クリスマス・パーティー
夜の黒と雪の白が混ざり合う
この素晴らしくも幻想的な世界
もう消えてしまいたいなんて、思わない――
朝の目覚ましで起きるより早く、雪の『ドサッ』と落ちる音で目が覚めた。
「……」
目覚まし時計を手繰り寄せると、時間は六時。いつもより起きる時間が一時間も早い。
「綾、起きてるか?」
「うん、今起きたとこ」
「雪で渋滞するだろうから、早めに準備しておけよ」
はーいと返事して体を起こす。氷点下を記録した今年の最低気温に、あたしはぶるっと身を震わせた。
朝食をとって外に出ると、陽一さんが心配した通りの大雪になっていた。
道路も凍結しているし、まだ七時を回ったばかりなのに道路は渋滞していた。
「こりゃ予想以上だな」
陽一さんが苦笑してエンジンをかけ、あたしは車に乗った雪を下ろそうとしたけれど、車に乗ってろと言われたので助手席に座る。
退屈なので車内のMDを何枚か入れ替えつつ、聴いてみる。
何枚目かを入れ替えた時、聞き覚えのある声が流れた。
「あれ? 陽一さん」
「どうした?」
雪おろしを続けているので声だけが返ってくる。
「この曲の人の声って、エレナさんに似てるね」
「そりゃエレナだ。あいつ、歌手デビューしたんだよ」
「ええ? 芸能界デビューって、歌手としてだったの?」
「元々は女優兼グラビアだったみたいだが、歌手デビューは最近だな」
凄い……。
「こんなに身近に芸能人がいるなんて、全然知らなかった。感激っ」
「テレビにも結構出てるが…ああそうか、綾は天気予報しか見ないもんな」
「う、うん。元々テレビを見るって習慣がなくて」
年頃の女子高生とは思えない言葉。自分で言うのもなんだけど、ちょっと恥ずかしくなった。
エンジンが温まり、ようやく暖房がきき始めた。
陽一さんが運転席に乗り込み、ハンドルを握る。手袋もせずに雪を下ろしていたせいで、真っ赤になっていた。
「霜焼けになっちゃうよ」
いつも右手のみで運転する陽一さんの、空いた左手を握る。
ひんやり冷たい。
「霜焼けって、今の若い子は知ってるのか? しかし、綾の手は温かいな」
ぎゅと握り返されたその手をあたしは強く握り、渋滞が続く一時間弱の間、ずっとその手を握っていた。
校舎前で車を止めてもらう。
「ありがとう」
今日は大雪だったせいで、他に車で登校している生徒たちも沢山いた。
「終業式か。昼前には終わるんだろう? またその頃来る。明日のパーティーは、呼びたい奴がいたら呼んで構わねえからな」
言い残して陽一さんは走り去った。
終業式はこれといって大した話もなく、校長先生のありがたいお話を聞いて、早々に終わった。
教室の中では冬休みを控えたクラスメイトのテンションが、百二十%増しになっていて実にうるさい。
「綾、アンタ冬休みはどうすんの?」
夏美ちゃんがあたしの席に来た。
「どうしようかまだ考えてないけど……夏美ちゃんは?」
「わたしはねぇ、今年の冬はスノボーに行こうかと思っていたんだけど、怪我が治るまではオアズケかな~」
「スノボかあ。あたし運動音痴だし無理かなぁ。そうだ夏美ちゃん、明日の夜パーティーに誘われているんだけど、一緒に行かない?」
「パーティー? 何の?」
「何の……かな。あたしもよくは知らないんだけど」
そういえば詳しいことは全く聞いていなかった。
「アハハ、なにそれっ。もしかして怪しいパーティーのお誘い?」
「違うよ。ちゃんとしたパーティー……だと、思うけど。氷室さんがね、誰でも呼べって」
「だと思うって、ウケるんだけど。アハハ、大丈夫だよ、わたしは綾のこと信じてるし。けどゴメン、今日はダメなんだ」
申し訳なさそうに目を伏せる夏美ちゃん。
「もしかして、あの事件のことで、氷室さんと顔をあわせにくい?」
「違うよ。そんなんじゃないの。あの人にも直接謝りたいんだけどさ、今日はね、家族でクリスマスを過ごそうかと思って」
「家族で?」
あれ? 夏美ちゃんは、確かご両親が……。
「今親戚と住んでるっていったじゃん? あの事件があって…わたしがボロボロになって帰って来た時に、本気で心配してくれてさ。
どうせ誰も心を開いてくれないし…って勝手に壁作って反抗してて、結局自分が心を開いてなかっただけだったって、気付いたから。初めて『今日は早く帰っておいで』って言ってもらえたの」
少し照れた顔で、夏美ちゃんが笑う。
それはよかったのだけど、一緒にパーティーに参加できないのは、残念だった。
担任の先生から、冬休みの間の注意事項と冬休みの宿題、それに新学期についての話などをされて、予定通り昼前に終わった。
校舎を出ると、すでに陽一さんが待っててくれた。
帰りはやっぱり渋滞で、家に到着する頃には真っ暗になっていた。
クリスマスイヴの今日は、陽一さんが買ってきてくれたケーキを開ける。
「今日は二人だけ?」
てっきり他の人も呼ぶのかと思っていたら、誰も来ないので訊いてみた。
「誰か呼んだほうがよかったか?」
あたしは首を横に振った。
勿論、みんなとてもいい人だし、一緒にいると楽しい。
それでも、今日だけは陽一さんと二人だけでいたい。
細長いグラスに、金色の液体が注がれる。
一方を陽一さん、もう一方をあたしに。
「なにこれ? お酒?」
「お子様にはシャンメリーにしたかったが……今日だけは特別。七十年のサロンだ」
「サロンって何?」
「シャンパンだ」
「へぇー。あ、飲みやすくておいしい」
それが一瓶10万円以上するシャンパンだと知っていたら、あたしは味なんて分かっていなかったと思う。
飲みすぎたのか、あたしがお酒に極端に弱いのか、翌日起きたのは昼過ぎだった。
冬休みが始まっててよかった。
「起きたか? 二時過ぎには出ようと思っているんだが、平気か?」
ドアの外で陽一さんは一足早く着替えたらしく、いつもの仕事着のスーツじゃなくて、黒のドレスシャツに白のロングコートを着ていた。
「今日の衣装?」
「ああ、会場スタッフとして準備があるからな。綾はどうする? できれば手伝ってくれるとありがたいが」
「うん。けど……」
あたしは顔を押さえた。
包帯をしたままなので、このままパーティー会場に行くのは抵抗がある。
「安心しろ、先に雄介が向かってる。現地でメイクをしてもらえれば問題はねえだろ」
「うんっ」
それだったら。と軽く返事をしたものの――走り出した車は都心に向かってどんどん進み、高級ブランド店や創立何百年の老舗の並ぶ、あたしには場違いな所に来た。
その中でも一際大きなビルに向かって車が進み、ついにはそのビルの立体駐車場へと入っていった。
「……なに、ここ?」
「『クラウンジュエル』のビルだ。聞いたことないか?」
聞いたこともあるも何も、芸能、音楽、お笑いからファッション、ジュエリーに至るまで幅広い分野で企業展開している、超有名な会社。
どれだけ有名なのかといえば、滅多にテレビとか新聞を見ないあたしでさえ知っているほどの超有名ビル。
「ここでパーティーをするの?」
「ああ、毎年な。ウチの『アートスタジオ』は、ここの子会社だ」
知らなかった。
しばらく車が進むと、警備員さんが二人、陽一さんの車を止めた。
「本日はパーティーの為貸切になっておりますが、招待状は……」
「これだ」
陽一さんが差し出した招待状を確認すると、警備員さんは深々と頭を下げた。
「確認致しました。真っ直ぐに進んで、十七番の場所に車をお止め下さい」
「ごくろうさん」
車が動きだす。
「凄いね。何だか映画の世界みたい」
「そっか。綾、映画は観ていたな」
車は一直線に進み、見えてきた十七番の駐車場に停まる。
「忘れ物はないか?」
「うん」
あたしと陽一さんが車を降りて少し離れると、十七番の枠が鉄製の檻みたいなもので閉じられた。
「あ、あれ? 陽一さんの車が……」
「ああ、遠方からカメラで確認してから操作してるから、問題ない」
「そうじゃなくて、なにあれ?」
「ん? 車上荒らし防止。俺はこんな仰々しいマネはするなって言ってるんだが、このビルの方針らしくてな…」
何だろ……住む世界の違い、かなあ。
エレベーターに乗って、陽一さんが一つしかないボタンを押すと、エレベーターががくん。と動き出す。
「ボタンが一つしかないの?」
「普段は使われないエレベーターだからな。これで会場へ直行する」
その会話を交わしている間も、エレベーターは止まっているみたいに静かだった。
チン。と音を立てて、到着を知らせる。
あれ? 確か、百階って表示に出てたような。
赤い絨毯が敷かれた長い廊下を歩く。壁際には幾つもの壷とか絵とかが飾ってあったけど、あたしには全く分からなかった。
突き当たりの扉を開けると、あたしは言葉を失った――
学校の体育館……ううん、グラウンドくらいはありそうな広いフロアに、夢の世界に迷い込んだかのような幻想的な空間。
天井のはシャンデリア? 床って大理石? 窓は全面ガラス張りで、見上げることなく”目の前に”見えている空。
スタッフの人、かな?
何人もの人たちがテーブルとか椅子とか、花とか照明のセッティングをしている。
「凄い……」
「だろ。夜になるとライトアップされるし、街の灯りは幻想的でキレイだぞ」
コートを脱いで係りの人に預けると陽一さんは辺りを見回した。
「あっ、氷室さんに綾ちゃんじゃないっすか~」
探し人は向こうから来た。
「よう。雄介……なんで手にウイスキーのボトル持ってんだ? まだはやいだろ」
「いや、オイラにはこれが活力剤なんで」
慌てて瓶とグラスを背中に隠す雄介さん。
「別室で綾にメイクをしてやってくれ。俺はドレスをとってくる」
「りょ~かいっス」
ちょっと足元がフラついているみたいだけど、大丈夫かしら……。
別室に行く途中、厨房の前を通った。
お肉の焼くいい匂いと、デザートを作る甘い香りがする。
「クッキーが焼きあがった! 先に二番と三番テーブルに並べておいてくれっ!」
聞き覚えのある声がする。
大慌てで両手に大皿を持って駆けていく人たちに混じり、徹さんが出てきた。
「――っと、綾さんじゃないですかっ!」
足を止めて振り返ってくれる。
「こんばんわ。お急がしそうですねっ」
「デザートは常に真剣勝負ですからねっ。気が抜けませんっ」
「ふむふむ。ちょっと甘いけどイケるっすね」
「雄介っ! お前、何勝手に食ってるんだっ!」
「失敗してないか毒見……いやいや、味見してるだけっすよ」
「毒など入ってないっ! いいかっ、このクッキーは自分が丹精込めて焼いているんだっ。ちょうどいい。綾さんに美味しいクッキーの焼き方を教えます。まずは……」
「チーフ時間がありませんっ!」
「ぐっ……うぬうっ。それでは綾さんっ、後ほど。雄介、またなっ」
バタバタと駆けていった。
「一枚どうっすか?」
いつの間にか何枚か抜き取っていたらしく、雄介さんの手には焼きたてクッキーが並んでいた。
ダメだよっ。と思いつつ、一枚。
あ、凄い美味しい!
続いて厨房の扉が開き、今度は桜さんが出てきた。
「綾さんとお聞きしまして、駆けつけましたわ。お久しぶりです」
ハートマークが浮かびそうな微笑み。
「桜さん、お久しぶりです」
「オイラも久しぶりっすね。桜ねえさん」
「あら。雄介さんもお久しぶりです」
「もっ。てついでっスか」
「今日のパーティーでメイン料理を担当しておりますの。フルコースの下準備にかかっておりまして……」
「桜さんっ時間がありませんよっ」
「早く、早く次の指示をっ」
厨房から聞こえる声と共に、引きずられていく桜さん。
「もっとお話させて~」
声は段々遠ざかっていった。
ちょっとカワイイ……。
「さっ。行くっすよ綾ちゃん」
戦場になっている厨房を抜けて、別室へ。
「ねえ雄介さん、このパーティーの規模を見てビックリしたんだけど、毎年こんなのやってるの?」
「いつからやっているのかはオイラも知らないっスけど、氷室さんと知り合ってからは毎年誘われてるっすよ。社長が気前いいスから、この不況の中、社員、関係者各位への恩返しってことだそうで。
オイラたちは関係スタッフって役割っスけど、その代わり会費はタダなんです」
会費……。本当はいくらかかるのかって知りたかったけど、お金の話をするのは場違いな気がしてやめた。
相変わらず話上手の雄介さんは、いつの間にかメイクを終わらせるのがうまい。
今日も気が付けば、あっという間に完了していた。
「衣装は野上さんのドレスでしたよね。それに合わせてメイクをしてみたんですけど……そろそろ到着すると思うんで」
計ったようなタイミングで、ドアがノックされた。
「はいっ」
雄介さんが返事をすると、ドアの向こうから「ア・タ・シ」と色っぽい声が聞こえた。
「鍵なら空いてるっスよ」
「なによぉ。連れないなあ城戸っちは……あれ? 綾ちゃん~」
エレナさんだった。
一直線にあたしに駆け寄ってきて抱きつく。
「こ、こんにちわっ」
「ドレス持ってきたんだ。お兄ちゃんが野上さんに、綾ちゃんと直接向かうって連絡してくれたみたいで、じゃあアタシドレス持ってくよ~って持ってきたの」
ボストンバックをあけると、丁寧にたたまれたドレスが出てきた。
「これって、野上さんの初期の頃デザインしたドレスっすね」
「アタシもてっきり新作がくるのかと思ったけどね~。けど最近の新作より、こっちのほうが個性的だし好きなんだ~。そうそう、野上さん綾つんのおかげだって言ってたよ?」
両手のひらを肩の高さに上げて、どういうこと? と首を傾げる。
「うーん、身に覚えがないんですけど、てか綾つんって……」
「気にしない気にしない。それより、着替えよっか」
コートを脱いで、体にフィットしているシャツをたくし上げ、エレナさんは手を止めた。
「……あ、バレたっすか?」
「何でアナタがまだいるのよっ」
ポイッと叩き出された雄介さんはちょっと気の毒だったけど、あたしだっていくらなんでも着替えは見られたくない。
体の傷はだいぶん収まっていたし、傷を隠す必要は無かったのだけど…。
グラビアをしているっていうエレナさんのボティラインには、同性のあたしも溜息が出るほどキレイだった。
「いいなあエレナさん、お肌もキレイだしスタイルいいし」
「綾っちだって、胸も大きいし細いし、素敵よ?」
「ちょっ! エレナさんっどこ触っているんですかっ!」
「バストサイズは綾のほうが上じゃない? アタシさ、ブラのサイズをもう一つアップさせたいんだけど……」
ガチャ。
「メイクは終わったか? キャンドルのセットを手伝って……」
「ノックくらいしなさいよっ! バカッ!」
エレナさんの投げたボストンバックが、陽一さんの顔面に直撃した。
中身は幸い、ドレス用のクッションだけだったので、怪我はなかったみたいだけど――
「……わ、わりい」
陽一さんは慌てて部屋を出ていった。
「…………エレナさん、鍵、閉めとこっか」
「oh! ホントね」
お互いに顔を見合わせて苦笑する。ガチャン。と鍵をかけて、着替えを済ませた。
髪はエレナちゃんに整えてもらう。
なんていうか、立ち鏡にはあたしじゃない人が映っていて、思わず笑顔になる。
それからあたしたちは全員で一丸となって、キャンドルのセット、ビュッフェスタイル用の食事の設置、照明の取り付けから机、椅子の配置、入場者の招待状チェックなど……。
始めてのあたしに大して手伝えることがなかったけれど、みんなが的確な指示を出してくれるのでそれに従って動く。
何だろう。あたしは参加したことがなかったけど、学校の文化祭の準備ってきっと、こんな感じなのかな。
忙しいけど楽しいっていうか。
「暖房がちょっと弱いな。もう2℃上げてくれっ」
「ケーキを取り分ける皿が足りないっ、追加で頼むっ!」
「肉料理が多いので、ジャスミンティーも追加でお願いしますわ」
「メイク直しっすか? はい、こちらで受けつけてますんで~」
「照明はもうちょっとだけ明るくて、この場所の照明は逆に落として……」
「テーブルクロスの色がなってないね。しかもシワがあるじゃないのさ。替えてきなっ」
みんながみんな、担当の指示を出してみるみる会場が仕上がっていく。
いつの間にか野上さんも参加していて、あたしを見つけると、にっ。と笑った。
「こ、こんにちわっ」
前のことで怒られるのかなっ。と思っていたら、野上さんはあたしの全身をくまなく眺めて微笑んだ。
「やっぱりそのドレスのほうが、あんたには似合うと思っていたさね。温かさ、あの言葉が響いたよっ。ありがとう、綾」
そう言い残して、野上さんはテーブルクロスや色彩についての指示を出しに戻った。
そこであたしは初めて、ありがとうの意味を理解した。
――PM七時
慌しいパーティーの準備もいよいよ大詰めになり、更に慌しい一時間が過ぎてパーティーが始まった。
――PM八時
優雅な音楽が流れて、あちこちで交わされる挨拶、自己紹介。
「新規の社交開拓の場所でもあるからな。ここは」
正装の陽一さんが、あたしの隣に立っていた。
いつもの仕事用のスーツと違ってパーティー用に仕上げられたスーツ姿は、ひいき目じゃなくて他の誰よりも素敵だった。
人ごみにまぎれて、徹さんと桜さんがあたしに気付いてやってきた。
二人ともコックコートじゃなくて、パーティー用の正装になっていた。
徹さんは体格がいいから、まるで桜さんのボティーガードみたい。
「綾さんっ。どうですか自分の担当したケーキ。チョコ、抹茶、レアチーズ、アイスケーキにイチゴショート、是非試して下さいねっ」
色とりどりに並べられたケーキはどれも一口サイズで魅力的。あたしはどれにしようかと迷っていると、
「徹、まずお食事が先なのは基本的なことですわ。綾さん、私の担当したローストビーフはいかがですか?」
フォークで刺した一口大のローストビーフを差し出して、食べさせようとしてくれる。
これって「あーんして♪」の構図なんですけど……。
あーん。と口を開けようとした時――
「あなたがシェフですか?」
「素晴らしい料理です。感動しました。まだお若いのに素晴らしい」
「なんと! このケーキはあなたが? 顔に似合わず繊細な仕事……」
急にどどっと押しかけてきたお客さんたちに、質問攻めにあっている徹さんと桜さん。
「いや、自分はですね。今日は綾さんがケーキ好きだと聞いて、いやいや、女性の客人が多いと聞いてケーキを中心に……」
「全体的に一口大でヘルシーな料理が多いのは、私が綾さんに食べさせてあげ――ンンッ。夜間の食事に重たいものを食べると胃に負担がかかるため……」
邪魔になるといけないと、少し離れていたあたしには、二人がどんな質問をされているのか全然分からなかった。
「熊谷姉弟は、料理の業界でも知名度が急上昇中っすからね」
雄介さんもいつの間にか正装に着替えていた。
普段は奇抜なファッションだけに、スーツ姿はとても見違えてる。
けど、やっぱり手にはウィスキーを持っていた。
「雄介さん、それ……」
「これっすか? やっぱりオイラ、パーティー用のシャンパンとかより、こっちのほうが好みなんで」
雄介さん、今のあなたは一升瓶を持って歩いている酔っ払いのおじさんに見えてしまいます。
「なんだい雄介。そんな一升瓶を持って歩いている酔っ払いのおじさんみたいなことしてっ」
あたしの心の中の台詞を、そのまんま野上さんが代弁してくれた。
野上さんのお説教タイムが始まりそうだったので、陽一さんがあたしの手を引いてくれた。
「放っておいて大丈夫なの?」
「いつものことだ」
あたしと陽一さんは地上の夜景が見える窓際へと移動した。
すれ違う人たちの話し声が耳に届く。
「感激だったわぁ。あのメイクの鬼才、城戸雄介にメイクをしてもらえるなんて」
「ホント。こんなチャンス、滅多にないものね」
すれ違う女性が、口々にそう語っている。
「ねえ陽一さん、雄介さんってそんなに凄い人なの?」
「ん? ああ、そうだな」
一見素っ気無い返事だったけど、すぐに気付いた。
あたしに気を遣わないように、わざと簡単な返事にしたんだ。
「本当なら一回十万円……」
「気に入った人にしかメイクをしない……」
口々に聞こえる話が、雄介さんの凄さを物語っている。
人混みを避けた窓際で、陽一さんが言いにくそうに口ごもった。
「あーその、何だ。雄介は確かに凄いが、だからって綾が、変にかしこまったり気を遣ったりすることはねえんだぞ。あいつもそういう関係は望んでねえし、そういう肩書きは抜きにして、お前と接したがっているんだからな」
「うん、分かってるよ」
それは、前に車の中でのやりとりで分かった。
壁が一面窓になった場所から、外を見る。
百階から眺める景色は、まさに圧巻で――街の灯りでさえも小さく見えてしまう。
天空から星空を見下ろしているような錯覚。
夜の黒と雪の白。眼下に広がる街の光のコントラストがとても素敵だったけど――
どうしても一年前に見た、孝治との思い出が蘇ってくる。
孝治は今あたしが立っている場所より、もっともっと高いところにいるのかな。
「彼氏のことを、想っているのか?」
あたしと並行して立った陽一さんが、同じく空を眺める。
「……うん」
正直に言った。ごまかすのも嫌だったし、嘘をつく理由もなかった。
「やっぱりまだ、忘れられないか?」
「忘れたことは一日だってないわ」
「……それでいい。俺も睦月のことは一日だって忘れたことはねえ。なぁ綾、人にとって一番辛いことって何だか分かるか?」
「大切な人を亡くすこと?」
答えて陽一さんを見ると、外を向いたまま、しばらく黙っていた。
それから少し経って、あたしを見た。
「忘れられることだ」
命が終わってしまっても名を残す偉人たちのように、人々の記憶に残り続けることが素晴らしいかと言われると分からない。
ただ自分を愛してくれた人の、親しかった人たちの心から消えてしまうということは、きっとこれ以上の悲しみはない。
「うん……そうね。それが一番、辛いよね」
「早く忘れろとか、前だけを見ろなんていうつもりはねえ。前を見ているうちに新しい出会いがあって、だからって前の奴のことを嫌いにならなきゃいけないか? 忘れなきゃいけないか? 忘れられない、結構なことじゃねえか」
「うん、ありがとう」
言葉を交わすわけでも手を握り合うわけでもなく、あたしたちは窓の外の景色を眺めた。
辛いことばかりが続いた時、この蜃気楼みたいな街の景色に溶けてしまいたいと思ったことがある。
死にたいと思ったことがある。
全てが嫌になって、消えてしまいたいと思ったことがある。
けど、その度に助けてくれる人がいた。
どんな不幸な境遇になったって、幸せになる権利は――そこから這い上がる権利は、誰にだってあるよね。
「あっ、いたいたっ。やっと見つけたよ綾っち」
聞き覚えのある声に振り返ると、エレナちゃんが駆け寄ってきた。
隣には初めてみる、髪の長い四十~五十代くらいの、線の細い男性の方がいた。
もしかして彼氏さん?
「エレナ。それに……社長」
社長? この人が?
「やっぱりお兄ちゃんと一緒だったのねっ。あ、綾りん、紹介するねっ。この人、ウチのしゃちょ~の小畑さん」
「小畑です。あなたが綾ちゃん? んまあ、聞いてたよりずっと素敵じゃないのぉ」
あれ? 男の人なのに女の人のしゃべり方……こういう人のことなんていうんだっけ。
「相変わらずおねえキャラですか。小畑社長」
「アラヤダッ、おねえ系じゃなくて、アタシはずっとこうだったじゃない」
体をしならせて、すすすっと陽一さんに擦り寄っていくが、距離をとられている。
「珍しいですね。社長がこんな人前に出るなんて」
「一昨日綾っちに紹介したい人がいるって言ってたんだけど、ダメだった?」
「俺は聞いてねえぞ」
「うん。言ってないし」
陽一さんが溜息をついた。
「……まあいい、で、何でまた?」
「うんっ、それはねっどうですかしゃちょ。綾ちんはっ」
「合格よおっ。まさにピッタリじゃないのっ。こういう逸材を探してたのよぉ。エレナ分かっているじゃない。今度ワタシの愛をあげるわぁ」
「いりません」
エレナさんは、とっても素敵な笑顔で、キッパリ断った。




