EPISODE 0 2/2
基本は変わってないと美香さんは言った。でも変わっていた。インターネットが爆速になっていた。
「なにこれ」
「えっとですね。これはADSLです。高速インターネットです」
「CATVのインターネットにするはずだったんじゃないの」
「それがエリア対応が予想より遅れてて困ってたら、こっちが先に使えるようになったんですよ」
インターネット回線をOCNエコノミーからADSLに変更。ADSLはNTTの電話回線を利用してインターネットに接続する方式だった。ISDNのデジタル回線ではADSLは使えなかったので、休止していたアナログ回線を復活させることになった。
「前はISDNの2チャネルで電話とFAXを使ってたんです。電話がもうひとつあればいいなあと思っていたところでアナログ回線が増えて、社長がひらめいちゃったんです」
「何をひらめいたの」
「アナログ回線は複合機に接続することになりました。ISDNは通話専用です」
「複合機ってなに」
「ええと、プリンターとスキャナーとFAXがいっしょになった機械です。そこにある imagio MF200 です」
このため、まいと~くFAXで電子化していたFAX受信は紙に戻った。プリントサーバー兼FAXサーバーとして使用していた 98MATE X (PC-9821Xa12) はお蔵入りになった。
「そうなの。じゃあ比野文具通信は、フリーダイヤルはどうなったの」
「比野文具通信は外部ASPで同報FAXサービスがありましたのでそちらに。フリーダイヤルの紐付けも複合機に変更されています」
「ずいぶん変わったのね」
「そんなことないですよ。FAXの注文を見て入力するのは前と同じです」
本当かなあ。こんなに変わってるのに同じなわけないじゃん。
「よかった。FileMaker Pro 5.0J でも受注入力画面は前と同じだ。受注管理画面も変わってないね」
「ごめんなさい。管理画面は変わっています。納品書の印刷は事務所ではやらないことになりました」
「えっそうなの」
「出荷指示書も出しません。受注レコードの左端の出庫をONにするだけで印刷と出荷は工場が勝手にやります。事務所にあった EPSON LP-8300 がなくなってるでしょう。工場に持って行ったんです。ここで印刷するときは複合機を使います。V200につながってます」
インターネット回線を早くするだけだったのが、玉突きでどんどん業務を変えている。そういえばこの会社は前からそういう会社だった。
「この調子だとネット通販も変わってるんでしょうね」
「変わってますけど、それは美智子さんも知ってるはずですよ。ずっと前から計画していたことを実装しただけです。午後になったらやって見せますから」
お昼は美香さん、野原さん、かおりちゃん、真子ちゃんといっしょだった。メニューは社長が全員分を買ってきた厚いタマゴサンドとネスカフェ。営業の人たちは出払っているし、工場は工場でどこかに食べに行ったみたい。松本くんにもご挨拶したかったのだけれど。
「美智子さん、コーヒーが平気になったんですね」
「うん。産んだら平気になった。お医者さんが言うには、人それぞれなんだって」
制作部のふたりは大地の写真をぼーっと見ていた。私のひとつかふたつ下なんだっけ。やっぱりそういうことも考えるよね。
「あの Performa 588 も懐かしいな。新しいMacもかっこいいじゃない」
「フロッピーの読み書きに意外と手放せないんですよ。MOもあれでないと接続できなくて」
真子ちゃんの机の下には Power Mac G4 Graphite が潜んでいた。机の片隅の PowerBook 1400c の上に35万画素の FUJIX Clip-it DS-20 が置かれている。これも古い。
就職した商社で怖い目にあって引きこもり同然になっていた私を、お姉さんがここにつれてきてくれて、また働き始めることになった。あれからもう6年がすぎている。緊張しながら入社の挨拶をした私を押しのけて、社長はソフトウェアのパッケージを手に前に飛び出して、こう宣言した。
「本日の業務よりExcelによる受注管理を始めます。これが Microsoft Excel 5.0 日本語版です。本日発売。今日出るものがなぜここにあるかと言いますと、昨夜のうちに買ってきたのです」
あの日のことはよく覚えている。あれからの怒涛の変化を思えば、たった1年の浦島太郎なんてたいしたことはない。
「ではそろそろネットショップの受注入力をやりますね」
野原さんがかおりちゃんのところから 98NOTE LaVie (PC-9821Nr150/X14F) を手元に引き寄せて開く。うちのLaVieより重くて厚いノートだ。
「これは今でもかおりさんが管理する端末なのですが、仕事の流れが変わってほとんど私が使っています」
AL-Mail32を起動してメールを受信。
「前は支払い方法の違いなんかでメールを手動で振り分けていましたよね。今はそれはしてないです。このまま処理します」
野原さんがデスクトップの「楽々CSV.bat」をダブルクリックすると、Perlスクリプトがメールボックスを読んで juchu.csv と item.csv を書き出した。
「前と同じに見えるでしょう。でもこの、楽々受注メール一括CSV変換スクリプトは ver.7 になっているのです」
「ver.4.5 だったのにっ」
「今ので楽々市場と公式サイトの両方の受注データがひとつになりました。公式サイトの買い物かごもPHPで作り直したんですって」
「PHPってなに」
「ごめんなさい。私もくわしくは。でも修正しやすくなって、それでうまくできたんだって島田さんが言ってました。では次に行きましょう」
野原さんは FileMaker Pro 5.0J を起動して楽々市場.fp5 を開く。グレーの画面に大きな読み込みボタンがふたつだけ。社長が片手間に作った、この割り切った画面は前と同じだ。
「インポートできました。FileMaker Pro 5.0J はやはり重いので別の端末でやったらどうかという話もあります」
「ふーん」
さて、このあとはご注文いただいたお客様に確認のサンクスメールを送信するのだ。前はJavaScriptで作った簡易なツールでメールの文章を作っていた。
「それもFileMakerでやるようになりました」
「やっぱりね」
MA50Jで受注一覧を確認すると、取り込んだメールの受注内容が並んでいる。顧客番号が空欄の新規扱いのものがちらほらとある。
「ネットのご注文に顧客番号がないのは前と同じです。楽々市場にはそもそも顧客を管理する機能がありません。公式サイトでもお客様に顧客番号を書いてもらう方法が見つかりません。だからメールアドレスと電話番号で顧客マスターを検索しています。改善点としては、複数のメールアドレスや電話番号をお持ちのお客様の場合でも検索用のテーブルが別にあって探せるようになったことです。それでも見つからなかったらご新規として扱います。それでサンクスメールの機能はここです」
野原さんが画面を指差す。メール送信、送信済み、確認中。メール送信をクリックすると Outlook Express 5.01 のメール作成画面が立ち上がり、媒体や支払い方法に合わせて、すこしずつ文面が違うサンクスメールが生成される。
「確認メールはここから送信できるんです。AL-Mail32が使えたら良かったんですが対応していないとかで無理でした」
「いいじゃない。手作業でコピペしないですむんだ」
説明してもらったことは、当たり前だけれど業務マニュアルにすべて書いてあった。画面のスクリーンショットに丸数字が散りばめられていて説明文と一致していた。これを作ったのはたぶん美香さん。大変だったろう。
「他には発送の送り状番号が備考欄に入るようになりました。トヤマ運輸さんの新しい印刷アプリが優秀で簡単に連携できたと島田さんが言ってました」
「それは確認が楽になったねえ」
「システムや業務フローはこんな感じです。楽になった部分は多いですが、お客様はあいかわらず、おかしな問い合わせをしてきます。他社の商品をネットで売ってないのはなぜだとか。その対応は自動化できません」
ネット通販の処理を終わらせてからは、電話やFAXの番をしながら業務マニュアルを読みながら過ごした。
「美智子さん、復帰初日はどうだった」
「これならすぐに慣れると思います。基本は変わってないというのは美香さんの言った通りだと思いました」
「時短勤務でなくていいのね。フレックスは使うの」
「通常の時間でやってみようと思います。妊婦だったときはフレックスでずいぶん助かりました」
美香さんは余裕があるというか貫禄が付いた気がする。管理職らしさって言うのかな。よくわからないけれど。
「フレックス制度の対象を経営管理部と制作部にも広げようって話があってね、近いうちに会社が社員全員の意見を聞くと思うから。そのときは経験者として意見してね」
「はい、わかりました」
制作部では真子ちゃんがその制度を必要としている。彼女はちょうど今日から大学の夜間部に通学することになったから。
「大学で心理学の勉強をするの。受験勉強は大変だったでしょう」
「小論文と面接だけで合格にしてくれたんです。大学によって違うみたいですね」
真子ちゃんもなんだか大人っぽくなっていた。
「文学部人文学科心理学コースです。認知心理学を中心に講義を選択しました。美智子さん、これを見てください」
彼女はMacの大きな画面を指差した。制作中の商品ページにはカラフルな手帳が並んでいる。
「人はどうしてボタンを押すのでしょう」
「押す以外の操作があるの」
「ありません。でもどうして押せることがわかりますか。押せることを知らなかったら何もできません。そういうことをですね、考えてみたくなったんです」
私はお姉さんにメールを送ってから、真子ちゃんとともに定時に会社を出る。私はJRの駅へ、彼女は地下鉄の駅へ向かった。
中央線の快速で吊り革にぶら下がりながら仕事のことを考えた。それから夫のこと、息子のこと、家族のことを考えた。仕事は大丈夫だと思う。だけど今日は正直、疲れてしまった。駅からは徒歩でアパートに帰り、途中のスーパーで買い物をする。
今夜は昨日仕込んだコロッケを揚げるつもりだ。お味噌汁はどうしよう。豆腐好きの夫は豆腐さえ食べさせておけばご機嫌だが、そればかりではさびしい。大地は義母の家で食べてくると言っていた。もし食べてなかったらうちで用意しないといけない。コロッケに胡椒を入れなければ良かった。離乳食のレトルトのストックはまだあったっけ。
食事の用意をして、お風呂が沸きかけたころにジムニーのエンジン音が聞こえた。やがて夫が大きなカゴを抱えて帰宅する。
「ただいま」
カゴの中の大地はよく眠っていた。ビニール袋には汚れた服が入っていた。
「ごはんもお風呂も実家ですませてるって。起こさないように安全運転で帰ってきたよ」
「だからすこし遅かったのね。ごはんはできてるから先に食べてて。私はお洗濯しちゃうから」
「俺がやろうか」
「今日はいいよ。この次はお願いします」
大地の服はガーゼなので、これだけでやさしく洗わねばならない。食べこぼしを洗い流してから洗濯機に入れて設定を変更する。部屋に戻ると夫はパジャマに着替えていた。
「会社はどうだった」
彼は一言では答えにくいことを一言で聞く。疲れたとは言いたくないな。
「なつかしかったよ。仕事は大丈夫だと思う。通勤ラッシュも慣れるよ」
「そう。俺のほうは今日は虫取りをしていた」
自衛隊の特殊な任務。ダンジョンで虫取り。夫の仕事がよくわからない。またお姉さんにフリーターと呼ばれてしまう。
「どんな虫なの」
「ダンゴムシ。脚の数がちょっと違うんだってさ」
「先週は草むしりしてたよね」
「うん。ダンジョン周辺の地上で植物採集。木村さんっていう冒険者がいて、その人のお手伝いだった」
結婚前に聞かされた厳しい訓練と齟齬があるね。でもお給料は良いのだよ。自衛隊は謎だ。
夫が入浴しているあいだに洗濯物を乾燥機に入れる。大地の服だけは別に部屋干し。終わらせてほっとしていると大地が動き出した。ベビーベッドの手すりをつかんで手足をばたばたしている。
「大ちゃんどうしたのー」
「あ、あ…」
しゃべりだすかと思ってびっくりした。だけど大地はそれっきり不機嫌そうな顔で黙り込んでしまった。あ、おもらししてる。
翌朝、夫はまた大地をつれてジムニーで出かけた。府中の実家に預けて奥多摩に向かうのだ。今日も虫取りだとなぜだか楽しそうにしていた。私は洗濯物をたたんで冷蔵庫の中身をチェックしてから家を出る。春の朝日が目に染みる。




