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28 自分の気持ちに会いに行く

 その日わたしは、いつになくイラついていた。

 ハルキの鞄に数日前から入れっぱなしのお弁当箱が気になって仕方なかったのだ。


 季節は夏。

 中がどんな状態になっているかを想像するのも恐ろしい。


 でもこちらから取りにいくのは筋が違う。

 まずは何気ない風を装い、声をかけてみることにした。


「台所片付けたいから、お弁当箱洗って欲しかったら、いま持ってきて~」


 すると、ハルキの部屋から弁当箱がポーンと『飛んで』きた。


 直後にドアからちょこんとのぞいた笑顔を見れば、ふざけただけだとすぐわかる。

 わかってはいる。


 だが――。


 何日も経ったくっさい弁当箱。

 わたしだって洗うのはイヤだけど、しょうがない我慢してやるかって思ってた。

 それなのにあんたは、流しに持ってくるだけの手間も惜しむっていうの?


 苛立ちが別の言葉にすり替わり、口から勝手に飛び出していく。


「投げないでよ、落としたら割れるでしょ!」


「何言ってんの? 割れないよ」


 フンと鼻で笑うようなハルキの物言いを耳にした瞬間に抑えようのない怒りがこみ上げ、衝動的に弁当箱を床にたたきつけた。

 割れた破片があたりに飛び散る。


「ほら、割れるじゃない! それに、こんな臭くなった弁当箱洗いたくない、自分で洗ってよ!」


 しかしハルキは激高したわたしを冷ややかに眺めて言い放つ。


「……これは、『割れた』んじゃなくて『割った』んだ。

 わかりました、自分で洗いますよ。

 もう割れてるけど、それでも洗っとく?」


 そこまで言われて、ようやく我に返る。


 ああ、やっちゃった……。


 ここ数か月ハルキの生活は相変わらずで、夜更かしやサボりともいえる欠席、制服や弁当箱をめぐる小競り合いも続いていた。


 それでもわたしの気持ちの中では『まあ、いいか』と思えることが少しずつ増え、以前に比べたら家の空気は格段に穏やかになっていた。

 おそらく、弁当箱を投げられても余裕で受け止められるくらいには。


 わかってる。

 昨日、学校の懇親会と学年会があったのだ。

 クラスのお母さん方と話をし、中間テストの順位表をもらった。


 ハルキの成績は当然ながら最下位で、遅刻も欠席もクラス最多。

 覚悟していたつもりだったけれど、改めて確認させられ落ち込んだ。


 担任は厳しいことは言わなかったけれど、周りの話を聞いているだけで思い知らされる。他の子はみんなちゃんとやっているんだ、と。


 それなのに、日曜とはいえ今日も起きてからずっとゲームをしていたハルキ。その姿に、たぶんわたしは腹を立てていたのだ。


 この子には回り道が必要なのだと寛容に受け止めているつもりでも、それとは別の感情が胸の奥に隠れている。ありのままのハルキを本心からは受け入れることができず、気がつくと他人と比べ、常識の物差しで測ってしまう。

 なのにそんな自分の偽善を認めず無理して理解のある母親を装っていたから、ちょっとしたきっかけで爆発したに違いなかった。


 ああ、結局は、何にも変わってないじゃないか――。


 それでもなんとか気を取り直して謝りに行くと、笑顔で軽くあしらわれた。


「はいはい、わかったわかった。もうゲームしたいから、あっち行って」


 あきらめにも見える冷めた表情が、胸を一層深く抉る。


 小さい頃からこんなことを繰り返してきたせいで、ハルキは『深く考えない』という対処法を身につけてしまったのかもしれない。

 ハルキが何に対しても本気にならないのは、やはりわたしの責任だ――。


 湧き上がる後悔と自責の念に居ても立ってもいられず、あえぐようにパソコンに向かう。いつもの掲示板を開き、淡いグリーンに滲む画面をひたすらにスクロールして、乱れた心を静めてくれる言葉を探し続けた。


 やがてわたしの目は、ある書き込みに吸い寄せられていった。

 それは、かつて娘が不登校だったというユミの言葉。


『……いくら母親とはいえ生身の人間、いろんな気持ちが湧いてきて当然だと思います。

 そして、湧いてくる気持ちには、必要のないものはありません。


 たとえそれがどんな感情であっても、大切に居場所を確保してあげる。

 それがわたしの、自分の気持ちへの対処法でした』


 湧いてくる気持ちに、必要のないものはない――?


 怒りや苛立ち、不安に失望、劣等感に歪んだプライド。ハルキと関わるたびに湧き起こるさまざまな負の感情を、わたしはこれまで嫌悪し排除しようともがいてきた。

 しかし、怒りも不安もプライドも、どれほど必死に消し去ろうとしても決してなくなることなどない。無理に抑え込もうすれば、今日のように別のものに変質するだけだ。

 わたしはその不毛な闘いに、すっかり疲れ果てていた。


 しかし、そもそもそれらと闘う必要など本当にあったのだろうか?

 ユミが言うように、怒りも、不安も、憎しみさえも、実は忌むべきものではなく、寄り添い受け入れていくものなのだとしたら?


 ひょっとしたらわたしがすべきだったのは、感情を切り捨てることでも自分を変えることでもなかったのかもしれない。


 湧いてくる気持ちを、ただそっとすくいとってあげること。

 その奥の、ありのままの自分に会いに行くこと。


 もしかしたら、そこにすべてのカギがあるのかもしれない――。

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