5. 視覚、老人
僕は飛び起きた。視界がぼやけて動かなくなる。冷静な判断ができずに僕は焦った。どういうことだ。いったい何が起きているんだ。視覚以外の五感を使って、僕はできる限りの情報を集めようとした。最初に資料を持ってきたのは触覚だった。どうやら僕の体表には大量の汗が噴き出しているらしい。次に用意してきたのは味覚だった。しかし資料の内容は触覚と同じものだった。僕は汗を口に入れてしまったのだ。
そうしているうちに、弱くなっていた視覚が徐々に鮮明になってきた。僕は両目を手でこすり、正常化しつつある視覚の手助けをした。その最中、聴覚が大量のレポート用紙を積んで、僕のほうにやってくるのが見えた。近づいてきた聴覚の肌には汗がにじみ出ていた。聴覚は部屋に入ってくるなり、僕が座っている机に山のような用紙を置いた。積まれた用紙のあまりの重さに、僕は机が壊れてしまうかと思った。
聴覚が集めてきたのは次のような声だった。
「おや、大丈夫かい」
「よかった。このままずっと意識が戻らないと思って心配したよ」
「きっと悪い夢でも見ていたんだろう。さあ、早く起きておいで」
僕は戸惑った。言葉の順序はばらばらだが、おそらくこれは僕に向けられたものだ。僕は誰かに話しかけられている。近くに「人間」がいるのだ。
僕はその声に答えるため、何か言葉を発しようとした。しかしその前に視覚がようやく元の力を取り戻した。今まで眠っていた視覚が日の光に照らされ、むっくりとベッドから起きだしてきたのだ。部屋に入ってきた視覚を僕は笑顔で迎えた。
視覚が見せてくれたのは、丸太で覆われた部屋の内部だった。僕は毛布を被り、床に仰向けとなるようにして寝かされていた。部屋の向こうにはかまどが見え、その中では火が焚かれていた。僕は広々とした部屋を見渡し、そして確信した。ここは公園の中でも、駅のホームでも電車の中でもない。僕はログハウスの中にいるのだ、と。
僕は慌ててこれまでの記憶を振り返った。僕は確か、電車の中で居眠りをしていたのだ。夢の中で僕は自分の理想郷を造っていた。誰にも邪魔されない、浄化されたユートピア。僕はその中にある公園で可笑しな考えごとをしていたのだ。その考えごとに題をつけるとしたら「闇と光の戦い」というところだろうか。結局その戦いは光のほうが勝った。闇は光の力を受けて、少しずつ亀裂が入っていき、最後には完全に割れてしまったのだ。
そのあとから僕の記憶は消えている。そこからいったい何が起きたのだろう。僕は自分を責めた。もしかしたら電車の中にいたのは僕だけではなかったのかもしれない。僕は連れ去られたのだ。一人ぼっちで寝ている僕を何かに利用しようと、誰かが僕を誘拐したのだ。ああ、何ということだろう。僕は取り返しのつかないことをしてしまった。これではもう国境線が何のためにそこにあるのか、僕はどうして荒野に来ることになったのか。答えを探すことができなくなってしまった。僕はこのまま一生、帰ることができないのかもしれない。僕は恐怖に身を強張らせた。
包丁で何かを切る音が耳元をかすめた。僕はすぐさま我に返った。何者かが料理をしている。このログハウスの住人だろうか。心臓がはちきれんばかりに鼓動していた。僕は毛布から抜け出て、立ち上がった。床の冷たさが恐怖心となってさらに僕を怯えさせた。音のするほうへ僕は歩いていった。どうやら包丁の音は別の部屋から聞こえてくるようだ。
部屋の壁に背中を付け、諜報活動をする密偵のように恐る恐る音に近づいた。近づくにつれて音のバリエーションも多くなっていった。それと同時に嗅覚もそそくさと動き始めた。何かを焼いているような匂いがしてきたのだ。沸騰したお湯の音もこちらに届いてきた。僕はその音と匂いに自然と顔がほころぶのが分かった。どれだけ警戒心を持っていても体は正直だ。
そのまま数分間、僕はその軽快な音のファンファーレに聞き入っていた。キッチンはすぐそばだ。しかし僕はまだ、料理を作っている人物と対面するほどの覚悟は持っていなかった。このまま状況が変わることなく、延々とリピートし続けてくれれば……。音を聞きながら僕はそう思った。
しかし、残念ながら時間の流れは僕の期待とは反対の方向に歩いていた。料理が出来上がってしまったのだ。音から予想するに、いま主人は皿に料理を盛り付けているというところだろう。さあ…… 僕は一気に緊張した。この後、僕はどう動けばいいのだろう。不安になる要因は一つ。ここの主人は僕を誘拐した人物かもしれないという疑惑だ。善人か悪人かもわからない。僕の首に重さを持った雫が滴り落ちた。
しかし結局僕はすぐに判断を下すことが出来なかった。まるで稲妻の側に置かれた石のように僕は静止していた。
辺りを静寂が包んだ。突き抜けることが出来たのは時計の秒針だけだった。
僕は闇が壊れるのを見つめていたように、唾をごくりと飲み込んだ。歓迎されない時はもう間近に迫っていた。
白い口髭を生やした老人。キッチンから現れる。
二つの皿を持っている。乗せられているのは中華丼のような料理。
老人が横を見る。壁に背中を付けている滑稽な僕に気付く。
驚く、驚かない。驚かない、驚く…… いや、驚かなかった。
僕は無表情。頭の中はエンプティ―。
老人は微笑んだ。「腹が減っているだろう。どうだい、一緒に食べないか」
その瞬間、僕の中に存在していた糸の集まりに鋏が入れられた。緊張が一気に解けていったのだ。
僕はゆっくりと頷いた。