6. 微笑、永遠
卵、人参、豚肉、白菜、竹の子。僕は牛飲馬食の如く、口の中にこれらのものを入れていった。食事の最中、僕は料理の味について一切考えずにスプーンを扱っていた。無言のまま、僕はただ皿に乗っかった「もの」を減らすだけの作業に取り組んでいた。作業と言ってもこの時の僕の心情は、安心と幸福の要素しかなかった。暖炉の匂いと、部屋の温度が僕の皮膚とほのかに交わり合っていくのが感じられた。僕は料理を口に入れながら(食べながら、ではないのだ)おかしいことに涙がでそうになった。
老人は僕の向かい側に座って、僕の食べる姿を眺めていた。相変わらず、表情は微笑んでいた。夢中で食べながら僕は思った。この人は微笑むこと以外に表情を持っていないのだろうか。
「美味しいかい」老人が僕に尋ねた。
「おいしい、です……」僕は口ごもりながらもすぐに返した。だがさっきも言った通り、今の僕には食べ物の味が分からない。犬みたいなものだ。
「それは良かった」彼は安堵したようだった。僕は食べ物しか見ていなかったが、彼の表情はいちいち確認しなくても分かる。きっと微笑んでいるのだ。
食事が終わると、僕は大きなげっぷをした。鈍い音がテーブルの板の上に弧を描いた。げっぷは下品な行為だが、ある地域ではこれが好意的なものとして受け取られるらしい。でもだからと言って、それは「ある地域」だけの話だ。このログハウスの中ではげっぷが許されているとは限らない。僕は恐る恐る老人の顔を見た。いとも簡単に、一吹きで解決した。
老人はスプーンでスープをすくっていた。スープの色は緑色。料理が液体だというだけで、どのような名前のものなのか、僕には分からなかった。
スープを飲みながら彼は僕に尋ねた。
「君は…… どこから来たんだね」
彼は探るような目で僕を見た。
僕はどう答えていいか分からなかった。少し悩んだ顔をして、首を横に振った。
「覚えてないのか?」
「いや、どう説明していいのか分からないんです。いろいろと複雑なことがあったもので」
「複雑なこと? それはいったいどういうことなんだ」老人はスープを一口飲んだ。
僕は少し考えてから簡潔に言った。「壁です」
「壁?」老人は首を傾げた。
仕方がないと思った僕は、今までのことを簡潔に説明することにした。
「ある時、目が覚めたら僕は見たこともない場所にいまして。砂嵐が吹き荒れていて、地面はぬかるんでいて、荒野のようなところに僕は寝ていたんです。どうして自分がここにいるのか、いったいどのようにしてここに来たのか。そこの部分の記憶が全く無かったんです。今だって思い出せない。ただ、その場所について何から何まで完全に知らなかったわけではありませんでした。それが『壁』です。その壁はいわゆる国境線のようなものでした。目に見えないはずなのに、誰かが勝手に設定したせいで、まるで本当にそこにあるような錯覚をしてしまう。壁はその目に見えないものを目に見えるようにするためのオブジェクトなんです。壁は荒野の地面に延々と続くように建てられていました。地平線までずっと、果てのないように。僕はとりあえず、その壁に沿ってしばらく歩いていこうと決めました。というのも僕はその『なぜか知っている』その壁について調べなければならないと思ったからです。これは自分の意志がそう決めたのか、あるいは誰かが予め僕の脳にインプットしておいたのか、それは分かりませんがとにかく僕はそう思ったのです」
「それで、結局壁について答えを出すことが出来たのかい」
「あまり…… 決定打となるようなものは……」僕は申しわけなさそうに言った。
「でも、ここに来ることになったきっかけのようなものは掴むことができました。荒野に来る前僕は自宅で、突然届いたある便箋を読んでいたんです。その便箋は白い封筒に入っていて、封筒には宛名も住所も何も書いてありませんでした。不思議な封筒でしたが、僕は封筒を開けてみました。便箋には僕が今後『雨雲のような危険』と遭遇する、と書かれてありました」
「雨雲のような危険?」老人は首を傾げた。
「僕にもその意味は分かりません。もちろん何かの比喩なんでしょうけど、その何かがなんなのか分からないんです。そしてそのあと、その謎を背負ったまま僕は眠りにつきました。これが荒野にいる前の最後に覚えている記憶です」
僕はため息をつきながら、話を終えた。
老人はしばらく唸った後、口を開いた。
「それは難しい問題だね。雨雲のような危険……。君はそれについてどんな思いを抱いているんだい? 怖いとか、好奇心とか…… いろいろあるだろう」
僕は腕を組んだ。なるほど、そんな見方があったのか。考えてみれば僕は今までその雨雲のような危険について、その比喩の正体を探ることだけに時間を費やしていた。しかし、その雨雲は自分にとってどんな影響を及ぼすのか、また僕自身がその雨雲についてどんな想いを抱いているのかについては考えたこともなかった。
僕は正直に答えることにした。
「少し考えさせてください。今まで意識したことがなかったもので」
「本当かい? 自分の身に起こる問題なのに。どうしてだい?」
「どうしてって……」僕はまごついた。「たぶん、考えることが沢山あったからだと思います。壁のこととか、将来のこととか…… それに疲労もありましたので」
老人は頷いた。
「よし。じゃあ、今から考えてみるというのはどうだい。真正面から謎に立ち向かっていくよりも、そういう感情的な部分から組み立てていった方が、より謎に近づけるんじゃないのかな」
僕は点頭した。確かに、やってみない手はないかもしれない。雨雲のような危険は僕に関係していることなのだ。手当たり次第探っていけば、どこか意外なところで尻尾が掴めるかもしれない。僕は便箋の文字を初めて読んだあの時の心境を思い出して、答えを出してみることにした。
雨雲のような危険。危険ということは無論、それは恐ろしいことだ。だから普通は恐怖心を抱いて当然なのだ。文面にもそう書かれていた。記憶が正しければこんなものだったはずだ。
貴方様はその「永遠に繰り返される波」に恐怖を感じておられるようです。
背後から殴られたような衝撃を受けた。永遠に繰り返される波。どうして今まで僕はこのワードについて興味を持ってこなかったのだろう。今でも思い出せるのだから、忘れていたということはないはずだ。僕は単に無視してしまったのだ。ショーウィンドウに飾られていたのにも拘らず、僕は素通りしてしまったのだ。僕は自分の愚かさを嘆いた。
全てを振り出しに戻そう。僕は頭を整理した。僕はその永遠に繰り返される波に恐怖を感じているらしい。自分のことなのに「らしい」と言ってしまうのがこの問題の不思議なところだが、僕はさほど気にとめずに先へと進んだ。果たして、自分が抱いている恐怖の中でそれに該当するものはあるだろうか。僕は自分の心を凝視した。しかし、自分の恐怖心について日ごろからリストにして書きだしているわけではない。僕は目を強くつむった。
僕の苦悩している姿を見て、老人は悪いことをしたと思ったのか、僕に声をかけた。
「すまんね。無理をさせてしまって」
「いや、大丈夫です。おかげで新たな発見が出来ましたから」僕はすぐに答え、再び思考の世界へと潜った。
永遠に繰り返される波。便箋には多数の比喩表現が散りばめられている。まるで理解してくれるのが当然とでも言うかのように。僕はだんだんと苛立ってきた。僕を惑わせるあの便箋を書いた主はいったい何がしたくて、あんなものを書いたのだろう。僕に危険を伝えたいのなら、もっと分かりやすく書くべきじゃなかったのか。僕は頭を掻きむしった。それを見て、再び彼は僕を心配した。
「本当に、大丈夫かい?」
「はい、大丈夫です」
「でも、そうは見えない」
僕は困った。苦悩するというのは、必ずしも苦痛だけというわけではないのに。僕は彼にこれ以上心配をかけさせないように慎重に言葉を選びながら言った。
「これは自分のことですから。自分の力で早急に解決したいんです。だから、大丈夫です」
老人は渋々頷いたように見えた。僕はその「渋々」に構うことなく、思考をまた飛ばした。時間の感覚が徐々に鈍りつつあった。
焦燥が天から降り、潜考している僕の地に降り積もった。自分と向き合うというのがこれほどまでにも難しいとは思わなかった。口で言えば単純なことだ。「自分のこと」。それなのにどうしてこんなにも時間がかかってしまうのだろう。もっと合理的で便宜的な策はないだろうか。ショーウィンドウを通り過ぎ、近道も通り過ぎ、視野の狭くなった僕は歩く。
幸運と不幸の連続が幾重にも折り重なっている状況。
僕は(これで何回目になるだろう……)いつのまにか眠ってしまった。




