60 デッドライン
夏休みの間中、ハルキの昼夜逆転の生活は変わることがなかった。
新学期にはなんとか登校したものの、その顔にはまったくと言っていいほど覇気がない。
もう限界かもしれない。
そんな予感が、ふと胸をよぎる。
中等部の修了まで半年余り、そろそろ進路もはっきりさせなければならない時期だった。とにかく一度、ハルキとじっくり話をしなければならない。
すると阿部がこんな助言をくれた。
「これまでの話を聞く限り、ハルキ君は現実的なことがちゃんとわかるお子さんだと思いますよ。明確なデッドラインを示してあげれば、あとは自分で考えていくはずです」
なるほど、と思ったわたしは、さっそく話し合いの準備を始めた。
まずわたしがしたのは、学校側の方針を確かめることだった。
入学時、中学の3年間を終えれば自動的に高等部に上がれると説明された。
だが実際のところ、今の状態のハルキを受け入れてもらえるとは到底思えない。
9月初めの三者面談でその疑問を投げかけると、予想通りの答えが返ってきた。
「極端な話、いくら休んでも制度上は高等部に進学できます。
しかし現実的には、中3の成績がある程度以下ですと、別の進路を勧めざるを得ません。学力がないまま進学しても、あとで本人が苦労するだけですから」
担任はそう言いながら蔑むような視線をハルキに向ける。
「他の生徒への影響も考えないといけませんしね。
小日向君は自己管理ができない未熟な生徒です。やるべきことをまったくやろうとしない。そんな彼を見て、自分も勉強しなくていいやと思ってしまう子もいるんです。
ね、誰のことだかわかるだろ?」
底意地の悪い言葉に、ハルキが表情を硬くした。
「最近、家ではどうやって過ごしてるの? え、まだネットゲームやってるんだ? それって、1年の時から全然変わってないじゃない」
明らかにハルキを見下す物言いに、わたしの胸にも静かな怒りがわき上がる。
確かに、勉強もせず教師の言葉にも耳を傾けずだらしなく欠席を繰り返すハルキは、学校側からすれば手に負えないただの厄介者だろう。
だが、大切なものを取りこぼしたまま立ちすくむ今のハルキには、『どんな自分も許される』というこれまでにない経験が必要なのだ。
もちろん、それを言ったところで理解されるはずがないのはわかっている。
「本人の人生ですから、すべて本人に任せようと思っています」
わたしは怒りとやり切れなさを押し殺し、きっぱりとそう言い切った。
何があっても君の味方だと、それだけはハルキに伝わるようにと願いながら。
学校側との話が終わると次にわたしは、親として具体的に何をしてやれるのかを、できるだけ明確にしようと試みた。
すべてを受け入れると言えば聞こえはいいが、実際は時間もお金も限りがある。
ハルキを独立したひとりの人間として認めるということは、そういった現実をしっかり踏まえた上で、実現可能な落としどころを探すということでもあった。
わたしはいくつかの調べ物と計算をして、その結果を2枚の紙にまとめた。
そして親子3人がそろう週末を待った。
夕飯の前に話をしようと夫に言われていたハルキは、その日の午後ずっとソワソワ落ち着かないようすだった。
夕方になり、わたしが食事の準備をあらかた終えるのを待っていたように、3人がテーブルの周りに集まった。
「さて」
夫はわたしと目を合わせ、それからハルキを見つめておもむろに口を開いた。
「あと半年で義務教育は終わりだけど、そのあとハルキはどうしようと思ってる?」
ハルキはうつむいて眉を下げ、軟体動物のように首をぐにゃぐにゃ揺らす。
「いや、まだはっきりとは……」
その語尾が頼りなく掠れていくのを引き取るように、夫が話を続けた。
「この間の面談で感じたと思うけど、正直なところ、今のハルキの状態で高等部に進むのはかなり厳しいと思う。
でも、昔と違って今の時代はいろんな選択肢があるから、この機会にこれから自分がどうしたいのかをじっくり考えてみなさい。
その結果、今の学校に残りたいというならそれでもいい。
ハルキがどんな選択をしても、俺らはそれを応援するから」
こっぴどく叱られるとばかり思っていたのだろう、ハルキは虚を突かれたように夫を見つめている。
「俺から言うことは、これだけだ。冬子から何かある?」
わたしは軽くうなずいて、2枚の紙をハルキの前に差し出した。
1枚目には、『義務教育期間終了にあたって』という見出しでいくつかの条件を書き出しておいた。
義務教育期間終了以降、負担可能な教育費は○○○万円。
ハルキが学校に通う場合のみ、この範囲内で学費を援助する。
全日制の学校に行かない場合は、必ず働くこと。
成人した時点で親としての扶養義務はなくなるので、遅くとも大学卒業の年齢である22歳までには経済的に独立すること。
独立後は自分で部屋を借りること。
やむを得ない事情で家にとどまる場合は下宿人扱いとし、部屋代、食費、光熱費等負担すること。
これが親であるわたしたちにとっての、具体的なデッドラインだった。
「それさえ守ってくれれば、どんな生き方を選んでもいいよ」
わたしは面食らったようすのハルキにニヤリと笑いかけ、次の紙を差し出した。
そこには、可能な選択肢をフローチャート形式でまとめておいた。
中卒で働く、内部進学、別の高校を受験し直す云々。
それぞれのメリットとデメリット、かかる費用やその後に選べる進路などもざっくり調べて書いてある。
ハルキはこれまでになく真剣な表情で、その表をじっと見つめていた。
そしてしばらくたってから、神妙な顔で「わかった、ちょっと考えてみる」そうボソリと呟いた。
その声を聞いた瞬間、ちゃんと届いたという確信が胸にストンと落ちてきた。
わたしたちにできるのは、ここまでだ。
あとは何も口出しせずに、すべてハルキに任せよう。




