42 決壊
夏休みの直前に、久しぶりにハルキの担任から連絡があった。
以前とは違った熱量の感じられない声で、申し訳なさそうに今の状況を説明してくれた。
――普通この年齢なら、小日向君のような子は決して珍しくないんです。しかし今年の特進クラスは、例年に比べても出来がよすぎるというか……それでどうしても彼だけが目立ってしまい、注意せざるを得ない状況になってしまうんですね。
いや、もちろん彼が以前よりがんばっているのは、ちゃんとわかっています。しかしわたしも立場上、そのレベルで認めてやることができないんです……
確かにその通りなのだろうと、どこか冷めた頭で思う。
それに、このクラスに留まることを自分で選んでおきながら必要な努力を怠ったのは、他ならぬハルキ自身なのだ。
だがそれでも、虚ろな寂しさに胸が抉られるのをどうすることもできなかった。
わたしからその話を伝え聞いたハルキが、何を感じたのかはわからない。
が、夏休みを待ち構えていたように、完全昼夜逆転、パソコン三昧、何日も風呂に入らず歯も磨かずという生活に再び突入していった。
嫌がらせなのか甘えているのか、異臭すら漂うほどにべたついた体であえてわたしのベッドに寝転がるのも相変わらずだ。
そんなハルキへの苛立ちを抑えられず、「マジ、うざい!」と絶叫してしまう自分を、わたしはひたすら許すことにした。
どうなっても受け入れると口では言っておきながら、やはりどこかで期待して、その期待を裏切られたと勝手に腹を立てる親のエゴ。
でも、そんな自分を責めるのはもうやめよう。
腹が立ってもイライラしても、ひどい言葉を吐き捨ててしまっても、ハルキの気持ちをわかってやれていないと感じても、それでもいいんだ。
だって、今のままのわたしでは、ハルキをどうしてやることもできない。
だからまずは、自分を肯定することだけを考えよう。
すべては、そこからだ。
やりたいと思えることだけやる。
本当に欲しいものは、我慢しない。
そう決めたわたしは、以前だったら絶対に買おうと思わなかったような値段のウォーキングシューズを手に入れ、ただ自分のためだけにせっせと歩き始めた。
散歩ついでに雑貨や服をながめ、雨の日には家にこもってドラマを見て、気が向いた分だけぼちぼち家事をする。
時々、心の中で声が聞こえる。
こんなに楽してていいの?
みんな仕事してるのに、いいご身分だね。
何もしてないんだから、もっと家族のために尽くしたら?
でも、それはわたしを苦しくさせるまやかしの声。
今のわたしに必要なことは、きっとひとつだけなのだ。
どんな状態でも、どんな気持ちが沸いてきても、決して自分を責めない。
ともすればぐらつきそうになるその軸を守ることだけ考えて、わたしは一見穏やかに見える日常をひたすらに紡ぎ続けた。
そんな日々がもろくも崩れ去ったのは、10月のある日のことだった。
きっかけは、ほんの些細なことだった。
ハルキが自分で足に引っ掛け倒してしまったゴミ箱を指さし、にやついた顔で平然と「これ、直しといて」と言ったのだ。
そういうことは、以前もあった。
ムキになって意地を張り、激しいバトルになったことも数知れず。
だから最近は、気持ちを切り替え受け流すようにしていた。
しかしその日はなぜか、どうしてもハルキのその身勝手さが許せなかった。
心の奥底でくすぶりつづけていたハルキへの失望感と、奴隷のように扱われ踏みにじられた屈辱感が、抑える間もなく一気に燃え広がる。
腹の底から突き上げてくる衝動を抑えきれず、一度は直したゴミ箱を思い切り蹴飛ばし、洗濯物をドアめがけて投げつけた。
それでも怒りは収まらず、沸々と胸の奥が煮えたぎっている。
同時に沸き起こる激しい自責の念。
いいかげん、このくらい受け流せるようにならなくてどうするんだ。
平穏に過ごせているなんて嘘、本当は何ひとつ変わっていないではないか。
何よりこうしてキレるわたしを見て、ハルキがどれほど傷つくことか。
が、そのときふと思ったのだ。
こんなことばかり『考えて』都合のいいように心を変えようとすれば、わたしが『感じた』怒りは、またどこかに置き去りにされてしまう。
ありのままの気持ちを大切にと言いながら、無意識のうちに自分を抑えてハルキを受け止めることばかりを考えてしまう自分。
必要なのは責任でも思考でも理由付けでもなく、まずわたしが感じた『気持ち』をありのまますくい上げてあげることではなかったか?
そう、本当は、こんな風に踏みにじられるのは嫌なのだ。
我慢するのは、もうたくさん。
そんな自分の気持ちを、もう認めてあげていいはずだ――。




