夏至祭
兄は、僕より少しだけ早く生まれた。
だから王になった。
僕は、少しだけ遅く生まれた。
だから神官になった。
もちろん、本当はそんなに簡単な話ではない。
「左手ではありません」
僕が香炉へ伸ばしかけた手を、ミーラが止めた。
朝からこれで三度目だった。
「右手です、アシャン様」
「分かっています」
「では、なぜ左手をお使いになったのですか」
「左利きだからです」
「存じております」
だったら聞かなくてもいいのに。
そう思ったけれど、口には出さなかった。
ミーラは怒鳴らない。
僕が間違えても、いつも穏やかな声で同じことを言う。
だから余計に逆らいにくかった。
僕は右手で香をつまみ直した。
夏至の日の朝だった。
一年でもっとも太陽の長くある日。
カルバーブでは、この日を大きな祭日として祝う。
太陽のもとに生きる者が集まり、死者を思い、今年の実りと水に感謝する。
王国司祭である僕には、一年でも特に大きな仕事の日だった。
そして今年は、兄にとっても特別な日だった。
父上と母上が亡くなったのは四年前。
流行り病だった。
兄も僕も十二歳だった。
兄はそのまま王になった。
けれど十二歳の王に、最初からすべての役目を負わせるわけにはいかない。
四年かけて少しずつ王としての仕事を増やしてきて、十六になった今年の夏至、兄は王として一通りの儀礼を務めることになっていた。
僕の方は十二歳のころから王国司祭だった。
もっとも、僕にもミーラがいたし、神殿には年長の神官が大勢いた。
だから十二歳の僕が突然、国中の神官へ命令していたわけではない。
偉そうな衣装を着せられて、言われたところに座り、ミーラから、
「右手です」
と教えられるところから始めた。
四年経った今でも、それはあまり変わっていない気がする。
「暑い」
僕は言った。
「夏ですから」
「そういう意味じゃありません。この服が暑いんです」
「祭服ですから」
「夏至祭なのに?」
「夏至祭だからです」
何を言っても返される。
白い祭服の上には、金糸で太陽と星々が縫われている。
見た目は立派だ。
着ている本人は暑い。
「アシャン」
声がして振り向くと、兄が立っていた。
ラシャンだった。
同じ顔をしている。
双子なのだから当然なのだけれど、最近は僕たちを間違える人はいなくなった。
服が違うからだ。
兄は王の服。
僕は神官の服。
それに兄の方が、少しだけ王らしい顔をするようになった。
「暑そうだな」
「兄上の方が涼しそう」
「代わる?」
「王様と?」
「服だけ」
「王冠も?」
「それは駄目」
「じゃあ嫌だ」
兄が笑った。
ミーラは何も言わなかった。
僕たちが二人でいるときは、多少くだらないことを話しても見逃してくれる。
「昨日、マーダヴ先生にまた怒られた」
兄が言った。
「何したの?」
「十個の計算のうち一個間違えた」
「九個合ってるじゃない」
「僕もそう言った」
「そしたら?」
兄は、いかにも嫌そうな顔をしてマーダヴ先生の声を真似した。
「『なら一つ間違っている』」
僕は笑った。
「それで僕が『九つは合っています』と言ったら」
「うん」
「『それは直す必要がない』」
今度はミーラまで少し笑った。
「正論ですね」
「ミーラまで先生の味方をするの?」
「正しいことに味方はございません」
兄は僕を見た。
「おまえの先生も嫌だな」
「交換する?」
「しない」
即答だった。
僕だってしない。
やがて鐘が鳴った。
話している時間は終わりだった。
僕は祭場へ出た。
夏至の太陽が白い石床を照らしていた。
暑かった。
本当に暑かった。
それでも、儀式が始まれば暑いとは言えない。
王国司祭として祭壇へ上がる。
太陽へ祈りを捧げ、生者と死者のあいだに言葉を置く。
星々は太陽の子。
地上を去った者たちの魂もまた星となり、やがて生きる者のもとへ巡ってくる。
子供のころから何度も習った言葉を唱える。
右手で。
途中からは意識しなくても右手が動いた。
祭場の向こうに兄がいた。
王として座っている。
その近くにはヴァルダーン公。
マーダヴ先生。
叔父上――ナジャールもいた。
僕と目が合うと、叔父上が少し笑った。
僕も笑いそうになって、慌てて前を向いた。
祭儀の途中で笑う王国司祭は、たぶんよくない。
神降ろしを終えたころには、喉がからからだった。
祭壇を降りると、叔父上が水を持ってきてくれた。
「よく務めたな、アシャン」
「ありがとうございます、叔父上」
受け取ろうとすると、
「左手」
とミーラが言った。
僕は止まった。
「水も?」
「今はまだ祭儀中です」
右手で受け取った。
叔父上が笑った。
「大変だな、王国司祭は」
「叔父上からも言ってください」
「ミーラ殿が正しい」
「みんなそう言う」
水は冷たかった。
祭儀が終わると、僕は着替えた。
兄は着替えられなかった。
「では、陛下。東の諸侯への謁見がございます」
侍従がやってきた。
兄の顔が変わった。
ほんの少しだけだった。
「分かった。小会議室?」
「はい。その後、北部から水量について報告が届いております」
「記録は?」
「まとめております」
「先に持ってきて。謁見の前に見る」
さっきまでマーダヴ先生の悪口を言っていた人と同じには見えなかった。
これが兄の仕事だった。
十二歳から四年かけて、兄はこういう顔を覚えた。
僕にはまだ、少し不思議だった。
兄が歩き出す。
僕はその背中に声をかけた。
「兄上」
振り返った。
「何?」
「祭り、行かない?」
兄がしばらく僕を見た。
それから、後ろにいる侍従を見た。
侍従は何も言わなかった。
「……行けると思う?」
「思わない」
「じゃあ聞くなよ」
僕は笑った。
兄も笑った。
「来年は行く」
「毎年言ってるよ」
「今年は本当に行けそうだったんだ」
「王様になったからでしょう」
「王になる前に行っておけばよかった」
そう言って、兄は仕事へ行った。
僕はその背中を見送った。
そのときだった。
遠くから、
ぽん。
と音がした。
僕は振り向いた。
少しして、
ぽん。
別の方向からも聞こえた。
「何の音?」
僕が聞くと、ミーラが窓の外を見た。
「米菓子でしょう」
「お菓子?」
また鳴った。
ぽん。
ぽん。
今度は二つ続いた。
外から太鼓と笛の音も聞こえている。
町ではもう祭りが始まっていた。
「ミーラ」
「はい」
「祭りを見に行ってはいけませんか」
ミーラが僕を見た。
「遊びに、ですか?」
「勉強です」
「いま考えましたね」
「……半分くらいは」
ミーラは少し考えた。
僕は待った。
「あなたが祭司を務める祭りです」
「はい」
「宮殿と神殿の中だけを知っていればよい、というものでもありません」
「ということは?」
「私も参ります。神官を二人。護衛も付けます」
「行っていいんですか?」
「日が傾く前には戻ります」
僕は思わず笑った。
「ありがとうございます」
「ただし」
「はい」
「勝手に離れないこと」
「はい」
「知らないものを勝手に口へ入れないこと」
「子供じゃないですよ」
「十六歳です」
「兄上も十六歳です」
「陛下には、もっと多くの方が付いております」
それはそうだった。
兄が祭りへ行くとなれば、近衛の護衛班だけでも何人も必要になる。
王が人混みに入れば、警護だけでは済まない。
先に道を調べる者がいる。
人を整理する者がいる。
侍従も来る。
王だと分かれば人も集まる。
兄はただ祭りを見たいだけなのに、それでは行幸になってしまう。
僕なら、まだミーラと神官と護衛数人で済む。
王国司祭と国王。
同じ日に生まれたのに、ずいぶん違うものだった。
町へ降りると、音が一気に近くなった。
白河宮から見る町は屋根ばかりだった。
下へ降りると、人だった。
子供が走っている。
布を売る店。
果物。
焼いた肉。
香。
花。
小さな太陽を描いた飾り。
僕が知らない祭りが、そこら中にあった。
そして、ときどき、
ぽん。
と音がする。
近くで鳴ると、思ったより大きかった。
僕は音のした方を探した。
人だかりの向こうで、男が大きな蓋のついた道具を扱っている。
子供たちが周りで待っていた。
ぽん!
白いものが飛び出した。
子供たちが歓声を上げる。
僕も足を止めた。
「米?」
「はい」
ミーラが言った。
膨らんだ米を集め、蜜を絡めて固めている。
丸いもの。
四角いもの。
星のような形にしたものまであった。
「これが夏至祭の名物の米菓子かあ」
「召し上がったことがございませんか?」
随行していた若い神官が驚いた。
「ない」
「米は星を表しますから、アシャン様にも縁の深い食べ物です」
「それは習ったよ」
僕は答えた。
「星は太陽の子。死者の魂も星へ帰る。米粒を星に見立てて、生者がいただく」
「よく覚えておいでです」
「僕、王国司祭なんだけど」
後ろで護衛の一人が笑った気がした。
振り返ると真顔だった。
たぶん気のせいだ。
また、
ぽん。
と鳴った。
僕は聞いた。
「でも、どうしてわざわざここで作るの?」
「音ですよ」
ミーラが言った。
「音?」
「雨の音に似ているでしょう」
また鳴る。
ぽん。
少し向こうでも、
ぽん、ぽん。
僕は空を見上げた。
青かった。
雲はほとんどない。
「……似てるかな」
若い神官が笑った。
「もっと鳴れば似てきますよ」
「もっと?」
「夜になれば分かります」
何のことだろう。
とりあえず、一つ買ってもらった。
自分で買おうとして、僕がお金を持っていないことに気づいたからだ。
王族は不便だった。
一口かじる。
さくっと崩れた。
蜜が甘い。
少し香辛料の香りがする。
「おいしい」
それは神学とは何の関係もない感想だった。
もう一口食べた。
やっぱりおいしい。
「もう一つください」
ミーラが僕を見た。
「お気に召しましたか」
「兄上の分」
店の人が笑った。
「兄ちゃんは来てないのか?」
「仕事です」
「祭りの日までか。そりゃ気の毒だ」
「本当に」
僕は真面目に答えた。
兄がカルバーブ王だとは言わなかった。
祭りを歩いている間にも、あちこちから音がした。
ぽん。
ぽん。
ぽぽん。
本当に少しだけ雨みたいだった。
町中で雨を作っている。
そう思うと、なんだか面白かった。
白河宮へ戻るころには、日が傾き始めていた。
兄はまだ仕事をしていた。
僕も自分の部屋へ戻り、ミーラから今日見た祭りについていくつか質問された。
あれは本当に勉強だったらしい。
ちゃんと祭りを見ておいてよかった。
夕方になって、ようやく兄が来た。
「疲れた」
王様らしくない第一声だった。
「お疲れさまです、陛下」
わざとそう言うと、兄は嫌そうな顔をした。
「やめろ」
「王様でしょう」
「おまえしかいないんだからラシャンでいい」
「じゃあ、ラシャン」
「それもなんか嫌だ」
「面倒だなあ」
僕は包みを出した。
「これ」
「何?」
「祭り」
「祭り?」
「の、一部」
兄が包みを開く。
米菓子を見た。
「おまえ、行ったの?」
「ミーラと」
「ずるい」
「だから買ってきたんだよ」
兄は一つ取った。
かじる。
僕は聞いた。
「どう?」
兄はしばらく噛んでから、
「甘い」
と言った。
「それだけ?」
「うまい」
「でしょう?」
そのときだった。
ぱん。
窓の外から大きな音がした。
僕は驚いて振り向いた。
ぱん、ぱぱん。
今度は続いた。
「始まった」
兄が言った。
「何が?」
兄が僕を見る。
「おまえ、王国司祭なのに知らないの?」
「何?」
「爆竹」
僕は窓へ寄った。
町のあちこちから音が聞こえてくる。
ぱん。
ぱぱん。
ぱん、ぱん、ぱん。
昼間の米菓子よりずっと大きい。
それが遠くでも近くでも鳴っていた。
「雨乞いです」
後から入ってきたミーラが教えてくれた。
「昼の米菓子と同じ?」
「ええ。米を作る音で小さな雨を呼び、夜は爆竹で大きな雨を呼ぶ、と申します」
僕は耳を澄ませた。
町中で鳴る音が重なっている。
ぱらぱら。
ざあざあ。
そう言われてみれば、激しい雨が屋根を叩いているようにも聞こえた。
「本当に雨みたいだ」
「でしょう?」
兄が得意そうに言った。
「なんで兄上が得意そうなの」
「僕は知ってたから」
「祭りには行ったことないのに?」
「本で読んだ」
「僕も本では読んだはずなんだけどなあ」
ミーラがこちらを見る。
「では、明日確認いたしましょう」
「しなくていいです」
兄が笑った。
僕も笑った。
爆竹はまだ鳴っていた。
町の人たちは今年の雨を願っている。
田に水が来るように。
米が実るように。
今年も食べ物に困らないように。
僕たちは窓辺に並んで、その音を聞いた。
「来年は僕も行く」
兄が言った。
「王でしょう」
「王でも祭りくらい行ける」
「今年行けてないじゃない」
「来年は仕事を早く終わらせる」
「マーダヴ先生が増やすよ」
兄は黙った。
「……それは考えてなかった」
僕は笑った。
兄も笑った。
外では雨の代わりに、爆竹が鳴っていた。
長い夏至の日が終わろうとしていた。
僕は、来年はもっと米菓子を買おうと思った。
兄の分と。
僕の分を。
今度は、ちゃんと二つ残るように。




