30 腹をくくる
長いと思っていた夏休みもあっという間に終わり、9月になった。
始業式の日の朝から、ハルキは何かそわそわと落ち着かない。
「どうしよう、昨日寝ちゃって数学の宿題できなかった。なんて言い訳しよう」
どうやら1学期の終わりに数学の先生から「今度宿題やってこなかったら、マジ、キレるからな!」と脅されていたらしい。
そのあとも「どうしよう」と繰り返しながら家中をうろつきまわり、やがてわたしの顔色をチラチラとうかがいながら、こう切り出した。
「……ねえ、休んじゃダメ?」
その瞬間、わたしは心の中で絶叫した。
『ありえなーい、あれだけ夏休みがあったのに! それに夕べだってネットゲームしっかりやっていたじゃん、何回同じことを繰り返したら気が済むの!』
しかし表情には出さず、精一杯の冷静さで答える。
「……ダメ」
「そうだよね……」
ハルキはあっさりあきらめて、そのまま登校していった
ホッとする反面、がっくりとうなだれた後ろ姿に心が揺れる。
わかってる。腹が立ってしまうのは、あれだけ好きにさせてあげたのだからそろそろしっかりしてくれるだろうと、勝手に期待を膨らませていたからだ。
そしてもうひとつの理由は、ハルキが本格的な不登校になることが、とてつもなく恐ろしかったから。
今はまだ、生活は乱れていても、学校に行こうとはしている。
だからこそ、なんとかこの状態で踏みとどまって欲しい、そう願ってしまう。
もちろん登校してさえいれば大丈夫というわけじゃない。その証拠に、きちんと通学し続けていた10代のわたしは、見えないところでしっかり病んでいた。
それでもなお、学校に行ってくれさえすればと願ってしまう、愚かな親の性。
わかっているはずなのに。
ハルキの人生はハルキのものだ、と。
そう、ハルキには、わたしなら選ばないであろう道を選ぶ権利も、そのせいで失敗する権利も、そしてその失敗を後悔する権利さえもあるはずなのだ。
親のエゴでそれを奪ってはならない。
腹をくくろう。
たとえどんな結果になったとしても、信じて任せる覚悟をしよう。
ハルキの人生は、ハルキの手に返さなくてはならない。
その日学校から帰ってきたハルキは、満面の笑みでこう告げた。
「宿題の提出、明日だった!」
すっかり浮かれてそのままゲームに突入していこうとするハルキ。油断すると昨日の二の舞になるよと釘を刺しそうになったが、ここで口出しをしてはならない。
翌朝になって部屋をのぞくと、案の定机の上には開いたままのテキストとノート。当の本人は、メガネをかけたままベッドで寝入ってしまっている。
でも今日こそは、ハルキがどんな選択をしたとしても受け入れる。
わたしは改めて自分にそう言い聞かせ、眠りこけているハルキに声をかけるといつものように風呂を洗い始めた。
やがてハルキが思い詰めた表情で風呂場にやってきた。
「宿題終わってないんだけど……休んでもいい?」
やはりそうきたか。
先生に怒られるのを回避したいがための行動は、実に愚かだと思う。
目の前の困難から安易に逃げるのがよくないのもわかってる。
それでも、ハルキ自身が決めたことなのだ。
静かに息を吸い込んで、下腹に力をこめる。
「いいよ」
その答えに「え? ホント?」信じられないといった表情のハルキ。
「うん。自分で決めたなら、いいよ」
重ねてそう言うと、ハルキはホッとしたようなはにかんだような笑顔を見せて、再び布団の中へと戻っていった。
あーあ、休ませちゃった。
でも、これでよかったんだよね?
わたしはその勢いで、『体調が悪いので休ませます』と学校に電話を入れた。
その嘘も担任は全部わかっているかもしれない。
だとしてもかまうものかと開き直る。
その後いつも通りに自転車で10分ほどの職場に向かい、午前中の仕事を終えて昼食をとるため家に戻ってきた。
ハルキの部屋をそっとのぞいてみると、やはり宿題は後回しでネットゲームに夢中になっている。思わずついた溜息に、やはり少し期待していたと気づいて苦笑し、もう一度呪文のように心の中でつぶやく。
――これはハルキの人生、失敗する権利も後悔する権利も奪ってはならない。
ふと、以前ユミが掲示板に書き込んでいた言葉が頭に浮かんできた。
『子供は必要のないことはしません。何かにはまるのは、本当にはまるしかないときなのです。そして気が済めば、子供は自然にそれを手放します』
ならば今のハルキには、きっとこの生活が必要なのだ。
面倒なことから逃げているだけに見えても、この時間にはきっと何か意味がある。
それが何かはまだわからないけれど、信じて見守ろう。
ハルキには、自分で大切なものをつかみ取り乗り越えていく力があるはずだ。
不思議なことに、気持ちがそこにおさまると、夢中でキーボードを叩き続けるむさくるしいはずの息子が妙にいじらしく思えてくるのだった。
胸の奥からこみ上げる温かいものに突き動かされるように、わたしはハルキの寝ぐせだらけの頭にそっと手を伸ばす。
「なんだ、コイツ」
そう言ってハルキはポンポンと頭をなでるわたしを振り返り、まんざらでもなさそうな顔でニヤッと笑ってそのままゲームに戻っていった。
これまでも行ったり来たりを繰り返してきたわたしの心は、きっとすぐまた迷いの中に入ってしまうだろう。
でもこの瞬間、確かにわたしは、目の前の息子を愛しいと感じている。
今味わっているこの想いを忘れずに、これからの足がかりにしていこう。
道に迷ったら何度でも、戻ってくることができるように。




