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62 さなぎ

「おはよう! 今日は早いね、まだ5時前だよ?」


 寝ぼけ眼で部屋から出てきたハルキに、冗談めかして声をかける。


「だろ? あー、早起きすると気分がいいわ」


 ハルキもとぼけてそう答え、思い切り大きなあくびをしてどっかりとダイニングチェアに座り込んだ。


 窓の外には夕焼け雲。

 そう、5時は5時でも夕方の5時だ。

 陽が沈もうとするこの時間に、ハルキの1日は始まるのだ。


『ハルキの人生をハルキ自身の手に返す』

 わたしがようやくその覚悟を決めた2学期の初めから、彼はまったく登校しなくなり、完全なる昼夜逆転の生活に突入した。


 ドアの隙間から絶え間なく漏れ聞こえるのは、ネットゲームの効果音とチャットの話し声、そしてアニメソング。

 それが深夜まで続き、夜が明けるころにようやく部屋の明かりが消える。


 わたしがリビングにいるときは、部屋から出てきて何か話したそうなそぶりを見せることもよくあった。

 相手をしてやると、ひとしきり他愛のない話をして満足そうに戻っていく。


 ネットゲームで知り合った友人のこと。

 面白いアニメや動画の話。

 課金をしにいくコンビニの店員のこと。


 まるで小さな子どものように、とりとめのないことを楽しそうにしゃべり続けるハルキ。その姿に、愛しさと苦い後悔がこみ上げる。


 本来なら、彼が幼い頃にこんな風に接してやるべきだったのだ。

 だが、にこにこ笑って話を聞いてやる、ただそれだけのことが、あの頃のわたしにはどうしてもできなかった。


 わかっている。

 だからこそハルキは、不登校になってまで、安心できる居場所を心の中に取り戻そうとしているのだと。


 青虫が蝶になるときは、さなぎの中でいったん壊れて混ざり合い、ドロドロのクリーム状になるという。デリケートなその時期に下手に動かすと、羽化できずに死んでしまうのだと。


 今のハルキは、さなぎなのだ。

 ドロドロに溶けながら、自分の人生に必要なものをたぐり寄せ、蝶になる準備をしているに違いない。

 ならばわたしにできるのは、ただ信じて見守ることだけだ。



 ハルキが完全な引きこもり生活に入ったちょうどその頃、わたしのカウンセリングも新たな段階に入っていった。


 始まりは、ある夢だった。


 夢の中で、わたしはある人物を敵から守る重大な使命を与えられていた。

 殺風景なビルの中、まずはエレベーターでその人物を最上階まで連れて行かねばならない。


 だが何の手違いか、同じ任務を担う仲間がひとりで乗り込んでしまう。

 エレベーターはそのまま動き出し、守るべき人物とわたしだけが取り残された。


 激しく脈打つ心臓をなだめ、急いで薄いカーテンの奥にその人物をかくまう。

 間一髪、ドカドカとたくさんの敵が踏み込んできた。

 カーテンの前に立ちはだかり、敵の攻撃を必死に食い止める。

 恐怖におののきながらぎりぎりのタイミングで刀をかわし、首を絞められつつも必死にその人物を守り通した。


 やがて敵はいなくなり、もう大丈夫だと胸をなで下ろしてカーテンをそっと開けると、そこにいたのは小さな女の子。

 さっきの騒ぎに気づかなかったのか、少しも怯えたようすはなく、頬を上気させ目をキラキラと輝かせている。

 その姿を見たわたしは、傷ひとつ負わせることも怖がらせることもなくその子を守り切れたことに、深く安堵したのだった。


 その夢を見たのはちょうどカウンセリングの日で、敵に追い詰められていく恐怖感やカーテンの後ろから出てきた女の子の無邪気さがひどく心に残っていたわたしは、夢の内容をつぶさに阿部に語り始めた。


 やがてわたしは奇妙な感覚にとらわれた。

 ただのおとぎ話のようにしか感じていなかったその夢が、自分の口から語られるたびに別の輪郭をくっきりと浮かび上がらせていったのだ。


 あの小さな女の子は、わたしだ――。


 電流が走るように、その確信が体中を貫く。

 次の瞬間、夢の奥に隠されていたストーリーが鮮やかに開き始めた。


 わたしはわたしを守るため、もうひとりの自分を作り上げたのだ。

 カーテンの奥に隠したのは、まっさらで弱くて傷つきやすい、本当のわたし。


 四角く冷たいあの家に満ちていた、緊張や不満や言い争い。

 ここはわたしを傷つけ苦しめるもので溢れている。

 剥き出しのままでいたら、きっと壊れてしまうだろう。


 わたしは柔らかい心を、誰も手出しのできない心の奥に閉じ込めた。

 生き延びるため、心をふたつに分けたのだ。

 おそらくあの少女の年齢、4歳か5歳のころに。


 インナーチャイルド。

 傷ついて心の中で凍り付いたままの、内なる子ども。


 アダルトチルドレン関連の本の中でしばしば目にするこの概念を、わたしはずっとつかみどころのない夢物語だとばかり思っていた。


 でもその日わたしは確かに、自分の中にふたりの小さな冬子の存在を感じた。

 そしてそれ以降のカウンセリングは、彼女たちの存在なしでは語れないものになっていった。

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