第4話 夕餉にて
屋敷の主が奥へ姿を消すと、一度途切れていた薪を割る音が再び庭に響き始めた。
藁を束ねていた女も顔を伏せ、止めていた手を動かしている。
庭は先ほどまでの営みに戻ったように見えた。
それでも、まったく同じではなかった。斧を振り下ろしていた男が一度だけ雨助へ目を向け、女の指も藁の上でわずかに止まった。誰も声を掛けてはこないが、自分がここから追い出されず、しばらく村に置かれることになったという話は、すでにこの場にいる者たちへ伝わっているようだった。
「雨助、か」
弥作が荷を下ろしながら呟いた。
からかっている様子はない。与えられた呼び名を、口の中で確かめているだけのようだった。
雨助は顔を上げた。
自分へ向けられたと分かるまで、わずかに間があった。
「はい」
弥作は何も言わなかった。ただ一度だけ雨助を見て、すぐに荷へ向き直った。
まだ自分の名というより、振り向くための合図に近かった。それでも、その音があれば、呼ばれた時に立ち止まることができる。誰のことか分からないまま、声だけが通り過ぎることはなくなった。
先ほどの若い男が縁へ戻ってきた。
その後ろから、藁束を扱っていた女が小さな木の椀を両手に持って現れる。年の頃は四十前後に見えた。女は雨助の近くまで来たものの、手渡せる距離には入らず、縁の端へ椀を置いた。
白い湯気が立っていた。
「食え」
若い男が言った。
雨助は椀を受け取ろうと、地面へ手をついて立ち上がろうとした。だが、長く座っているうちに冷え切った脚は、すぐには言うことを聞かなかった。力を込めた途端、山道で擦りむいた右膝に鋭い痛みが走り、身体が前へ傾く。雨助は咄嗟にもう一方の手をつき、その場に踏みとどまった。
女はその様子を黙って見ていた。手を差し出すことも、声を掛けることもない。ただ、雨助が痛みをこらえ、もう一度立ち上がるまで、その場を動かなかった。
雨助は片手を地面につき、痛む膝をかばいながらゆっくりと立ち上がった。縁の前まで進むと、置かれた椀へ手を伸ばす前に、女へ頭を下げる。
「ありがとうございます」
背を向けかけていた女の足が止まった。振り返ると、雨助の顔を一度見てから、縁に置いた椀へ視線を落とす。
「麦と粟だ。菜も入っとる。冷めぬうちに食え」
雨助は元いた場所へ腰を下ろし、椀を両手で包んだ。木の表面はざらつき、縁の一部は長く使われたためか黒く変色している。
椀の中には、白とも茶ともつかない濁った粥が入っていた。よく見ると、米よりも丸く大きな麦の粒と、黄色みを帯びた小さな粒が混じっている。細く刻まれた青い葉も、湯気の下からところどころに覗いていた。雨助には、それが何の葉なのか分からなかった。ただ、穀物と一緒に柔らかくなるまで煮込まれていることだけは分かった。
箸は添えられていなかった。
雨助は椀を両手で持ち上げ、立ちのぼる湯気を避けるように息を吹きかけてから、縁へ口をつけた。最初の一口は思っていたよりも熱く、唇に触れただけで椀を離す。
もう一度、今度は少しずつ傾けた。温かな汁が口の中へ流れ込み、冷え切っていた喉を通って、腹の奥へゆっくりと落ちていく。
味は薄かった。わずかな塩気の向こうに、柔らかく煮えた麦の匂いと、菜のかすかな苦みが残る。粟の小さな粒はほとんど形を失っていたが、麦は噛むと皮がわずかに歯へ残った。
美味いかどうかを考えるより先に、身体が次の一口を求めた。
腹が減っていたことを、その時初めて知った。
雨助は再び椀を傾けた。熱さに何度か口を離しながらも、次の一口を待つ間が惜しく感じられた。汁とともに流れ込んでくる麦や粟を噛み、菜の苦みごと飲み込んでいく。温かいものが腹へ落ちるたび、冷えて縮こまっていた身体の内側が、少しずつ緩んでいった。
粥が減るにつれて、椀を傾ける角度が深くなった。最後に残った麦の粒は木肌へ張りつき、口をつけただけでは流れてこない。雨助は指先でそれを縁へ寄せ、掬い取って口へ運んだ。
雨助は空になった椀を膝の上へ置いた。
腹が満ちたというほどではない。それでも、冷え切っていた身体の奥には温かさが残り、先ほどまで浅くなっていた息が、ようやく胸の底まで入るようになった。
雨助は肩の力を抜き、細く長い息を吐いた。
椀から立っていた湯気は、すでにほとんど消えている。腹の痛みも、膝の傷もなくなったわけではなかったが、もう少しなら歩ける気がした。
「食うたか」
「はい」
雨助は立ち上がりかけて、膝の上に残した椀へ目を落とした。どこへ返せばよいのか分からず、両手に持ったまま縁へ近づく。
家の奥から、先ほどの女が出てきた。雨助が差し出した椀を受け取ろうとしたところで、口から自然に言葉が出た。
「ごちそうさまでした」
女の手が一瞬止まった。
「……何だ、それは」
雨助も、なぜ聞き返されたのか分からなかった。
「食べさせてもらったので、そのお礼です」
女は雨助の顔を見たあと、空になった椀へ視線を落とした。
「妙な言い方をする」
そう言いながらも、声には先ほどまでの硬さが少しだけ薄れていた。女は椀を受け取り、家の奥へ戻っていった。
雨助はその背中を見送りながら、自分の言葉がここでは当たり前に通じるとは限らないのだと、初めて気づいた。
「行くぞ」
背後から弥作の声がした。
声に対し、顔を上げると、弥作は塩の俵を下ろし終え、最後に残った薪を庭の端へ積んでいた。
塩の俵はすでに下ろされ、薪も庭の端へ積み直されている。荷車は来た時よりも軽くなっていたが、車輪には山道の泥が厚くこびりついたままだった。馬が一歩動くと、木の車軸が低く軋み、湿った庭に重い音が残った。
「どこへですか」
弥作は縄を握ったまま、雨助へ一度だけ目を向けた。
「うちだ」
それ以上の説明はなかった。
星野家の主から、拾った者の面倒を見ろと言われていた。ならば、これから向かうのは弥作の家なのだろう。雨助はそれ以上尋ねず、荷車の後ろへ回った。
歩き出す前に、もう一度だけ屋敷を振り返った。
深く張り出した軒の下は相変わらず暗く、先ほどの女の姿はすでに見えなくなっていた。庭では斧の音が再び一定の間を置いて響いている。薪を割る男も、藁を束ねる女も、もう雨助の方を見てはいなかった。
自分がここへ来たことも、名を与えられたことも、この屋敷にとっては一日の中に起きた小さな出来事にすぎないらしい。雨助が去ったあとも、薪は割られ、藁は束ねられ、火は絶やされることなく残るのだろう。
弥作が馬を引き、木戸を出た。
雨助もその後を追う。
屋敷を出る頃には、空に残っていた明るさもすっかり薄れていた。低く垂れ込めた雲が村の上を覆い、茅葺きの屋根も道沿いの垣も、ひとつずつ色を失っていく。軒先から落ちる雫だけが途切れず、道の窪みに溜まった水には、暮れかけた空が濁って映っていた。
歩き始めると、膝の痛みが戻ってきた。
粥を食べたことで身体の内側には温かさが残っていたが、傷が癒えたわけではない。一歩踏み出すたび、右膝の表面が引きつるように痛む。雨助は弥作に遅れないよう歩幅を狭め、なるべく傷へ力をかけないように歩いた。
村の者たちは、先ほどと変わらず雨助を見ていた。
しかし、屋敷へ向かう時とは少し違っていた。井戸のそばにいた女は雨助の姿を認めると、一度だけ星野家の木戸へ目を向けた。籠を編んでいた老人も、雨助ではなく、その前を歩く弥作を見ている。
星野家から追い出されず、弥作とともに戻ってきた。
それだけで、何かが決まったことを察したらしい。
警戒が消えたわけではなかった。近づいてくる者も、声を掛ける者もいない。ただ、今すぐ村の外へ追い立てるべき人間ではないと、ひとまず判断されたようだった。
道の脇にいた子どもが、雨助の靴を見つめていた。
泥に覆われて元の色も分からなくなっているが、草鞋ばかりの村では、それでも異様に見えるのだろう。雨助がその子へ目を向けると、子どもは慌てて家の陰へ身を隠した。それでも気になるらしく、少しして柱の向こうから顔の半分だけを覗かせる。
雨助は声を掛けようかと思ったが、やめた。
何を言えばよいのか分からなかったし、下手に近づけば、さらに怖がらせるだけかもしれない。
家々の間から、煙とともに食べ物の匂いが漂い始めていた。先ほど食べた粥と似た麦の匂いもあれば、味噌らしい香りも混じっている。どこかでは濡れた薪を燃やしているのか、鼻の奥に刺さるような煙も流れてきた。
夕餉の支度なのだろう。
だが、戸口の前に人が集まっている家はなかった。誰もが暗くなる前に、残った仕事を終えようとしている。女が水を運び、老人が薪を抱え、子どもが藁を集めている。日が落ちれば何も見えなくなる。その前に動けるだけ動いておくのが、この村の一日の決まりであるように見えた。
弥作は振り返らない。
雨助も、黙ってその背中を追った。
しばらく進むと、家々の間隔が少しずつ広くなった。道の両側には畑が現れ、雨を吸った黒い土の上に、低い葉が列を作っている。何を育てているのかは分からない。葉の大きさも形も揃っておらず、雨に打たれて地面へ伏しているものもあった。
畑の向こうには、木立に寄り添うように一軒の家が見えた。
村の中央にあった家々より小さく、茅の屋根は片側が少し沈んでいる。軒下には薪が積まれ、その隣に農具らしい長い柄が何本か立てかけられていた。家の前には低い囲いがあり、その内側から獣の気配がする。
弥作はその家へ向かっていた。
雨助は歩みを緩めず、その背中と家とを交互に見た。
あそこが、今夜から自分を置く場所になるらしかった。




