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44 どん底

 それからほぼひと月の間、わたしの心は激しい嵐に見舞われ続けた。

 ありのままの気持ちをすくい上げようとするほどに、忘れていたはずの苦しい記憶や負の感情ばかりが噴き出してきて、どんどん自分をコントロールできなくなっていったのだ。


 地雷を踏むのはいつも、何気ないハルキの言動だ。

 どうしてだかハルキのやることなすことが面白いほど怒りのツボを突き、わたしは毎日のようにハルキに対して激しい感情を爆発させた。


 なんでそんなに自分勝手なの?

 どうしてわたしばかりが、こんなに我慢しなきゃいけないの?

 どうせ親なんかいくらでも踏み潰していいと思っているんでしょ?

 でも、わたしはあんたの便利な道具じゃない!


 それまで軽く受け流していたようなことにも反応し、狂ったように喚き散らしてモノを投げつけるわたしに、ハルキは思い切り冷ややかな視線を投げかける。


「何キレてんの? 声がでかくてうるさいよっ」


 張りつめた空気に響く冷たく鋭い声は、まるで2年前に戻ってしまったかのようだ。


 しかしダメだと思いつつもわたしは自分の暴走を止められなかった。

 あとからあとからどうしようもなくこみ上げてくる、憎しみにも似た怒り。


 わかってる、ハルキはそこまでひどい子じゃない。

 ただ確かめたいだけなのだ、自分がちゃんと愛され存在を許されているのか。


 わかってる、おかしいのはわたしのほうだ。

 なのにどうもがいても、目の前に立ちはだかる見えない壁を崩せない。心の奥底からマグマのように噴き出してすべてを破壊しようとするこの怒りが、どうしたらおさまるのかわからないのだ。


 このままでは、いつかわたしはハルキを壊してしまう――。



 来る日も来る日も、ふたりが家を出るのを待ちかねたように布団にもぐりこみ、その温もりに包まれながら背中を丸めてむせび泣いた。


 ごめんねハルキ、君はちっとも悪くない。

 ありのままの君を受け止めきれない未熟なわたしが悪いんだ。

 わたしが母親でさえなかったら、君はもっとのびのびと生きられたはずなのに。


 そもそも無理だったのだ、こんなできそこないの人間が親になろうだなんて。

 夢見たわたしがバカだった。


 いっそのこと、こんな母親いないほうが、ハルキにとっては幸せかもしれない。

 そうだ、わたしがいなくなりさえすれば――そんな甘く暗い誘惑に、なす術もなく心が引きずられていく。


 しかし、ぽっかりと口を広げた底知れぬ闇に飲み込まれそうになると、わたしを失ったあとの夫の姿がくっきり浮かび上がってくるのだった。


 わたしが自ら死を選んだとしても、彼はきっと悲しまない。悲しみなどという生易しい感情には、決して浸らないだろう。

 ただ、愛を重ねてきたその深さだけ激しく傷つき、ふたりの人生から黙って逃げ出したわたしを、一生許さないはずだ。

 わたしには、そうなったときの夫の気持ちが手に取るようにわかった。


 そしてようやく気がついたのだ。

 すべてを終わりにすることは、愛する者への最大の裏切りだ、と。


 それは、ふたりで積み上げてきた何もかもを、完全に否定することに他ならない。

 互いを思って歯を食いしばり乗り越えた日々も、どうしようもない愛しさに心が震えたあの瞬間も、すべて意味を失ってしまうのだ。


 それはわたしにとって、この身を引き裂かれるよりも耐え難いことだった。



 やっぱり死ねない。

 どんなにつらく情けない日々だったとしても、それでも生き続けるしかない。


 あらためてそう思い知らされたわたしは、この先も続くであろう苦しみを思いながら、濡れた枕に顔を埋めてひとりただ泣き続けた。

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