近づく距離
大切な人
大好きな人
今でも忘れられない人
今そこにいる人
近づく距離は――
自宅に到着すると、あたしは救急箱を抱えて氷室……陽一さんの傷の手当てをした。
足元がまだふらつくらしく、リビングのソファーに転がると、消毒液と氷枕が欲しいといわれた。
傷口は化膿しないように、消毒液で丁寧に拭き取りガーゼを当てる。
医学にも少しだけ詳しいという陽一さんの指示に従って動くことに専念した。
一通りの治療が終わって、ほっとする。
「ふぅ。ありがとうな、綾。これで寝れば、あとは落ち着く」
「陽一さん、いくらリビングにヒーターが入っているからって、こんなところで寝たら風邪ひくよ?」
「……陽一さん?」
「あっ、えっと、今の無しっ。違うのっ。ついなの、うっかりなの」
「そんなにテンパらなくてもいい。そうか、陽一さんか……」
陽一さんは優しく笑うと、ゆっくり目を閉じた。
風邪をひくっていってるのに。
「……陽一さん」
こっそり呼びかけてみる。
寝相がいいんだ。全く動かないし。ちょっと心配になって、口元に耳を近づけた。
……ちゃんと息をしている。大丈夫よね。
初めてみる陽一さんの寝顔は、とっても無防備で見とれてしまう。
自然と唇に目が移る。
あたしは、そっと自分の唇に触れた。
「ありがとう」
あたしの為に戦ってくれたナイト様にお礼を言って、毛布を被せてあげた。
着の身着のままでの就寝になったけど、仕方ない――か。あたしはその傍らで、毛布に包まりながら、安らかな顔を眺めていた。
いつの間にか眠ってしまっていたらしく、寒くて目が覚めた。朝だった。
「はっ、くしゅん!」
忠告しておきながら、豪快なくしゃみをしてソファで横になっているのはあたし。
「……お前、なんでリビングで寝ていたんだ?」
「陽一さんの寝顔見てたら、寝ちゃった」
鼻声になっているのが自分でも分かる。
学校に今日は休むと電話した。
意識はもうろうとしているのに、寝付くことができない。
そして――
眠りに落ちそうな瞬間、昨日の出来事がフラッシュバックのように蘇ってきた。
あたしの体に伸びる無数の手と、男たちの荒い吐息。
反射的に飛び起きると、心臓がドクドクと鼓動を鳴らしていた。
「はあっ……はあっ」
精神的に参っているのかも。
心に爪痕を残すあの出来事が、脳裏に焼きついて離れない。
でもイザというときは、陽一さんが駆けつけてくれる。
そのことを心の中で呪文みたいに繰り返していると、次第に気持ちが落ち着いてきて眠りにつくことができた。
……どれくらい時間が経過しただろう。ドアをノックする音がしてドアが開いた。
半分覚醒した意識の中で、目を凝らすと、お盆を持つ人物が見えた。
「お粥を――」
輪郭でしか分からないけど、そこに立つ人影を見上げた。
お粥を、の続きがぼやけて聞こえなかったのは、あたしが寝ぼけていたせいだ。
「うんっ……ありがとうっ」
少しぼんやりする頭で体を起こし、立ち上がろうとする。
けれど足元は地面に触れると同時にバランスを崩し、そこにいた人影を押し倒す格好になった。
「――!?」
……あれ?
あたしの手のひらに、豊満で柔らかな感触が二つ。覆いかぶさっていたあたしの手の中で、形を歪ませていた。
「陽一さんって意外と、おっぱいが……」
ぼんやりしていた視界が開けた。
多分その時のあたしの目は、点になっていたと思う。
押し倒されて胸を鷲掴みにされ、頬を赤らめていたのは陽一さんではなく、桜さんだった。
『……』
お互いに見つめあったまま、沈黙の時間が流れている。
と、桜さんが目を閉じ、そっと唇を閉じて上に向けた。
不覚にも高鳴るあたしの胸。
このシチュエーションは……キ、キス……。
あたしは垂れた髪をかきあげて、そっと近づ――
「じゃなくて、何しているんですかっ、桜さんっ」
慌てて飛びのくと、桜さんがゆっくり身を起こした。
「お粥でよろしいですか? とお尋ね致しましたが、あの……私のほうがよろしかったのかと思いまして」
少し頬を赤らめて、もじもじと言う桜さん。
冗談とか、からかっての言葉ではなくて、この人本気で言っている。
「いえ、お粥で大丈夫ですっ! お粥大好きなのでっ」
変に高鳴る胸に、あたしは自分の言葉が理解できない。
「強引に押し倒されたのは初めてですので、ドキドキ致しました」
「あの、陽……氷室さんと間違えちゃって…」
何故か少し残念そうな顔をする桜さん。
「氷室さんを押し倒す予定でしたの?」
「いえ、そうじゃなくて……」
何だか泥沼になりそうだったから、あたしは強引に話を変えることにした。
「と、ところで桜さんは、何でここに?」
「お粥をお持ちする為ですわ」
「そうじゃなくて、何でこの家に?」
すると桜さん、ああっ! と頷いた。
頭に豆電球がパッと浮かぶようなしぐさと表情が、かわいらしい。
ちょっと天然さんなのね。桜さん。
「氷室さんから『綾が風邪をひいたから、風邪に効く料理を作ってやりたい』とお聞きしまして。私たちに召集がかかったのですわ」
「お粥を作るためにですか?」
「いいえ、漢方成分をふんだんに使用したスープでございます。高級食材も使いますし調理に手間がかかりますので、手伝って欲しいと」
「そんなに大変なスープなんですか?」
「とっても大変ですわ。ちなみに作り方は――」
桜さんが事細かに説明してくれたスープの作り方は、あたしには半分も理解できなかった。
「――というわけで、最後は三時間煮込めば完成です」
「……えっと、分かりました。三時間寝込めば完治ですね」
何か違う気がするけれど、まあいっか……。
「ごめんなさい。あたしの為に。今日のお仕事は大丈夫なんですか?」
「私も徹も、本日は有給をいただいております。それに私たちもそろそろ、綾さんに会いに出向く予定でございましたので」
「あたしにですか?」
「だって、大切なお友達ではございませんか」
悪意もなく企みもない、純粋な桜さんの笑顔に癒される。
そう言ってもらえると、やっぱり嬉しい。
少し寝ていたお陰で、体調はだいぶんよくなった。
桜さんに作ってもらったお粥を食べてリビングに向かうと、陽一さんと徹さんがまな板の上で何かを叩いていた。
「起きたのか綾。もうちょっと待ってろよ。そろそろ完成だ」
「こんばんわ香坂さんっ。ご無沙汰してますっ!」
徹さんがコックコートを着たまま、腰に肘を添えてこぶしを前に出した『押忍!』のポーズで挨拶してくれた。
「お、お久しぶりです……」
あたしはつられて、同じポーズで挨拶をした。
「綾までやらなくていい」
陽一さんは苦笑いとも微笑みともつかない顔であたしを眺めていた。
「兄さんっ、そろそろ完成ですっ。姉さんっ皿の準備を頼むっ! 香坂さんは座っていて下さいっ」
「徹さん、あたしだけ香坂さんって、他人行儀なんで、綾でいいですよ」
「自分も綾さんと呼んでいいですか? 光栄ですっ」
……なんだかなあ。
「悪いな綾。こいつ体育会系だから……」
陽一さんは苦笑しながらも、スープ皿に次々と取り分けていく。
テーブルの上にはスープと、簡単なサラダとパンが並んだ。
あたしの席には、パンではなくお粥だった。
「薬効成分がどうとか聞いてたけど、そんなに薬臭くないのね」
完成したと言われるスープは、一見ただのコンソメスープにしか見えない。
けれど、一口すすってみるとドクン。と体が震えるのを感じる。体の隅々まで染み渡るような浸透性と、喉を通る時の痛みがない。
あれだけ熱っぽかった頭と、痛かった関節がウソのように気にならなくなっていく。
「あとは安静にして、もう一眠りすれば明日には治っているだろう」
「このスープは、風邪は勿論、虚弱体質や冷え性、食欲不振、肉体疲労など様々な効能がございますわ」
「まるで養命酒みたいなスープですね」
あたしの一言で、皆がどっと笑いに包まれた。
「とはいえ、材料費が結構高くつくから、風邪の度につくっていたんじゃ破産してしまうけどな」
それを聞いて、あたしはゆっくり大切に飲むことにした。
徹さんが作ってくれたデザートは、オレンジのムース。
一見するとシンプルなデザートだけど、顔に似合わない……もとい、時間をかけて作られた繊細な仕事がとても素敵。
食べるのを惜しみつつも、やがて食事が終わると――
『ごちそうさま』
皆で揃って手を合わせた。
まるで一家団欒。そんな温かさがとても嬉しい。
「綾ちゃん、体のほうはもう何ともないですかっ?」
真剣な表情で徹さんが訊いてきた。
体。昨日のこと……陽一さんが話したのかな。
「うん、平気。最初は本当に怖くて、動けなくなっちゃったけど、陽一さんがきっと助けに来てくれるって、根拠のない確信があったし」
あ。陽一さんって言っちゃった。
でもいいよね。愛の力? とか、からかわれても何でも、あたしが本当に信じていたことだし。
「……助けにって、何のことです?」
あれ?
陽一さんの方を見ると、手の平で顔を覆って「バ……」多分、バカッと言いかけたんだと思う。
「氷室さん? もしかして綾ちゃんは、とても危険な目にあわれたのではございませんか?」
「何のことだ?」
冷静な口調で答えた陽一さんだったが、視線は完全にあさってを向いていた。
「酷いですよっ氷室さんっ! 綾さんのピンチに何で自分らも呼んでくれないんですかっ! 自分にとっても綾さんは大切な友人ですっ!」
「……あえて訊きませんでしたが、その額の傷といい、腕と足に残る生傷といい、その時のものですね?」
「いや、その何だ。事態が事態だったからな、お前らを呼んでいる時間が無かったんだ、本当だ。それに――」
氷室さんが言葉を切った。
お前らを呼ぶと収集がつかなくなる……。
言葉を飲み込み続ける。
「いや、なんでもねえ」
「何でもありますわっ」
桜さんが食い下がる。
あたしはぽかん……と三人のやりとりを眺めていると、陽一さんが分かった。分かったと熊谷姉弟をなだめた。
「正直に言うと、こいつらにも血気盛んな頃は相当無茶をしていてな。族を潰した伝説もあるわけで……」
「お二人が、ですか?」
徹さんは何となく分かるけど、桜さんまでとは意外。
「うっ……確かにそんな時期も……ありましたがっ、過去のコトですっ」
「私たちがそれを実行に移したのは、己の快楽や私利私欲の為ではございません。大切な方を守る為の防衛手段でございますわ」
「分かってる……しかし今回は、学校の施設内での出来事だ。いくら相手に非があったとはいえ、俺たちも何らかの刑事処分が下る可能性もあった。お前たちは今、でかい仕事を控えている大切な時期だろ?
万が一の時は、泥を被るのは俺一人でよかっただけだ」
「氷室さんっ……」
「……」
徹さんと桜さんは、共に言葉を失い氷室さんを見た。
そして――
「でかい仕事が何だっていうんですっ? 俺は自分の大切な人が危険にあって、それを助けられずにケーキ作って出世コース? そんなんゴメンですよっ。見損なわないで下さいっ!」
「私たちにとって一番大切なのは絆ですわ。氷室さんも綾ちゃんも大切な方です。第一そんなに仕事が大切なら、今日だって来ておりません」
「徹さん、桜さんっありがとうございます」
あたしは涙ながらに、徹さんと桜さんに抱きついた。
――……
何のかんので食事とデザートが終わり、帰り際の玄関にて。
「氷室さん、綾ちゃん。本日はお招きありがとうございまっす」
両手に食材の入った箱を抱えて、桜さんが扉を開ける。
「綾ちゃん。念のため申し上げておきますと、私たちはあなたが氷室さんと親しいから大切だと思っているのではなく、あなた自身のことを大切だと思っているので、誤解なさらないで下さいね。絆は損得ではございません。それではまた、近いうちに」
お二人の言葉が胸に沁みる。
氷室さんの傍にいるから優しくしてくれているんじゃなくて、あたし自身を見て接してくれている。
「……まあ、ちょっと暑苦しいが、いい奴らだろ」
「うんっ」
「あのな……俺があいつらを呼ばなかった本当の理由ってのは、俺自身の手で、お前を助けたかったからで……」
そっぽを向いて、聞こえるか聞こえないかの声で言う。
「分かってたよ」
あたしも、そうつぶやく。
暖房器具のない玄関は寒かったけど、あたしたちはずっと抱き合っていた。
ただ抱き合って、唇を重ねる。
その先に在る行為を、あたしと陽一さん、お互いが意識したけれど――
完全に心が塞がっていないのは、あたしだけではなく、陽一さんも同じ。
どちらがともなく離れ、何事もなかったかのように、その日を過ごした。




