
平和の証拠なのに、字面だけ見ると不穏で笑える。
「宰相閣下、これ……」
子どもを連れた相談者が、ちらりとセルジュさんを見て怯える。
セルジュさんは表情を変えないまま、私の半歩後ろに下がった。
「今日は私が聞きます」
「承知しました」
「すみません、怖がらせて」
「怖がらせる意図はありません」
その返しが真面目すぎて、相談者の母親が思わず肩の力を抜いた。
私は条文カードを1枚差し出す。
「家族の看取りのとき、誰に連絡するか。ここ、先に決めておきましょう」
「……そんなの、今決めるんですか」
「今です。今の平和な顔で決めると、あとで楽です」
相談が終わって外へ出ると、セルジュさんが当然みたいに荷物を持ち直した。
私はその手元を見て、ふっと思う。
あの人は、言葉より先に、手で守る。
小高い丘まで歩いた。
王都の川が光って、王宮の屋根と大神殿の尖塔が、きちんと同じ空の下に収まっている。
「地図にしましょう」
「何をです」
「逃げ道。集合場所。相談所。神殿。全部」
「……契約に?」
「契約に。言葉だけだと、迷うから」
セルジュさんは頷いた。
頷き方が、業務承認のそれで、少し腹が立つくらい頼もしい。
「逃げ道を確保します」
「うん。お願い」
言えない願いが喉の奥で震える。
ずっと、って言葉は軽い。軽いから、怖い。
だから私は、夜に書く。
家に戻って、灯りを落として、机の上に条文カードを並べた。
ティオが作った分類が、やけにきれいだ。未来が整理されていく気がする。
「セルジュさん」
「はい」
「『頑張れ』は禁止にしましょう」
「禁止……強い言葉ですね」
「だって、頑張りすぎると、私たちは昔に戻る」
彼の指が止まった。
止まり方が、痛みの形をしている。
「……あなたは、私の過去の失点を知っていますか」
「数字のこと?」
「数字にすると楽だから、数字にしてきました。守れなかったものを、数える癖です」
私は息を吸って、彼の手の甲に自分の指を重ねた。
「言葉にできない願いほど、契約に残す価値がある」
「……受領します」
「受け取る側、慣れてないでしょう」
「慣れていません。ですが、努力——」
「努力も禁止」
「……承知しました」
笑いそうになって、私は泣きそうになって、結局どっちも飲み込んだ。
余白に、女神さまの羽ペンがほんの少しだけ光って、静かに消える。
そのとき、外の通りから、かすかな歌声が流れてきた。
子どもの声。軽い節。意味の抜けた言葉。
「……おーまーえーを、あいするつもりは、なーい♪」
私は笑いかけたまま、止まった。
セルジュさんが立ち上がり、扉に手を置く。
「行きましょう。——今の世界を、見に」
その声は冷たいのに、私の背中だけが、ちゃんと温かかった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
地下書庫で生まれた「休ませる義務」と、街角から聞こえた不穏な歌——平和の裏に、誰かの近道が混ざり始めました。
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