たくさんのありがとう
あたしに価値をつけられるとしたら
偉くなんてないし、凄くもない。
けど、たくさんのありがとうを言われると
少しは価値があったのかなって
誇りに思える。
今年も残りわずかの、十二月二十三日。
この日は、あたしにとって特別な日だった。
ちょうど祝日だから、学校をサボらずに済んだ。
以前学校を休んで外出したときも、陽一さんに、
「補導員に気をつけろよ」
と、注意されていたし。
……あれ? 注意するところってそこでいいの?
「今日も寒いっすね~」
いつの間にか玄関に居る城戸さんにも、すっかり慣れた。
今日は特別にメイクをしてもらうようにお願いしていて、時計を見ると約束の時間ピッタリだった。
「またまた熊谷姉弟と食事したらしいっスね。なんでオイラも呼んでくれなかったんですか~」
「だってお前、料理つくれねえだろ」
「そんなことないッスよ、オイラにだって、得意料理の一つや二つ!」
「城戸さんは何が作れるんですか?」
あたしが訊くと城戸さんは少し口ごもって答えた。
「……ゆで卵と、カップラーメンっす」
「そりゃ料理じゃねえだろ!」
ピシッ。とチョップを受けながらも、城戸さんは正確かつ繊細な手つきであたしのメイクをこなしてくれる。
「あたし今日は、野上さんに借りていた服と靴を返しに行くわ。それから……たまには一人であちこちまわりたくて」
きかれてもいないことを、饒舌になって喋ってしまう。今あたしの不自然な振る舞いは、ぎこちない。
それでも二人は優しく微笑み、何も訊いてはこなかった。
「お出かけなら、途中まで送りますよ」
城戸さんの言葉に甘えて、一緒に外に出ることになった。
幸い雪は降っていなかったから、歩くのには支障がないけれど、夕方からの予報は雪になっていた。
一年前と同じね。
「夕食までには帰ってこいよ」
「うんっ」
心配そうに見守る陽一さんに、精一杯の笑顔を向けた。
城戸さんは今日も仕事で現場に向かうらしく、前にもこんなことがあったなあと懐かしく思った。
ふと思ったけど城戸さんって、いつ休んでいるのかな。
しばらく他愛もない話で盛り上がり、目的地であるアートスタジオが見えてきた頃、急に城戸さんが真面目な顔になった。
「綾ちゃんとは知り合ってまだ三ヶ月ちょいですけど、オイラ凄く感謝していることがあるなんすよ」
「感謝?」
「何でオイラこの仕事選んだかっていうと、自分の力で人を変身させられるような魔法使いになりたいと思ったからっす……ああ! ちょっと! 笑うところじゃないですよっ」
「ごめんなさい、だって魔法使いって、おとぎ話みたいだもんっ」
「もぅ。オイラ自慢じゃないけど、前は神業だ天才だと言われて舞い上がっていたんすよ。けど反面、スランプっていうんすかね。ちょうど行き詰っていた時期もあったんです」
「城戸さんにもそういう時期があったんだ?」
「ちょうど三ヶ月前っすね」
「それって、あたしと初めて会った時?」
「正直最初は厄介な子だなと思ったっす。ああ、顔がじゃなくて。心が沈んでいる人は、どんなメイクをしたってキレイにはならないのが当たり前っすからね。綾ちゃんには色々、突っ込まれたっしょ?」
「あ……」
心に化粧はできないと言われて、いつもそんな恥ずかしいこと言ってるの? って嫌味を言った覚えがある。
「実は結構ショックでした。でも綾ちゃんは元がいいから、凄くキレイになってオイラも嬉しくなっちゃって」
「感謝しています」
あたしは笑顔でぺこりと頭を下げた。
「そうやって綾ちゃんが笑顔を取り戻すキッカケになったこと、オイラは誇りに思っているんスよ。自分のやってきたことは間違いじゃなかったんだなって。
こちらこそ、ありがとうございます」
言い終わると同時にピタリと目的地に到着した。
「ありがとうございます。あの、城戸さん、あたしも出会って三ヶ月ですけど、城戸さんのこと、親友だと思ってます」
「オイラもっスよ」
――……
車を発進させてしばらくすると、バックミラー越しに、見送っていくれている綾が、どんどん小さくなっていく。
城戸は空っぽになった助手席を見て、大きなため息をついた。
「本当にいい子っすね綾ちゃんは。オイラもあんないい子が彼女だったらなあ~!」
城戸雄介。魂の叫びだった。
――……
アートスタジオの正面玄関は、暖房完備で暖かかった。
受付で野上さんに会いたいと伝えると、女性の方が内線電話で連絡をとってくれた。
「香坂様がお見えになられておりますが。ご面会を希望だと……かしこまりました」
入館証を渡されて、エレベーターで四階へ進むよう案内された。
前回は地下駐車場から、陽一さんが案内してくれたけど、今回はそうはいかない。
迷いながら探しながら、何とか目的地に到着した。
「この部屋ね」
覚えのあるドアをノックすると「どうそ」の返事。
失礼します。と中に入ると、前みたいに甘いタバコの匂いはしなかった。
先客がいた。前に一度見かけたことのある人。陽一さんの妹さんだ。
「あっ、お……こんにちわっ」
こちらは一方的に知っているだけに、お久しぶりですと言いそうになった。
「えっ? わぁっ。すっごい美人さんだねっ。ナニナニ? 野上さんのお友達?」
初対面だというのに、その女性は花を咲かせたような笑顔であたしに駆け寄り両手を握ってきた。
「あんたの兄の同居人さね。久しぶりだね、綾ちゃん」
煙の出てないパイプをくわえながら、野上さんが椅子ごと体を回転させた。
「おひさしぶりで……」
「ワオ。あなたが綾ちゃん!? 兄から話は伺ってるよっ。アタシ、エレナ。宜しくっ」
桜さんとはまた違う、活発なタイプの美人さんに、あたしはただこくこくと頷いて宜しくです。と答える。
「エレナ。ドレスは決まったんだろう? 仕事に遅れるさね、早くいきな」
「ハーイ。ありがとうね、野上さん。綾ちゃんも明後日のパーティー出るんでしょ?」
「パーティー?」
何のこと?
「お兄ちゃんから聞いてない? その時に紹介したい人いるから、またねっ綾!」
フレンドリーなエレナは、風のように去っていった。
「騒がしい子で悪かったね。で、今日はどうしたんだい?」
「前にお借りしていた服と靴を返しにきました」
「わざわざ律儀だね。氷室坊やに渡しておけばよかったのに」
「いえ、やっぱり借りたものは自分でお返ししたくて。それに今日は、あたしが個人的にお話したいなと思って」
その言葉を聞いて、野上さんは漫画みたいにくわえていたパイプをぽろりと落とし、目をパチパチさせた。
「あの、それって」
「禁煙パイプさ。火はついてないからいいさね。で、珍しいこという子だね。奇人変人と言われるわたしと話を?」
何がそんなに可笑しいのか、くっくっ、と笑う。
「可笑しくないです。口は悪いし態度は横柄ですけど、野上さんには色々教わりましたし、陽一さんともあれからもっと仲良くなれました。お礼を言いたかったんです」
伝えたいことは伝えた。それでも笑われるようなら、部屋を出ようと思っていた。
「陽一さんってことは、アンタたちにも進展があったようさね?」
不意に見せる優しい目に、同時に悲しみの色が見えた。
「ええ。つい最近も、助けてもらいましたし……」
「睦月のことは聞いたんだね?」
「ええ。奥様のことは、聞きました」
「そしてアンタは、将来の旦那を亡くした。人間ってのは難しいもんでね、二人だった者が一人になったからって、残った一人と足してニ人になるかというと、そんな単純なもんじゃないのさね」
「それはやっぱり、人間だから……」
「そう。我々は数学の式じゃないからね。けどね、人はいつまでも死んだ人間に縛られていちゃ、いけないのさね」
「分かってはいるつもりです。でも――」
そう。分かってはいるつもり。
だけど、陽一さんと唇を重ねることができても、体を重ねることはできなかった。
重ねた体に溶け合う心は、だって空っぽなのだから。
あたしのこんな、中身が満たされていない空っぽの心と、陽一さんの心はきっと溶け合わない。
こんなはずじゃなかったのにって崩壊する終末が頭によぎり、また一人になるのが怖かった。
「あんたはさ……エスパーか何かかい?」
やれやれと、野上さんは新しいタバコをくわえて火をつけると、衣装の生地と思う純白の布切れを、あたしの目の前で広げた。
「エスパー?」
それって透視したり人の考えが分かる超能力者のこと?
「アンタは人の心が読めるのかい? それとも、透けて見えるのかい? お互い心にカーテンを引いたままで、どうして空っぽだって分かるんだい?」
布切れはカーテンに見立ててある。
ハッ! となった。
心は空っぽだと思い込んでいたけれど、多くの出来事と親友に無くした心を満たしてもらっていた。
あたしの心が空っぽだから、陽一さんの心を満たせるはずがないと思って、ううん思い込んでいた。
あたしは、自分の心にカーテンを引いて、相手を見ようとしていなかったんだ。
「野上さん、やっぱりあたし、お話を聞けてよかったです」
「タバコでも吸わなきゃ言えない台詞さね。せっかく禁煙していたのに、また一からやり直しだよ。それより綾は、明後日のパーティードレスはあるのかい?」
エレナちゃんも言っていたパーティー。
「何ですかそれ?」
「本気で知らないみたいさね? つまり……」
――……
詳細を説明されたあたしは、帰って陽一さんを問い詰めることを決意した。
「ドレスと靴はこちらで選んでおくから。当日にとりにおいで」
「ありがとうございます」
服を返しにきたはずなのに、今度はドレスを借りることになるなんて。
「もういいかい? わたしは明日までに仕上げなきゃいけない仕事があるのさね」
「どんなお仕事なんですか?」
ちらりと机を覗き見ると、何枚もばら撒かれた紙に洋服のデザインスケッチがされていた。
「今の若い子たちの、流行や好みについていけなくなってね。この仕事がわたしの最後の仕事かもしれないさね」
適当に何枚か拾い上げてみるけれど、元々流行や服にこだわっていないあたしは、スケッチを見る限りでは素敵なのかズレているのか分からない。
「ごめんなさい。あたしにもよく分からないです」
「素人に分かったらプロ失格さね。とはいえ、もう時代が違うかもしれないね。それでもエレナはどういうわけか、わたしのドレスを好んで着てくれてね。綾も無理しなくてもいいんだよ。もしかしたら、わたしのドレスなんて着ていくと、笑われるかもしれないからね」
あたしは何かを言いたかったけど、何を伝えていいのか分からない。
けど懸命にスケッチに取り掛かる野上さんの背中を見て、ただ黙って立ち去りたくなかった。
「野上さんっ。あたし、どんな服がいいとか悪いとかハッキリ分からないですけど、野上さんに服を選んでもらった時感じたのって、きっと見た目の美しさとかデザインだけじゃなかったんだと思います。あたしに貸してくれた服も、野上さんがデザインされたものでしょ?」
袋の中から借りていたワンピースを取り出すと、それを広げて見せた。
「でもっ、あたし思うんです。何でも新しければいいんじゃなくて、いいものって廃れないじゃないですか。
このワンピースを着て思ったんです。特別派手でもなければ豪華でもありません。けどなんであたし、このワンピースが気に入ったかって、あたたかかったからです」
「暖かかったかい? 防寒性はそれほど高くないハズだけどねぇ」
「違いますっ。温かかったんです。このワンピースには、きっと野上さんの気持ちが込められているから」
「気持ち、ねぇ」
「とっても温かかったです。パーティーのドレス、楽しみにしてますねっ」
大きく頭を下げて、あたしはすぐにエレベーターに向かった。
プロのデザイナーさんに、何だか大変なこと言っちゃったような気がする。
素人が偉そうにって怒られるかな。でもそれがあたしの素直な気持ちだったし。
あーあ。明後日のドレス貸してくれなかったらどうしよう。
綾がエレベーターに乗り込んだ後も、野上はしばらくデザインスケッチに目を落としていた。
わたしが作りたかった衣装やドレスは、こんな、うわべだけのものだったかい?
引き出しを開けると、氷室陽一と氷室睦月の結婚式の写真が入っていた。
二人のタキシードとウェディングドレスを徹夜して作った時の気持ち。
それって、認められようとか、業界から評価されようと計算されたものではなく。
ただ二人に喜んで欲しかったという、想い。
――デザインスケッチを起こす。
驚くほど滑らかに筆は動き、瞬く間にスケッチが完成した。
「これだよ」
できあがった衣装案を見て、内線電話の受話器を上げる。
製作班に、原案が完成したと報告するためだ。
ダイヤルをプッシュする。
「……ああ。あたしだよ。原案が出来上がったよ。今度のは自信作さね。ん? ああ、テーマは初心忘れるべからずだあね。それを教えてくれた客人がね……ん? もう帰ったよ。はは、わたしに意見を出来たのは、あの子くらいさね。大したもんだよ、全く」
――……
「はっくしょん!」
外に出るなり、あたしは、大きなくしゃみをした。
風邪かなあ。
白く流れる吐息を見て、本格的な冬の訪れを知る。
夕方を待たずに降り出したのは、今年の初雪。
はしゃいでいた孝治の姿を無意識に探してしまうけど、街を行き交う人々の中に、似た人さえ見つけることはできなかった。
クリスマスソングが流れる街を一人で歩き、孝治と行ったお店を一つずつ、辿ってみる。
あなたがいなくなった今も、流れる時間を積もり始めた雪に重ねてみたりする。
「人はいつまでも死んだ人間に縛られていちゃ、いけないのさね」
野上さんの言っていることも分かる。時間が癒してくれるしかないことも。
歩き続けているうちに、以前、卓巳兄ちゃんと来たスターバックスコーヒーの前を通った。
卓巳兄ちゃん、元気でやっているかな。
時計を確認すると、帰りに乗って行こうと思っていたバスが来るまで時間があった。
コーヒーを飲んでいこう。
ドアを押し開けて中に入ると、暖かさと共にコーヒーのいい香りがあたしを包む。
「いらっしゃいませ~」
店員さんにキャラメルマキアートを注文して店内を見ると、座席はいっぱいだったからカウンター席に座る。
ガラス越しの街の光景はクリスマス一色で、歩いていた時にはあんまり気にならなかったのに。と思う。
「お待たせしました」
店員さんが、席まで届けてくれた。
「ありがとうございます」
お礼を言うと、店員さんは立ち去らずにじっ。あたしを見ている。
「あの、なにか?」
「前に、お店にいらっしゃった方ですよね。男性の方と……」
卓巳兄ちゃんと来た時のことだ。
「ええ」
「香坂綾さんで、間違いないですよね」
「……ええ」
何で名前まで? あたし何か忘れ物でもしたっけ?
「これ、預かっていたんです」
店員さんが差し出したのは、封筒に入った手紙。エアーメールと書かれていた。
海外からの手紙。
「これって」
「あ、中は見てません。ただ、お店のほうにも別に一通の手紙が届いてまして、その手紙を、あなたに渡して欲しいと」
「……」
あたしはわけも分からず、店員さんに頭を下げて、手紙を開いた。
卓巳兄ちゃんからだった。
『綾ちゃんへ。
久しぶり。卓巳です。
この手紙が日本にいる君に、どれだけぶりに届いているのかは、ぼくには分からない。
あの日、君にお別れをした次の日からカナダの方に来ています。
最初はやっぱり辛かったけど、決断すること。伝えること。何より綾ちゃんに会えたことで、自分の中でも吹っ切れたものがある。
当って砕けろ精神でプロジェクトに挑んだら、大成功を収めることができたよ。
多分、流されるままだった以前の自分なら、商談どころかなんにもできなくて、クビになっていたかな。
サナギが蝶に変わるみたいに、誰もがきっと、キッカケがあれば変わることができるんだ。
明日から、今日から、いや今からだって。
そのことを、君と再会できて気付かされた。ありがとう。
P.S.綾ちゃんの家に手紙を送りたかったんだけど、住所が分からなくて。
日本を経つ時に荷物に混ざっていたスターバックスコーヒーの店内パンフレットを頼りに、手紙を出したんだ。
無事に届いていると、嬉しい』
手紙を読み終えたあたしは、自然と零れ落ちる涙を拭った。
店内には人が少なかったけれど、外に向いているあたしの顔は誰にも見えなくて、また外を歩いている人たちも、特にあたしのことは見ていなかった。
よかった。
卓巳兄ちゃん、成功してよかった。
そろそろバスの時間。
お店を出る前に、手紙を持ってきてくれた店員さんに声をかけた。
「ありがとうございました。最初はびっくりしたけど、海外に行った大切な友達からの手紙でした」
お礼を言ってお店を出ようとすると、店員さんがあの、実は……と言いにくそうに口ごもり、ごくりと喉を鳴らしてから、真っ直ぐにあたしを見た。
「ごめんなさい。あの日――お店であなたと男性の方が、お話をしているのを聞いていたんです」
「え? そうだったんですか」
全然気付かなかったけど、高島さん、と名札に書いてあった。彼女は、あたしと卓巳兄ちゃんが一緒にコーヒーを飲んでいた日、お店でレジ担当をしていたらしい。
あたしは覚えてなくてごめんなさいと言うと、とんでもないです。と首を振った。
「私、お二人のやりとりを見てて、大人だなあって思ったんです。実は私、彼氏がいたんです。でもあんまり……好きじゃなくって、本当に好きな人が居たのにどうせ叶わない恋だと思って、好きでもない人に依存していたんです。
でもあなたの忘れられない人を想い続ける姿に、あのっごめんなさい」
突然高島さんは泣き出してしまった。
「あの……」
あたしは何て言っていいのか少し迷っていたら、彼女は言葉を続けた。
「どうせ叶わない恋だって自分で決め付けて、好きでもない人と付き合って、それでいいんだって思っている自分がいて。でもそうじゃないって、気付かせてもらったんです。お話を勝手に立ち聞きするようなことをしてしまって、ごめんなさい。
けどフラれるのが怖かっただけなんだって。自分が傷つくのが怖かっただけなんだって、気付かせていただきました」
別に内緒の話をしていたわけでもないし、高島さん以外にもあたしたちのやりとりを見ていた人なんて大勢いた。
誰かに見せたかったわけでもないけど、改めてお礼をいわれるとちょっとだけ複雑な気分。
ああこの人は想いを伝えたい人がちゃんといるんだなって思って、応援したくなる。
「今日はたまたま寄ったんですけど、来てよかったです」
「私も、お会いできてよかった。そのお手紙、実はお店の預かりもの入れに入っていたんですけど、あなたに是非お礼が言いたかったんです。ありがとうございましたっ!」
「こちらこそ。またコーヒー飲みにきます」
バス停にはちょうどバスが到着していて、あたしは駆け足でそれに乗り込んだ。
一番後ろの広い席で外を眺めると、少しずつ降りだした雪が街全体を白く染め始めていた。
ありがとう。かあ。卓巳兄ちゃんに言われたお礼も、スターバックスの高島さんに言われたお礼も、正直あたしはピンと来なかった。
結局は自身で決めて出した答えなんだから、それでいいと思う。
一番いけないのって、他人に決められて流されてしまうだけの人生。
まだ社会に出てもいない小娘のあたしにだって、それくらいは分かってる。
でも――結論を出した人がその人自身でも、あたしがその手助けになったり、キッカケになったんだとしたら、あたしも少しは、役に立てたのかな。
自宅、といっても陽一さんの家だけど。に着いた頃には、街はすっかり白一色になっていた。
「おかえり」
リビングでは陽一さんが、何だかよく分からないけど豪華そうな食事を作っていて、あたしは手伝うわと言って、荷物を置いた。
陽一さんが肉を切ってあたしが野菜を切っていると、自宅電話が鳴った。
「っと。わりぃな」
中断して電話を取る。
「はい。ああ、野上さんか。珍しいな。何の用……ん? 綾に?」
え? あたしのこと?
何かな。もしかして生意気言ったから叱っておいて、とか、注意の電話かな。
陽一さんが首を傾げながら、受話器を置いた。
「何だったの?」
「野上さんから電話で、綾にありがとうって伝えてくれって言われた。あの人のお礼なんて初めて聞いたぞ。お前、何を言ってきたんだ?」
「何かな。あたしもお礼を言われる覚えがないんだけど」
今日の会話で、お礼を言われるポイントがあったっけ?
あたしはワケが分からなかったけど、野上さんが怒っていないと知ってホッとした。
もしかして「ありがとう」って言葉が、野上さん的、内なる怒りの表現だったりして。
……深く考えないことにした。
「それより陽一さん、野上さんから聞いたんだけど明後日のパーティーって何?」
「明後日か。ウチのアートスタジオの社長含むスタッフたちとのクリスマスパーティーだ。七時からだから、ちゃんと家に居ろよ」
「……」
「お、おいおい。何で睨んでいるんだよ。野上さんのところに、気に入ったドレスが無かったのか?」
「パーティーの話、聞いてなかったんですけど」
「え? そ、そうだったか?」
ガミガミ。陽一さんにお説教をして、妹さんに会ったことも伝えた。
「エレナに会ったのか。あいつも毎年、野上さんのところでドレスを借りるからな。自分で買うほどの金が稼げるようになったのに、あそこのドレスにこだわってな」
「お金を稼ぐ? エレナさん、学生さんじゃなかったっけ?」
ふと今日の会話の違和感を思い出す。
野上さんの一言『仕事に遅れるさね、早くいきな』って。
「ああ、大学生だ。けど二ヶ月前くらいだったか、急に芸能界デビューしやがってな。後で訊いたら俺を買い物に付き合わせた日があったろ? あの時は彼氏とデートと言っておきながら、そうじゃなくてな。
オーディションの当日で緊張していたから、気分転換したかったんだとさ」
「よかったね。愛されているんだよ」
「愛――いや、妹に愛されても嬉しくはねえが」
「でも血は繋がっていないんでしょ?」
「まあな。けど俺にとっちゃあいつは妹でしかねえよ」
「じゃああたしは、陽一さんにとっては娘でしかない?」
「娘? 懐かしいな。綾と初めて会った時に、マスコミの記者たちに使ったデタラメか」
「……あたしは、陽一さんにとっては、今でも娘?」
おいおい、どうした――と言いかけた陽一さんの顔が、あたしの真剣な視線を受けて真顔になる。
「娘だったら、キスなんてするはずねぇだろ」
陽一さんは黙ってあたしを抱きしめてくれた。
ドクン、ドクンと響く心臓の音が、あたしの胸と同じ少し早い鼓動を奏でている。
「あったかいよ……」
「……」
陽一さんは答えなかった。
キスをするわけでもなく、その先の行為をするわけでもないけれど。
抱き合うことで、心が触れ合えた気がする。
あたしの心が空っぽだたったのかな。
陽一さんの心が空っぽだったのかな。
それともお互いの心はある程度満たされていて、それが溶け合って混ざり合って、お互いの心を満たしているのかな。
「綾」
陽一さんの言葉に顔を上げる。
彼は、何かを言おうとしたのかもしれないけど、何も続けなかった。
けど、ただ抱き合っていて。
感じる体温。耳に届く吐息。背中に回された優しい手。溶け合う心。
いくつもの液体が混ざってできるカクテルのように、どれが欠けてもアナタを形成することができないと思う。
あたしは陽一さんを強く強く抱きしめて、胸に顔を押し付けた。
「陽一さんはどこにも行かないでね。行っちゃ、やだよ」
不意に重なる、子供の頃の思い出。
子供の頃――何時間もかけて作った雪だるまは、あたしの大切な友達だった。
友達はこう語るのだ。
『ハロー、お嬢さん。ボクとダンスを踊りましょう』
あたしの手を取り、白く雪化粧した誰もいない公園でダンスを踊る。そんな楽しくて悲しい、夢を見た。
春の訪れと共に、消えてしまった雪だるま。
ありがとうもさよならも言えないで、消えてしまった大切な存在。
何故か分からないけれど、陽一さんがある日、ふっ。と消えてしまうような、そんな気がした。
「おいおい。俺は雪だるまじゃないぞ。太陽で溶けたりしねえし、そんなにヤワでもねえよ」
「うん。そうよね……ねぇ、陽一さん」
「どうした?」
「いなくなったりしないでね」
「ああ。約束だ」
外では雪が降り続けていた。
明日には多分、世界が雪で埋もれてしまうんじゃないかしら?
なんてことあるわけ、ないけどね。




