4. 電車、太陽
アナウンスが僕の頭上で鳴り響く。
駅のホーム。僕は点字ブロックの前に立って、一本の列車を待っている。線路の向こうに見える空は茜色をしていた。強い哀愁を抱いたその夕焼けは普段目にする空よりも遥かに美しく色づいていたが、僕はあまり興味を持てなかった。
ホームには僕の他にも二人いた。一人は男性。背後のベンチに腰かけて新聞を開いている。もう一人は女性。まるで雨やどりでもかのするように、僕から遠いところで電車を待っている。
ホームには僕を入れてこの三人しかいなかった。本当にこの三人しかいなかった。ホームの周りには取り囲むようにして高層ビルが建っている。都会のはずなのに、ここは異様にも静寂に満ちていた。でも僕は特に考え込むようなことはしなかった。不思議なことはなるべく不思議に思わないこと。僕は自分に言い聞かせるように言葉を唱えた。
静かな騒音と共に電車がやってきた。静かな騒音というのは、僕の中で勝手に考えた電車の走行音の愛称だ。電車の扉が僕の前で開く。ドアから出てくる人はいない。僕は躊躇することなく、中に入った。
電車内は驚いたことにもぬけの殻だった。沈黙の温度は僕が入ってきても変わらないままだった。僕はこの状況を信じることができず、慌てて隣の車両を覗いた。奇妙なことに小窓の向こうはこの車両をそのままコピーしたように空っぽだった。いったいどうしたことだろう。僕は不思議に思った。だがすぐにその思いを飲み込んで、自分なりに納得できる案を考えてみた。
すぐに思いついたのは、この電車は僕のために用意されたものである、というものだった。でもその案は考えてすぐに却下した。公共の機関が僕みたいな一市民にそんなことをするわけがないのだ。
景色が窓の外で急速に動き始める。夕焼けが見られるのもあと数分だ。
結局僕は国内で深刻なインフレが発生したのだと考えることにした。電車料金が急激に上がり、政府が手を打つまで国民は一駅区間の電車代さえ払うことが出来ない。だから都会にある駅でも電車に乗れる者はごくわずかな者だけ。とりあえず僕はそれを一時的な解答として胸の中にしまいこんだ。あくまでも自己満足の域をでないものだ。実際インフレが起きたらどうなるかなんて僕には分からない。でたらめな答えを言っていることは自分が一番よく分かっているつもりだ。それでも僕は、納得した。大事なのは考えすぎないことだ。小事にいちいち囚われていては、前には中々進めない。
電車はトンネルに入った。待っていたかのように耳に厚い空気が入り込んできた。
この電車はどこへ向かっているのだろう。ふいにそんなことを考えた。そもそも、僕はどうして行き先も分からない電車になんか乗り込んだのだろう。もっと言えば、どうして僕は駅のホームになんかいたのだろう。ホームに至るまでの経緯なんて僕の記憶には何一つ残っていない。誰かが僕を誘拐して、ここまで連れてきたのか? 分からない。いくら思考を巡らせても答えは誰も教えてくれない。
嗚呼、また考えすぎてしまった。僕は自分を責めた。くだらないことで頭を悩ませたところでまた新しい拭えない不安を生むだけだ。どうしてこうも頭を酷使するようなことをしてしまうのだろう。近くに誰か人がいれば、少しは気が紛れてましになるのかもしれない。でも僕は常に孤独だった。もちろん自ら望んでそうなっているわけではない。出来ることなら早く孤独から抜け出して、溢れたこの不安をハンカチでふき取ってしまいたいのだ。
電車はトンネルを抜けた。僕は気分転換ができることを期待し、窓の外を見た。しかし隧道を抜けた先の景色は入る前とさほど変わりはなかった。
疲労がどこからか飛んできて僕の上に重くのしかかる。眠気は全くなかったが、できることなら眠ってしまいたかった。自分で自分を痛めつけるこの時間から早く、逃げてしまいたかった。
電車は一定のスピードを保ち、ゆっくり丁寧に進んでいった。それは料理の上手な人が包丁を扱うように、安心して見ていられるものだった。僕は目を閉じ、この電車が向かう場所を想像した。果てしなく敷かれた線路の先にはいったい何が待っているのだろう。見慣れた光景では面白くない。もっと抽象的で、刺激的な場所がいい。僕は自分が考えることのできる範囲であらゆるユートピアを想像した。どれも童話の世界に出てくるような、非日常的で、秩序が保たれているような場所だった。そこには現実で起きているような厳しくも美しい生活はなく、花の匂いを嗅いで、それについて直感的に思ったことをノートに記すだけで一日が終わるようなそんな世界だった。
僕はそんな理想郷を頭に描き、そして自然とこぼれた微笑を持ち物にして、その世界を探索していった。不思議なことにその世界では自分がこうしたいと思ったことを瞬間的に具現化することができる、まさに魔法のような処だった。僕はさっそく広々とした空地を緑の生える公園に変えた。ロードローラーを走らせ、舗装された道路を造り、空いたスペースには沈黙したビルをいくつも建てた。それは皿に乗せた数個の小豆を箸で一つずつ食べていくようなものだった。深く考える必要は何もない。僕はただ想像していればいいのだ。ほかの人の目には退屈そうに見えても、僕にとってはこんな刺激的で愉快なことはなかった。
一通り街を造ったところで、僕は作業を中断した。そしてすぐに、先ほど最初に造ったあの緑の綺麗な公園に向かった。向かう途中、僕は自分の胸が高鳴っていることに気が付いた。こんな気持ちになったのは久しぶりのことである。
僕は公園に着くと、早鐘のように鳴っている心臓には目もくれず、真っ直ぐ広場を目指した。公園の敷地は迷子が出そうなくらい広々としたものだったが、すれ違う人は誰もいなかった。僕はこの先にあるはずの広場を目指して、一心不乱に小道を走った。
電車内が線路に弄ばれるようにがたんと揺れた。僕はその衝撃で目を開けた。どうやらいつの間にか眠ってしまったらしい。あれからどれほど時間が経ったのだろう。僕は大きく目を開けると、窓の外の景色を見た。残念なことに寝る前と比べてさほど大きな変化は見られなかった。僕はため息をつき、それからまた目を閉じた。目を開けていても、何も面白いことはやってこない。それどころか単なる退屈よりももっと恐ろしいことが起きてしまうのだ。
穏やかな眠りがそっと僕を温めた。その熱に誘われるように、僕の意識は遠くの世界に飛んでいった。
広場は公園の中心に位置していた。草木のトンネルを抜け、僕はそこに辿り着いた。太陽は常に空の上で僕を照らしていた。永遠に沈むことないその恒星を僕は憐れみの思いで見ていた。どうして「憐れみ」の思いになってしまったのか、それは僕自身にも分からなかった。
広場の端には小さな青いベンチがあった。そのベンチは木の下に置かれており、そのせいかそこだけ日陰になっていた。僕は疲れた身体を休ませるため、そこに腰かけた。改めて広場全体を見渡してみる。やはり広場にも人は来ていなかった。僕はそのことを少し残念に思いながら、意識をまた別のほうに移した。実を言うと、ここに来た理由は単なる休憩のためだけではない。僕は上空で輝いている太陽に目をやった。(ここの太陽は、直視しても大丈夫なのだ)体中の意識を全て一点に集中させ、太陽の光と自分の中に潜んでいる闇とを繋げた。光と影を繋げる作業はさほど難しいものではなかった。それは僕が成功することを強く信じていたからだ。次に僕は繋げた回路を自分の心まで引っ張っていった。僕はその回路をゆっくりと心に掛けた。これで準備完了だ。
僕はスイッチを押した。押した途端に、太陽の光が回路を通ってゴールの闇へと熱を送り始めた。僕はその送り続ける光景を遠目からじっと眺めていた。回路が動き、太陽の光もそれと同時に瞬いた。それとは対照的に闇は苦しそうな表情をしている。闇は光が苦手なのだ。
闇が徐々に力をなくしていく。僕は固唾をのんで見守った。気持ちはただの一つだけ。僕は光が勝利するのをひたすらに願っていた。
数分経って闇側の方に変化が見られた。僕は驚き、すぐに闇の表面に目をこらした。艶やかな闇の身体には真っ直ぐひびのようなものが入っていた。僕はその時、素直に喜んだのを覚えている。何の恥ずかしさもなく、人目を気にすることなく、僕は完全な喜びに浸ったのを覚えている。
ひびはさらに広がった。稲妻のようなひびは闇の後ろ側にも現れるようになった。僕はそれを見てさらに歓喜し、新しいひびがまた入らないかと思ってみたりした。
卵が割れるように、闇は徐々に形をなくしていった。そんなとき突然、僕の右手に痛みが走った。不意打ちを受けたようなその痛みに僕は思わずしゃがみこんだ。右手を開くと手のひらには血が横線を描くように現れていた。どうやら熱狂的になりすぎて、拳を強く握ってしまったらしい。鋭い爪が食い込んで皮膚を切ってしまったのだ。
流れだした血を舐めながら、僕は立ち上がった。僕が見ない間にひびの広がりはさらに進行していた。それを見て、消失していた僕の情熱は再び勢いを取り戻した。血が垂れて、赤い液が地面に落ちた。
ひびが闇全体を覆っていく。そして…… とうとうその時はやってきた。僕は完全に闇が割れてしまう前に瞬きを何度も繰り返した。自分が乾性角結膜炎でなくて本当によかったと思った。
息を殺して…… 三、二、一……。
闇が割れた。