75 境界線
翌春の入試は、予想通り残念な結果に終わった。
客観的に見て、あの勉強量で合格できるはずがなかった。
これまで瞬発力と運のよさだけで、さまざまな局面を突破してきたハルキ。
大学受験もその調子でいけると思ったのが、そもそもの間違いだったのだろう。
「俺、6年間何してたんだろ」
普段は強気なハルキの口から、そんな言葉がこぼれ落ちた。
彼は、自分のしたことにちゃんと打ちのめされている。
それがせめてもの救いだった。
もし受からなかったら専門学校。
本人もそれは納得していたはずだった。
だが彼は真剣な面持ちで、もう1年チャレンジさせてほしいと言ってきた。
この1年間本気で頑張って、失ったものを取り戻したい、と。
そんなにも必死に食い下がる彼の姿を見たことがなかったわたしたちは、その願いを受け入れることにした。今度こそ、悔いなくやりきってくれると信じて。
だがいざ新年度が始まると、彼はずるずると同じ生活になだれ込んでいった。
あれこれと理由をつけては授業を休み、気分転換と称してゲームや動画にのめりこむ。そのくせ日常生活の面倒は、受験生という立場を盾にすべてこちらに押しつけてくるのだった。
彼が実際にどれほど勉強していたのかはわからない。
ただ少なくともその姿は現実から逃げているようにしか見えず、目にするたび喉元に苦い想いがこみ上げた。
それでもわたしは力づくで、揺れる心を固く戒め続けた。
わたしの勝手な憶測で、彼を測ってはならない。
たとえ本当に勉強していなかったとしても、彼の人生は彼のものだ。
彼には失敗する権利も、後悔する権利もさえもあるはずだ、と。
だが、2度目の夏が過ぎて秋風が吹きはじめ、いよいよ受験まで数か月となったとき、膨らみきった風船が音を立てて破裂するように、わたしの体は壊れた。
ある朝目が覚めると、片耳が聞こえなくなっていたのだ。
突発性難聴。
はっきりした原因はわかっていないが、疲労やストレスが溜まったときに発症しやすいといわれている。
ハルキのことだけではなかった。
夏の終わりに蔵之助が病気になり、2度の手術とその後も病院通いが続き、心身の疲労はまさにピークに達していた。
医者の指示通りできるだけ安静に過ごし、処方されたステロイドを飲み続けたが、1週間たっても聴力が戻る気配はまったくなかった。
深い湖の底にいるような違和感と、止むことのない耳鳴り。
大したことはしていないはずなのにひどく消耗し、日に何度も横になる。
最低限の家事をこなし、ベッドに寝転がって白い天井をぼんやりと眺めていると、どうしようもない無力感がじわじわと全身を覆いつくしていった。
――もうこれ以上、がんばれないや。
ため息のように漏れ出す心の声。
そしてはたと気がついた。
そもそも、がんばる必要があったのか?
ハルキのことは、ハルキ自身に任せる。
とうにわかっていたはずなのに、不安に駆られて勝手に心をすり減らし、引いたはずの境界線をいつの間にか踏み越えていた。
だからわたしの無意識は、肉体を通して強引にわたしを引き留めたのだ。
ぼわん、と膜がかかったような音の世界は、必要以上のことを抱え込もうとする心の動きを上手に制し、静かなあきらめへと誘ってくれる。
もういい、わたしにできることはやった。
あとはもうハルキ自身の問題だ。
もし彼が現実から逃げ続け野垂れ死んだとしても、それもまた彼の人生なのだ――。




