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国境線にて  作者: 劉之介
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7. 荒野、不安

 僕は目を開けた。

 覚醒したとき、僕は最初ここが現実の世界だとは思っていなかった。夢の中だと思っていた。明晰夢というやつだ。しかし意識の霧が晴れてくると、その世界が現実のものだということを知った。僕は咄嗟に驚いた。眠ったのに夢を見なかったからだ。

「おはよう」

 老人の声が聞こえた。僕は完全に脳が覚めるのを待ってから、ゆっくりと起き上がった。僕はソファーの上で横になるように寝ていた。もう、朝になったのだろうか。時間の感覚は完全にどこかへと消えてしまっていた。でも今の僕の状況からすれば、朝や夜なんてさほど意味のあることではないのだろう。僕は起床した。大きなあくびをして、両腕を天井に向けて精一杯の伸びをした。元々あった疲れが更に重く、のしかかってくるような気がした。

 テーブルの上には赤色のスープが二つ僕と老人の前に置かれていた。ミネストローネだろうか。僕は器にまたがるスプーンをとると、まるで三日三晩何も食べていないストリートチルドレンのように、慌ただしく口に入れた。老人は昨日と同じく、僕の向かい側に座っていた。僕の食べる姿を見て、唖然とした表情をしている。

 液体の部分は全て流し込み、後は器に残った固形物だけになった。早々にトマトを片付け、僕はそこで一回息をはいた。ひとまず休憩だ。味のことは記憶に残っていない。昨日と同じだ。いったいこの食欲はどこからやってくるのだろう。食べている自分が一番驚いている。

 少し冷静になった僕は陶器をテーブルに置いた。ミネストローネは残すところあと玉葱だけになった。しかし僕はそれには手をつけず、向かい側にいる古老の様子を窺った。彼はもう僕の食欲には関心がないようだった。どこかを見て、何か考えごとをしているようだった。

「どうしたんですか?」僕は訊ねた。我慢しようとも思ったが、どうしても出来なかった。

 老人は僕の問いに対して答えようとはしなかった。口を引き結び、僕の少し上を見つめている。もしかしたら、と僕は思った。彼は考えごとをしているのではないかもしれない。本当に僕の頭上には誰かがいるのだ。影のような姿をしたそいつと、老人は睨み合いっこをしているのだ。ルールの詳細は分からないが、取りあえず喋ってはいけないということなのだろう。もしそういうことならこの沈黙の理由も納得できるかもしれなかった。

 僕は器に残った最後の玉葱を口の中へと入れた。僕が器を置くと、老人はまるで夢から覚めたように僕のほうを見た。これまで見たことのない彼の鋭い視線に、僕は体が強張るのが分かった。

 老人は日なたに影が差しこむようなさりげない声で、僕に一言呟いた。

「外へ行こう」

「え?」僕は訊き返した。

「外だよ。君はそうしなければならないんだ」

 僕は激しく戸惑った。「どういうことですか?」

 彼はそれついては何も言わず、突然立ち上がった。僕は今起きている状況がうまく飲み込めなかった。何者かが老人の姿に変装して、僕を連れ去ろうとしているのだろうか。ふとそんな考えが頭をよぎった。

「どうして……外に行くんですか」僕は改めて尋ねた。行き先の分からないタクシーに乗っているような気分だった。

 昔人は不気味に微笑んだ。

「いいから。どうしても、君に話したいことがあるんだ。さ、早く」

 僕は迷った。果たして彼の言うことに従ってもいいのだろうか。僕は自分の中の恐怖心を解いて傍観的な視点で吟味してみた。そもそも僕に話したいことがあるのなら、ここですればいいだけのことだ。それをわざわざ外でするということは、この小屋の外には何かがあるということなのだろう。その何かを確かめるのに、僕の好奇心は揺らいだ。この昔者が行おうとしていることに随伴してみる価値はあるのかもしれない。自分と対話することが多かったこの数日。そろそろ人と繋がってもいい時期なのではないか。

 結論はそれで十分だった。僕は口の中で粉々になっている玉葱を飲みこむと、ソファーから腰を上げた。

 僕が起床してからここまで、ものの数分しか経っていなかった。



 壁と荒野。目に見えない国境線。僕はもう一度辺りを見渡した。悶々と悩み続けていた景色がそこにあった。逃げ出していたようでずっと近くにあったのだ。僕は自分をあざ笑った。

 老人はペンキの入ったバケツを持っていた。ペンキの色は青色。バケツは彼の足もとにも二個置かれていた。二つともペンキは入っていて、それぞれ赤や黄色といった具合だった。

 木板の壁はログハウスのすぐ近くに建てられていた。僕は老人の横顔を覗いた。僕は彼に壁とここに来た経緯について話したが、この事実が分かった以上、老人は僕の話を微笑ましく聴いていたに違いない。僕は途端に冷汗三斗の思いになった。

 老人の横顔についている口が動いた。目線は壁に向けられているが、僕に話しているのだ。

「まず、君に一つ言っておきたいことがある。よく、ここまできたね」

 老人は続けた。

「君を半分騙したような形になってしまって、すまなかったと思っているよ。でもね、このことだけはどうしても伝えておきたかったんだ。大切なことだからね。君が大人になっていくなかで、これだけは越えていってほしいんだ」

 砂が低い空を舞っている。僕は飛んでくる砂を目に入れないようにしながら一言発した。「いったいあなたは誰なんですか?」

 彼は瞬きを繰り返した。「そんなに気になるのかい」

 僕は頷いた。

 老人は微笑を浮かべた。「いまはそれについて考える時期ではないよ。君にはもっと考えなければいけないことがあるだろう」

「国境線のことですか?」

 老人は無言で首を縦に振った。「あと、便箋だ。あの便箋の意味を知れば、この国境線の正体も分かってくる」

「国境線の…… 正体?」僕は訊き返した。

 古老は僕の方を向いた。向けられた目は何かを訴えかけていた。

「便箋の意味。君はあの暗号のような比喩表現が何を示しているか分からないといったね。でも、それは真実ではない。君の想いの底には必ずや、不安や恐怖が眠っている。その眠りを覚まして外に出してあげなければ、君の精神はいずれ限界を迎えてしまうだろう」

「でも、本当に分からないんです。もちろん僕にも様々な不安や緊張はあります。でもそれは人が生きていれば誰しも持っているものであって、僕だけ特別なはずはないと思うんです」

 老人の眉が動いた。「その不安だよ。その不安をいまここで言ってごらん。口に出して、言葉に表して」

 僕は当惑した。本当に分からないのだ。そもそも、曖昧なものだから不安な気持ちになるのだろう。具体的に出来たら、それは不安とは違う気がする。

 でも僕は老人の言うことに従ってみることにした。便箋の謎が、国境線の正体が、解明できるのならもう藁にもすがる思いだった。僕は自分自身に問いかけてみた。

 荒野の世界を意識の外へと締め出した。僕は目をつむり、果てのない世界に入っていった。


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