61 完全不登校
大音量の目覚ましが鳴り続ける、ハルキの部屋のドアの前。
わたしはじっと立ちすくみ、内心の葛藤を持てあましていた。
『ハルキのことはすべてハルキ自身に任せる』
キッパリとそう宣言したのは、ほんの数日前だった。
だが、いざこの状況を目の前にすると、やはり迷いが生じてしまう。
本当に放っておいていいのか?
もしかして、彼は自分で起きられないのではないか?
低血圧とか起立性調節障害とか、体に問題があるのでは?
次々と湧いてくる不安に心は乱れ、中途半端に声をかけては悶々とする。
そんなわたしを、次のカウンセリングで阿部はバッサリ切って捨てた。
「彼は、自分で起きられます。
もしかしたら冬子さん自身に、『彼は起きられないのだ』と思いたい理由があるのかもしれませんね」
ああ、そうか。
心のどこかでまだ思っているのだ。
ハルキのことはわたしがどうにかしなければ、と。
いちどは引いたはずの境界線。
だがそれは、油断すればすぐにぼやけて歪んでしまう。
ならば、再び線を引き直そう。
もういちど腹をくくって、今度こそハルキの人生をハルキに返そう。
その日の夜、あらためて覚悟を決めたわたしは、淡々と、だが決して冷たく突き放す口調にならないよう気をつけながら、ハルキに告げた。
「明日から、もし時間に起きてこなかったら、声をかけずにそのまま欠席の電話を入れることにするね」
ハルキは軽く目を伏せ「わかった」とだけ答えると、翌日から本格的な不登校になだれ込んでいった。
まるで、わたしの気持ちがすっかり固まるのを待っていたかのように。
担任からは、休みの連絡を入れるたびに詰られた。
『彼は自己管理ができないのですから、そこは親御さんがちゃんとフォローしてあげてください』
そんなお決まりの台詞を、「本人に任せますので」と突っぱねる。
同じようなやりとりを何度か繰り返したあとに、「何か変化があればこちらから連絡します」と言って、欠席の電話もやめてしまった。
カウンセリングでその話をすると、阿部は嬉しそうに目を細めた。
「自分で不登校という選択をするのは、すごいことです。ハルキ君はなかなかのお子さんですよ、先が楽しみですね!」
弾むような阿部の声に、わたしの心も明るく浮き立つ。
もちろんちゃんとわかっている。阿部が褒めているのは、ハルキのことだ。
だがわたしには、それが幼い自分に向けられた言葉に思えてならなかった。
思うことを口にするたび、屁理屈だと頭から否定され眉をひそめられた。我の強さも他人と違うこともすべて悪だと思い込み、ありのままの自分を受け入れることができずに生きてきた。
だが今、他人とは少し違うハルキを、阿部はこうして力強く肯定してくれる。
その温かいまなざしに、傷ついた過去の自分も癒やされるような気がした。
わたしは、心の中で起こったそれらの変化を夫に話すことにした。
カウンセリングを受けることにはいい顔をしなかった夫だけれど、わたしが長いこと抱え続けてきた重苦しいものから解放されていくことは、喜んでくれるだろうと思ったのだ。
肯定的にとらえられずにいた自分の人生の背後に深い意味があったこと。
それに気づき、ハルキへの愛情をせき止めていた固いしこりが溶けていったこと。
今は、ハルキのことはハルキ自身にまかせようと心から思えるようになったこと。
だが彼は、わたしの話を聞き終えると、ひどく冷めた表情のまま、突き放すようにこう言った。
「それは、頭で考えてるだけでしょ。また学校から何か言われたりして、冬子の気持ちがぶれなきゃいいけどね」
頭から冷水を浴びせられた気がした。
確かに頭でっかちで、拙い歩みかもしれない。
ハルキをどう受け入れたらいいのかわからずに、ふらふらと迷い続けてきた。
だがそれでも、その時々の精一杯を重ねてきたつもりだった。
そのことは夫もわかってくれている、そう思っていたのに――。
失望やくやしさや、淋しさといった負の感情が怒濤のように押し寄せ、わたしを呑み込んでいく。
目の前からすべての色彩が抜け落ち、そのまま固い殻の中に閉じこもりそうになった。
いや、駄目だ。
閉じるのは甘くそして容易いけれど、そこですべてが終わってしまう。
自分の中で起こっていることを、しっかり見据えなければ。
シャッターが自動的に下りそうになるのを押しとどめ、もういちど心の中を見つめようと必死にもがく。
この落胆は、いったいどこからくるのだろう。
がっかりするのは、期待していたからに違いない。
いったい、何を?
ああ、そうか。
わたしは夫と、すべての感情を共有できるつもりでいたのだ――。
「うん、うん」と100%受け止めてもらえることが愛情だと思い込み、それが失われることを心のどこかで恐れていた。
だからこれまでも、さりげなく彼に寄せて自分を修正し続けた。
ふたりは別の存在なのに、そのことを本当には認めようとしていなかった。
いつでも曖昧になりがちな境界線。
それはおそらく、わたしという人間が抱えている根本的な問題なのだ。
ハルキの人生をハルキに返そうとするならば、わたしもきっとわたしの人生をこの手に取り戻さなければならない、そんな気がしてならなかった。




