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77 別れのとき

 蔵之助の病状は、わたしたちが思っていたよりもずっとゆっくり進んでいった。

 年末にはすでに腎臓の数値は測定すらできないほどになっていたが、それでもなお家の中を歩き回り、少しずつではあったがフードも吐かずに食べてくれた。


 5年前、ちょうどハルキに不登校の兆しが見え始めたころに、わが家にやってきた蔵之助。

 家にいる時間のほとんどを自室でのネットゲームに費やしていたハルキは、突然現れた弟分を特別可愛がる素振りも見せなかったし、世話をしようともしなかった。

 だが蔵之助のほうは、「兄ちゃん、そんなところにいないで、こっちに来なよ」と言わんばかりに閉ざされたハルキの部屋のドアをカシュカシュと引っ掻き続け、ついには自分で開けてしまうようになったのだ。


「どうにかしてくんない?」


 蔵之助がドアを開け部屋に入ってくるたびに、ブツブツ文句を言いながらもどこか嬉しそうだったハルキ。


 それから5年、このひとりと一匹の間にどんな絆が結ばれたのかはわからない。照れなのか意地なのか、ハルキは決してわたしたちの前であからさまに蔵之助を可愛がろうとはしなかったからだ。

 だが、年を越すのも難しいといわれた蔵之助が、徐々に痩せ吐いたり痙攣を起こしたりしながらも、ハルキの入試が終わるまで2か月も持ちこたえてくれたのは、やはり偶然ではなかったと思う。


 今でも忘れられない光景がある。

 センター試験を終えて、二次試験まであと数週間という頃だった。


 いつもは間近に顔を寄せられるのをひどく嫌がる蔵之助が、どうしたわけかその日は自分から、鼻先が触れるほど近くにやってきた。

 そして何か言いたげにこちらをじっと見つめると、ゴロゴロと喉を鳴らして何度も体をすりよせてきたのだ。


 蔵之助は、ハルキにもそして夫にも、そっくり同じことをした。


 ――ああ、そうか。これはきっとお別れのあいさつなのだ。


 そこにいる誰もがそう感じているのがわかった。


 それから、いったいどこにそんな力が残っていたのだろう、もう何か月も登っていなかったキャットタワーのてっぺんにすごい勢いで駆け上った。

 お気に入りの場所から穏やかな瞳でわたしたちを見下ろすその顔は、「ボクの元気な姿、ちゃんと覚えていてね」と言っているようで――。


 蔵之助はその日を境に、窓際のカゴの中で丸まって寝てばかりいるようになった。

 そして数週間後、ハルキの試験がすべて終わるのを見届けると、安心したかのように急激に衰弱していったのだ。


 薄暗く冷たいお風呂場で、一日中うずくまる蔵之助。


「体温が下がってくると、冷たい場所に行きたがるんです」


 先生の言葉に、いよいよ別れの時が近づいていることを思い知らされる。


 それでもフードを差し出すたびにやせ衰えた体でよろよろと立ち上がり、力を振り絞って舐めようとする光景に、たまらず心が震えた。


 二次試験で不合格を確信し「人生詰んだわ」と完全に表情を無くしていたハルキも、ボロボロの体で最後まで必死に生きようとする蔵之助の姿に、心を揺さぶられたようだった。


「くらは、俺のために踏ん張ってくれてたんだよな。俺もちゃんと生きないとな……」


 そう言って毎晩ランニングをするようになり、大学がだめでも専門学校に入ってがんばると、前向きな言葉を口にし始めた。


 3月初めの金曜日、蔵之助はとうとう起き上がることもできなくなった。

 ぐったりと横たわったまま繰り返される浅い呼吸。

 残された時間がわずかだと悟ったわたしとハルキは、ありったけの想いを込め、バカみたいに何度も呼びかけた。


「くら、大好きだよ。今までほんとうに、ありがとうね」


 その声に蔵之助が長い尻尾をかすかに揺らして応えてくれるのを、それがどんどん弱々しくなっていくのを、そして真っ黒な瞳がすうっと光を失っていくのを、わたしたちは胸が張り裂けそうな想いで見届けた。

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