帝国編:第八話 とある宿屋の給仕娘の一幕
テバイにある宿屋のなかでも中堅どころといったところの『憩いの我が家亭』には最近若い看板娘が入ったらしい。『憩いの我が家亭』はそのアットホームな雰囲気と宿屋の親父の豪快な性格で人気である。そこに若くてかわいい娘が給仕してくれるのであれば『憩いの我が家亭』の人気が上がり、その結果自分の店の売り上げが落ちるのではないかと考える同業者たちが偵察に来ていた。
「ふん、若い娘一人雇っただけで警戒しすぎではないか?」
強面の肩幅が常人の二倍はあろうかという大男が鼻で笑った。この男、テバイで三本の指に入る宿屋『狼牙亭』の店主ラドンである。若いころは流れの傭兵をやっており、稼いだ金で宿屋を作った。傭兵時代の伝手があり、傭兵や賞金稼ぎたちに情報を仲介するような役目も担っている。店は荒くれ者でいっぱいであり、一般の客はあまり寄り付かない。『憩いの我が家亭』とは客層が異なり住み分けが出来ているので、ある種この偵察者の中で一番偵察の必要がない人だったかも知れない。
「といいつつ見物にいらしているのですからラドンの旦那もお好きですなぁ。それでしたらうちのお店のほうにおいでいただければいくらでも歓待いたしますものを。粒ぞろいの娘たちであふれていますよって、ほほほ。」
この女もテバイで三本の指に入る宿屋『夢幻亭』の店主ニンフである。宿屋とは言ってもほぼ娼館である。この女店主は男も女もいける口で本人も客をとる。自分の魅力と眼力に圧倒的な自負があり、そこには自分を卑下する態度はまったく見られない。この女も『憩いの我が家亭』とは客層が異なり住み分けが出来ているので、偵察の必要がない人だったかも知れないが、彼女の懸念したのはまさかこれを機に『憩いの我が家亭』が娼館のような接待を始めるのではないかという可能性である。親父の性格上ありえないが、よしんば親父にその気がなくとも女の子と話が出来るとあらばこの店に来る客が増えるかもしれない。『夢幻亭』には女の子とただ話がしたいというだけの客も来る。そういう客は一回に落とす金はそれほどでもないが継続的に来るので店としては手放したくない客層なのである。
「やれやれ、いいですなぁ。お二人は気楽で。私としては困るのですよ。『憩いの我が家亭』に客を取られる可能性があるのですから。」
この男もテバイで三本の指に入る宿屋『満月亭』の店主イアーソーンである。『満月亭』は最近台頭してきた新規の宿屋で値段を抑えることで金のない旅人、町の一般民をターゲットにしている。一番『憩いの我が家亭』の動向に注目しているのはこの男であろう。
「しかし、この店も内装を変えてきましたね。以前はカウンターバーと木の丸机が並んでいるだけでしたが。」
「ふむ、確かに。一段高いちょっとした広さの床が出来ている。その床を囲むように机が並んでいる。しかも視線をさえぎらない配置でだ。あの床に何かあるな。」
「何なのかしら?」
「あそこに何かしらの見世物があると考えるのが自然でしょうね。」
「まぁ、今考えても始まらん。様子見だな。」
「そうね。それにしても何かしら、この紙は?本、にしては薄すぎるわね。」
「ああ、料理の絵と説明が書いてあるのですね。これは分かりやすい!家の店でも早速採用しなくては!しかし、こんなに料理の種類があったかな?数品しかなかったと思うが?」
「確かに。こんなに豊富な種類の料理を提供するとはいったいどういうことだ?帝都でもこのような店は無い。」
「小さなベルが置いてあるわね?何かしら?」
ニンフがベルをチリンと鳴らすと、エプロン姿の黒髪の娘が人懐っこい笑みを浮かべながらやって来た。
「いらっしゃいませ!ご注文がお決まりですか?」
まったく邪気の無い笑みを浮かべつつ水の入った杯を人数分置いて行く。その度に黒い髪が肩口からさらさらと落ちていくのを思わず三人はぼーっと見ていた。
はっと気づいてイアーソーンは給仕の娘に問いかけた。
「これは何だい?私たちは水を頼んだ覚えは無いのだが?」
「こちらは無料でございます。お代わりが必要なときはまたそちらの呼び鈴でお呼びください。」
三人は顔を見合わせた。
(タダだと?どういうことだ?しかもこの町の水源は河から引いてきた水だがこんなにきれいではなかった。いったい。)
(ベルは呼ぶためのものだったの!なかなか小粋じゃない。)
(これはいい心遣いだ。『憩いの我が家亭』らしさがよく出ている。これもわが店が見習うべきところだ!)
なんとか気を取り戻したイアーソーンは給仕の娘に向き直り答えた。
「ああ、注文だったね。じゃあこのパッソの雑炊とカンツォのサラダで。」
「ドレッシングはどうされますか?」
「ドレッシング?」
「あぁ、申し訳ありません。サラダにかけるタレのような物です。かけるとおいしいですよ。種類はミューリーの煮汁に手を加えたミューラードレッシングと、ジャッケの卵でおつくりしたジャッケドレッシングがございますが?」
「ほう!そんなものが!ではミューラードレッシングで頼む。」
「わしはシャンティの焼肉とライテの煮物を一つづつ頼む。」
「シャンティの焼肉の焼き加減はいかがいたしますか?」
「焼き加減?」
「はい、表面だけ焼いたものと生焼けと中までじっくり焼いたものの三種類ありますが。」
「じゃあ生焼けで頼む。」
「あたしはキャンドラの漬物だけでいいわ。」
「かしこまりました。お飲み物はどうされますか?」
「???水があるじゃないか?」
「はい、水以外にもいくつかおいしい飲み物がありますのでお勧めさせていただきました。」
「ふむ、ではこのルーティの一番絞りで。」
「わしはエールでええ。」
「あたしはミューリーの果実酒を頼むよ。」
「かしこまりました。注文を繰り返させていただきます。パッソの雑炊とカンツォのサラダ、ドレッシングはミューラードレッシング、シャンティの焼肉とライテの煮物、焼き加減は生焼けで、キャンドラの漬物とお飲み物がルーティの一番絞り、エール、ミューリーの果実酒以上でよろしかったでしょうか?」
「ああ、それで頼む。」
「では失礼いたします。」
給仕の娘は黒い板に石灰の棒で文字を書くときれいな礼をし、颯爽と厨房へ消えていった。
「見事だ。各所に見受けられた心遣い、忘れないようにできることと会計のときに確認が容易になるこの黒い板。すばらしい。」
「あの子の所作、きれいすぎるわ。おそらくどこかのお屋敷で働いていたかお嬢様か。いずれにしても相当の身分の娘だったはず。なのに何故こんなところに?いえ、そんなことはどうでもいいわ。あの子をうちに引き抜ければかなり稼げる。それだけの魅力があの子にはある!別にち枕事までやらせる必要は無いわ。いいえむしろやらせないで男の狩人心をくすぐればいい。」
「ふん、やはりうちには必要ないな。しかしこの店にはもう一度来たくさせられる。」
三人ともがそれぞれ考えに沈み黙々と食事をしていた。減った水が補充されるのに気づかないほどに。
しばらくすると一段高くなったステージに給仕の娘が立った。
ラドンは思わず「何だ?」とつぶやくと隣の男がおもむろに話しかけた。
「ご存じないのですか?この店では給仕のあの子がステージで歌を歌うんですよ。ただいつ歌うのかはわからないので毎日来てしまうんですが。ははは。」
苦笑いしながらしかし幸せそうに男は言った。
「しかし、あなたたちは運がいいよ。はじめてきて彼女の歌が聞けるんだから。」
「皆さん、お耳汚しですが私の歌をお聞きください。」
そうして彼女の歌がはじまった途端、それまでの喧騒が嘘のように消え、静寂の中澄んだ歌声が流れ出す。
彼女の歌声を風の精霊術使いが店の隅々まで浸透させる。
彼女の歌は盛り上がる部分と落ち着いた部分があり、耳に心地よい。いつの間にか時間が過ぎていった。
彼女の歌が終わると一時の静寂の後割れんばかりの拍手にその静寂は破られた。偵察に来た三人もそのことを忘れ懸命に拍手を舞台の上の娘に送っている。
娘が歌い終えステージから降り、そのまま厨房に入ろうとすると一人の酔漢が娘の手首を握り締めて引き止めた。
「よう、姉ちゃん。歌良かったぜ。どうだい?隣に座って一緒に飲まないか?お酌してくれよ。」
酔漢が好色に満ちた目で彼女を見ていた。その態度は明らかに相手がうなずくことしか考えていない。
「いえ、お客様。お酒を飲むわけには参りません。職務中ですので。」
「んなことは放っておけばいいんだよ。つれないことを言わないで隣に座れ。」
男が娘を強引に引っ張り連れていこうとした。
ラドンがやれやれ、しょうがねぇなぁといった面持ちで立ち上がり止めに入ろうとしたそのとき、酔漢が地面に倒れ、娘に腕をねじ取られていた。
「お客様、無理やりはいけません。隣に座らせたいのであれば惚れさせるか、それなりの対価をお支払いください。」
娘は冷ややかな目で口元だけ笑いながら酔漢に言い放った。
「いたたたた。分かった、分かったから放してくれ。」
男はうめくように娘に懇願すると娘はあっさりと男を話した。
酔漢はのっそり立ち上がるとおもむろに娘に聞いた。
「対価を払えって言ったが何ならいいんだい?」
男が聞くと娘は少し寂しげに笑って人差し指を立て天上を指し、言った。
「私を空高く、天上すら越えたところに連れて行ってくれるならいくらでも。」
男は思わず顔を赤らめ、ばつが悪そうに店を後にした。
娘がその後、厨房に消えると店中の客からため息がこぼれた。店の客のほとんどが彼女に似たようなことをし、返り討ちにあっていた。客の大半は「あーあ、やっぱりな。でもどうせあの男、また来るぜ。たっく性がねえぁ。」と思って、先ほどの酔漢に対してか自分自身に対してか哀れみを込めてまたため息をついた。
「『憩いの我が家亭』、油断なら無い店のようですね。帰って対策を練らなければ。それにしてもあの店の変わりよう。あの娘が入ってからだな。まさかすべてあの娘の発案だというのか!ならばぜひうちの店に来て欲しいものだが。」
「あの子、如何にか引き抜けないかしら。しかしここの親父は敵に回すと厄介だからあまり無茶はできないし、困ったわ。」
「あの娘、やりおる。うちの店の荒くれ者にもあの腕があれば対応できよう。あの気位の高さはわし好みだ。うちの店にぜひ欲しい。」
偵察に来た三人は三者三様に同じようなことを考えながら、代金を支払った。
「ありがとうございました。またお越しください。」
娘が笑顔で扉を開けながら言うとイアーソーンが聞いた。
「ところで君、名前は?」
「巴 一橋です。」