26・新たな契約書(最終話)
それからの日々は慌ただしく過ぎていき、結婚式の準備や礼儀作法の勉強などで私は休む暇もなかった。
合間にはクレアーレ神殿に行って両親に婚約したという報告ができたので、重荷が取れて勉強に集中できている。
ああ、それと最後まで私を認めなかったオイゲン様だけど、陛下やフィニアス殿下、テュルキス侯爵から何度も何度も説得されたことで、賛成はしないものの反対もしない、という立場に落ち着いたらしい。
今は、領地で静かに暮らしているとグラナート侯爵夫人、もといお義母様が教えてくれた。
そんなある日、グラナート侯爵のお屋敷にフィニアス殿下がお一人で訪ねてきた。
「今日はどうなさったのですか?」
「ちょっと、見て欲しいものがありまして」
フィニアス殿下は、胸元から一枚の紙を取り出してテーブルに置く。
紙には『婚姻契約書』と書かれていた。
「婚姻契約書? 王国では、結婚前にこうした書類を書かなければならないのですか?」
「いいえ。そのような決まりはありません。これは私が個人的に持ってきたものです」
「どういうことでしょうか?」
決まりじゃないなら、どうして婚姻契約書を交わすのか。
フィニアス殿下が必要だと思ったからなのだろうけれど、どうして?
「結婚するにあたって、色々とルネには無理をさせてしまっていますから。貴方は大丈夫だと言ってくれますが、私を心配させないように振る舞うことも、これからあると思うのです。私は大丈夫だという貴方の言葉を鵜呑みにして、痛みに気付かない夫にはなりたくないので、結婚するにあたって決まり事を考えておこうかと思ったのです」
「そうだったのですか……。ですが、別に契約書に書かずとも、お互いに心に留め置いておけばよろしいのではないでしょうか?」
「それでは私の戒めになりません。これは額縁に入れて屋敷に飾っておくために必要なのです」
「飾るのですか!?」
驚き大声を上げた私に、フィニアス殿下は静かに頷いている。
そこまでしなくてもいいんじゃないかと思ったけど、彼は大真面目に婚姻契約書に書かれている条件を読み上げていく。
「まず、隠し事はしない。嫌なことはちゃんと言って溜め込まない。いきなり実家に帰らない。仕事にかまけて家庭を疎かにしない。無茶はせず、助けを待つこと。私が考えたのは以上です」
最後! 最後!
それは二人のというよりも私だけの条件ではないでしょうか?
「それで、ルネからもこうして欲しいということがあったら教えてもらいたいのです。それも書いて、婚姻契約書の完成となります。何かありますか?」
「こうして欲しいこと……」
考えてみるけれど、いきなり言われても思い付かない。
さっき、フィニアス殿下が言ったことしか思い浮かばないよ。
「何かありませんか? 何でも構いませんよ? 何でもと言っても、お互いに困難なことは決めない方が良いでしょうが。例えば、何時には屋敷に帰ってくること、とか。これは、仕事の状況にもよりますし、決めていても守るのは難しいですから」
「確かにそうですよね」
できる範囲での条件というのは、考えるのが難しい。
う~ん、と唸りながら私は婚姻契約書を見つめた。
これは契約というよりは、二人だけの決まり事だから、重く受け止めなくても大丈夫だとは思うけど……。
でも、契約書かぁ。召喚されたときも、フィニアス殿下と契約を交わしたよね。
懐かしいなぁ。
当時の思い出を振り返っていた私は、ふと、これは呪術が施されていないよね? と不安に駆られた。
書かれている条件を破ったら、フィニアス殿下が死ぬことになるんじゃ、と思った私は、素早く婚姻契約書に手を伸ばし、触れてみる。
けれど、四散することもなく、婚姻契約書は形を保ったままであった。
一連の行動を見ていたフィニアス殿下は、クスクスと笑い声を漏らす。
「大丈夫です。今回はただの紙です。条件を破っても罰はありませんよ」
「……そうですか。それは、ようございました」
これは、ちょっと恥ずかしい。でも、何もなくて安心した。
「ルネから私に守って欲しいことや、互いに守ろうという約束事は思い付きましたか? 本当に何でも構わないのですよ?」
そうだなぁ、フィニアス殿下に守って欲しいこと……。
……う、浮気はしないで欲しいとか、かな。
結婚前に何を言っているのかと呆れられるかもしれないけど。
でも、言うだけタダだし、言ってみようかな。
「あの、馬鹿なことでも大丈夫ですか?」
「勿論です」
「呆れるようなことでもですか?」
「呆れたりなどしませんから」
さあ、言って、と催促され、私は言う決心をした。
「あの、本当に呆れないで下さいね。その……できれば浮気はしないで欲しい、です。いえ、他に好きな方ができてしまったら、仕方のないことですので、覚悟はします。ですが」
「分かりました。浮気はしないこと、ですね。さっさと書いてしまいましょう」
笑みを浮かべたフィニアス殿下は、私が言い終わる前にスラスラと婚姻契約書に書き記していく。
「私がルネ以外の女性に惹かれるなどあり得ないことですが、条件にすることで貴方を安心させることができるのであれば、喜んで条件に入れましょう。他にはありますか?」
「え? 他に?」
なんか、やけにあっさりとしているというか、そこはかとない黒さが見え隠れしているような気が……。
ううん。きっと気のせいよね。
頭を振った私は、他にないか考えた。
「そうですね……。怪我や病気、ケンカしたとき以外で屋敷にいるときは、食事を一緒にとるとか」
返事もなく、フィニアス殿下は筆を動かす。
反論がないから受け入れてくれているのだろうが、本当にいいんだろうか。
戸惑っているとこっちを見てきた彼の目が他にはないのかと語っている。
「後は、人前でイチャイチャしないとか」
「それは却下です」
「何故ですか!?」
「イチャイチャしたいからです」
力強くフィニアス殿下から言われてしまい、私は反論する言葉が出てこない。
「大体、人前というのは貴族達の前でのことですか? まさか使用人の前ですらダメだと言うのではないでしょうね」
「だって恥ずかしいじゃありませんか!」
「公爵夫妻が人前でいちゃつかなければ、夫婦仲が冷めただの言われることの方が問題です。よって却下です。断固拒否します」
それは、そういう問題もあるかもしれないけど……!
慣れてないんだもの! 恥ずかしいんだもの!
「他にはありますか? ないですね。では、これで条件を決めるのは終わりです。後は署名して終わりましょう」
「え? 早くないですか?」
「これ以上、ルネに尋ねて私に不利な条件をつけられるのは嫌なので」
「個人的な事情じゃないですか!」
突っ込みをいれてみるが、フィニアス殿下は私の言葉を無視してさっさと署名してしまった。
「さあ、ルネも署名して下さい」
いつものように笑顔だけど、このときばかりは胡散臭さを感じてしまう。
だけど、無言で筆を差し出しているフィニアス殿下は、私が何を言おうと意見を変えることはないだろう。
私は諦めて、差し出された筆を手に取った。
「可能な範囲で過度な接触は自重して下さいね」
「ええ。可能な範囲で」
きっとフィニアス殿下は私の意志を尊重してくれる、と前向きに考えて、私は婚姻契約書に署名した。
「契約書で始まり、契約書で終わる。なんだか私達らしいですね」
ポツリと漏らした私の言葉に、婚姻契約書をしまったフィニアス殿下は首を横に振って否定してくる。
「これで終わりではありません。これから始まるのですよ」
確かに、それもそうだ。
「改めて、フィニアス殿下。これからもよろしくお願い申し上げます」
「ええ。死が二人を分かつまで、共に」
互いに顔を合わせて、微笑み合う。
フィニアス殿下の顔を見ていると、改めて私はここで生きていくのだと実感する。
でも不安は何もない。これまで私を助けてくれた人達や義理の両親となったグラナート侯爵夫妻、育ててくれた両親、実の両親の顔を思い浮かべながら、署名した婚姻契約書を見て、私はそう思ったの。
その後、王妃様が王女を出産したり、すぐに次の子を身籠もったりと王城内は大忙しの中、十歳になったアルフォンス殿下の魔力が無事に安定し、彼が王太子となったことで、フィニアス殿下が臣籍降下することが発表された。
国中が祝福ムードの中、私達の結婚式が執り行われ、私は無事にルネ・アイゼンとなったのである。
ああ、そうそう。エレン様だけど、彼女によると、ユルヴァン様の誠実さや自分を隠さずにすむ気楽さもあって、どんどん親しくなっていったの。
それで、無事にユルヴァン様との婚約が決まったのよね。始まりは事故だったけれど、エレン様は今では立派な恋する乙女となっている。
クリス様も騎士団に所属している騎士と親しくしているみたいで、どんな服装が好まれるのかとか聞きに来ることも増えていた。
お二人共、幸せな未来になりそうで、報告を聞く度に私は自分のことのようにはしゃいでしまっていた。
で、フィニアス殿下に窘められているのよね。きっと、これは死ぬまで変わらないんだろうなぁ。
ふふっと笑みを零すと、真向かいにいたフィニアス殿下が私を見て首を傾げている。
私が何でもないと答えると、彼は不思議そうな表情を浮かべながらも穏やかな笑みを向けてきた。
その雰囲気がとても居心地がよく、私はずっと、ずっと、こんな風に穏やかに過ごせればいいな、と心の中で願ったのだった。
勿論、人生が楽しいことばかりじゃないのは分かっている。
それでも、この先の未来が私は楽しみなの。
これにて終わりとなります。
読んで下さった皆様、ありがとうございました!