氷室陽一の話
今まで自分のこと
話してくれてなかったよね
少しずつでもいいの
あなたのこと
教えて
「わっ、凄い雪…」
窓から見える景色は、一寸先しか見えない。
車のヘッドライトは吹雪で乱反射して、ほとんど役に立っていない。
「帰り道は手間取りそうだ」
時計に目をやり、陽一さんが両手でハンドルを握った。
「帰り道分かる? あたし全然分かんない……」
「困ったな。俺もだ」
ははっ。と陽一さんが笑う。というか笑いごとじゃないわよっ。
「どうするの? 車が止まっちゃったら凍死しちゃうよ?」
「……おおげさだな。もしもの時はちゃんと守ってやるよ」
それは嬉しいけど、あたしだけ守られてまた一人ぼっちになるなんて。そんなのは嫌だからね。
不安を紛らわそうと何か話を探す。
大事なことを思い出した。
「ねえ陽一さん、あの写真の件なんだけど、あたしの写真を父と母から預かったってどういうこと?」
「ああ。それについては少し長くなるが……そうだな、ついでといっちゃなんだが、俺の話も聞いてくれるか?」
「あ、うん」
自分の話をしてくれるの、初めてだよね。
口には出さず、次の言葉を待った。
陽一さんは、遠くを見るような目で、ゆっくりと順を追って話してくれた。
俺が当時、フリーのジャーナリストなんてやりたいと思ったのは、厳格だった家庭への反抗心からだった。
運営している会社の関係でな。元々一流の女性デザイナーを育て上げたかった両親は、俺にことあるごとに勉学を強要した。
やれメイクを習わされたり、料理だデザートだ、ファッションデザインだ、挙句に合気道だ。
当時はどれも、俺がやりたかったことじゃないし目指すべき道でもなかった。
貼り付いた笑顔と、口を開けばお世辞やキレイごとしか言わない使用人たちにも嫌気がさし、十七歳でこの世界に飛びこんだ。
「十七歳って、高校二年の時?」
「ああ。だから俺の学歴は高校中退だ」
更に続ける。
人がありのままに生きている姿。本当に葛藤して、笑って、泣いて、本気が見える本物の世界。
箱庭の中で育てられた俺は、そういう現実を目の当たりにしたかった。
世間にでればただの十七歳の小僧だ。
誰も俺の肩書きも、親のこともしらねえから、貼りついた笑顔から紡がれるお世辞やキレイごとなんてありゃしねえ。
財閥の息子、氷室陽一からようやく、個人になれたような気がした。
だがな十七歳の小僧に世間は厳しくて――
悔しいこと悲しいこと辛いこと。何でもあった。
殺してやりたいやつも一人や二人じゃねえし、思い出したくもないこともやった。
そんなこんなで、二十五歳の時だ。
俺を支えてくれたのが、肩書きも親の権威も何もかも取っ払われているにも関わらず、駆け落ち同然で一緒になってくれた幼なじみの睦月だった。
あいつには苦労をかけたくなかったから、俺もがむしゃらに頑張って、頑張って……泣かせたこともあった。
「……うん、前に話してくれたよね」
あの時は断片的だったけど、今は全部、話してくれている。
一言だって聞き逃したくない。
「裸一貫、といっても、今の若い子はしらない言葉か? 全く金もない状態から二人で、店を持とうと頑張っていて。
睦月は元々、体が丈夫じゃなかったからな。俺が自宅に迎えに行ったときは手遅れだった……」
――睦月と再開して、その短すぎる春が終わった時――
俺は、自暴自棄になって、もうどうでもよくなって、相当な無茶もした。
死にたいと思ったこともある。
「あたしと同じだね……」
「だから最初は、他人を見ている気はしなかった」
陽一さんは微笑みとも苦笑とも判断できない表情を浮べた。
ある日無茶が祟った。
ついに病院送りになっちまった俺は――ある権力者に目をつけられてな。
殴られたのか蹴られたのか突き飛ばされたのか刺されたのか……よく覚えていないが、気づくとゴミ捨て場に捨てられていた。
身動き一つできなくて、しかも雪まで降ってきやがって。
街外れの郊外だったから通り過ぎる人もいなくてな――いよいよ俺にも、お迎えがきやがったと思ったよ。
その時助けてくれたのが、たまたま通りかかった香坂夫妻だった。
ゴミ捨て場に放り捨てられて、ボロ雑巾みたいになっていた俺の手を引いて肩を貸してくれたのが旦那の清さんで、近くのベンチに連れていってくれた。
傷の手当てをしてくれたのは妻の千恵子さん。
見知らぬ他人を事情も聞かずに助けてくれるなんて、こいつらただの世間知らずか? と思った。
けど清さんが俺に言ったよ。
「事情がどうか知らないが、怪我してる人間を放っておけるかっ」
世の中にはそういう人もいる。世間知らずは俺のほうだった。
たまたま渋滞を抜ける為に通った道で、人が倒れているのが見えたから……って、病院に向かう車の中で説明してくれたよ。
医者に言われた。あと一時間発見が遅れていたら、よくて凍傷、悪けりゃ凍死だったとな。
一ヶ月の入院生活を余儀なくされたが、命が救われたことに感謝した。
……入院生活ってのは暇だった。寝たきりである必要もなかった俺は、リハビリを兼ねて病院内を歩き回り、廊下のベンチでタバコを吸っていた。
その時、香坂夫妻と再会した。
そりゃビックリしたよ。自分を助けてくれた人たちと、こんなところで再会するなんてな。
それなりに会話も弾んだよ。こんな若造と話していて面白いのかと思ったが、まあ楽しそうにしてくれて、俺も悪い気はしなかった。
お二人とも入院生活なんだと寂しそうに語っていたが、その時見せられたのが、綾の写真だ。
俺も目を疑った。
何故かって、年こそ違うが俺の妻、睦月にそっくりだったんだからな。
最初は姉妹かと疑ったほどだ。
その娘が……最近はやっと心を開いてくれて、お見舞いに来てくれているんだって。
これからがやっと本当の家族になれるからって、早く治さなきゃいけないと笑っていた。
嬉しそうに……笑っていた。
お二人が病室に戻られた後、俺はこの写真を返し忘れたことに気付いた。
次の日、お返ししようと預かっていたんだ。
……その後日が、お二人が亡くなられた日だった。
まだちゃんとありがとうも言えてなかったのに。
俺は、たった二度しか面識の無かった夫妻に、涙を流した。
そしてあの日、廊下で立ち尽くす綾を、見つけた――
「あの日って、あたしは陽一さんを見かけてないけど……」
「俺は綾の後姿を、何も言えずに見ていただけだ。後姿でも分かった。写真の娘さんだなって。けどな、その時は何の面識もない、ただの男が、何て声をかけたらいい? やっと家族になれるって喜んでいた夫妻の気持ちを考えると、俺は何も言えずにいた」
「……」
「ずっと立ち尽くしていた綾はショックで倒れてしまったな。その時聞こえたんだ。『香坂さん、香坂綾さんっ』てな。それで綾の名前を知っていた」
「知らなかった……あたし、その時から陽一さんとは面識があったのね」
「俺の一方的なもんだけどな」
車はなおもゆっくりと走り続けている。
会話は一旦止まり、スローな音楽に切り替わる。
ここから先は、あえて語らずにいたことだ。
――俺は思ったよ。
この子はこの先、どうやって生きていくんだろうって。
手を差し伸べたかったが、その頃の俺には金なんて一切なく、家と車しか残っていなかった。
ましてや綾と俺は何の面識もない。
自分の手にした技術を活かして一からやり直すことに決めた。
資格はないが技術はある。
講師としての……生きる道。
そして――もしどうしてもあの子が窮地に立たされた時、今度は俺が助けてやる番だ。
香坂夫妻が俺を、助けてくれたように。
なんとしても。
「どうしたの? 真剣な顔して」
「ん? ああ、いや……お前もすっかり、レディになったなと思ってな」
レディって。あたしは思わず笑ってしまう。
「陽一さん。父と母は、あたしの話をしていた時、笑っててくれた?」
「ああ。勿論、嬉しそうに笑っていた」
「よかった……」
話を聞き終えて、ホッとしすると、不意に強い眠気に襲われた。
時計を見るともう午前二時を回っていた。
「寝ていけ。もう遅い時間だ。普段は十一時に寝ているお前には、ちょっと夜更かしが過ぎるだろ」
「平気。大丈夫……」
嘘。
全然大丈夫じゃなかった。
あたしは元々寝つきのいいほうじゃなかったけれど、今なら目を閉じるとすぐに夢の世界へ行けてしまう。
「大丈夫じゃないだろ。よだれが出てるぞ」
差し出されたハンカチにさえ、目の焦点が合わなくなっていた。
けど、あたしは膝をつねって無理矢理に目を覚ます。
「寝ちゃだめなのっ。あの時だって目が覚めたら、もう手遅れになっていたんだから。全部夜に放り出されて雪に埋められて、あたしだけが世界に残されたみたいになってとっても寂しかった。辛かった。
だから……あたし……は……」
ダメ。
そういえば人間って、空腹とか性欲は抑えがきくけど、睡魔と乾きには絶対耐えられないって聞いたことがある。
寝ちゃダメなのに。
また起きたら、あたしだけが取り残されているなんて、絶対嫌だよ。
陽一さん……。
置いていかないで――




