坂上真子の物語 4/7
涼しい季節になり、北上君がコーヒーの焙煎に挑戦し始めた。
「フライパンでやってるんだ」
「とにかくやってみないとわかんないと思った。MLで見たのを参考にしてる。それと前に新宿の自家焙煎店でじっくり見させてもらったことがある」
「あ、そこ知ってる。すごい深煎りのお店」
「そうそう。あそこは自家焙煎なのに内装やメニューが銀座っぽいんだよね」
「生豆はどこから買ったの」
「卸業者さんから。麻袋でまるごと買っても使いきれないからキロ単位で売ってくれるところを探した」
学校のパソコンで業者のリストを探して順番に電話したんだって。ネットで気軽に買えたらいいのにね。
「コーヒーの麻袋の重さは国によって違う。ブラジルは60kg、中米は70kg、ドミニカは90kg、ハワイは45kgでそれぞれ歴史的経緯がある。プロはその袋単位で買うんだけど、量り売りする業者さんが無事に見つかってよかった。個人客は信用されなくて前払いしてくれって言われたよ」
八王子のアパートの玄関にその紙袋がふたつ。マジックで No.2 10kg と C.Sup 10kg と書かれている。ブラジルとコロンビアの生豆だ。
キッチンの先は六畳の和室。壁は石膏ボードに砂壁っぽい壁紙が貼ってある。いかにも学生向けアパートの部屋だ。ベッドは見当たらない。カーテンもない。カラーボックスが本箱の役目を果たしている。その片方はコーヒーの本で、もう片方が政治や経済や語学の教科書。他の荷物はすべて押入れの中。
小さな机の上にノートパソコンのような機械が開いたまま置かれている。
「それは卒論用に借りた文豪mini5SXだ。終わったら返却するやつ」
「ワープロなんだ。これって通信はできるの」
「パソコン通信ならできる。言いたいことはわかるよ、パソコンのほうが便利なんだろ。でもここまで来たらこれで書き上げるしかない」
北上君は苦笑しながらフライパン焙煎の準備をしていた。
「そろそろ始めるよ」
フライパンをよく拭いて加熱。輻射熱で顔がほてる。そこにブラジル100gを投入。木べらでゆっくり転がす。だんだんと蒸気が出て豆が乾燥する。薄皮が剥がれて周囲に舞う。
「すこし縮んだかな」
「まずは水分が10〜12%含まれてるのが抜ける。そこからが焙煎。豆自体が燃焼する。その過程で炭化や化学反応が起こるらしい」
「らしいって何よ」
「まだ専門家じゃないもの」
カラカラカラ。
「だんだん茶色くなってきたよ。いいじゃない」
「まだまだ。そのうち音がするから」
パツン、ポツン。カラカラ。
「もっともっと。ここで膨らまないと生焼けみたいになって渋みが残る。だけど火力が強すぎて胚芽が焦げたら失敗」
だんだんと音が軽くなってきた。比重が軽くなってるんだ。
「ここで火からすこし遠ざける。そうしないと勢いが付きすぎて焙煎を止められなくなる」
ピチッパチッ。
「もうすぐ終わります」
色を観察していた北上君は音の途中でざっとザルに開けた。それを扇風機の前へ持っていく。そのあいだも撹拌を続けている。
「2階の角部屋で良かったよ。窓を開けたらなんとかなる」
たったこれだけなのに煙がすごい。これを何キロもやるのだからコーヒー屋さんの設備が大袈裟なのも納得だ。
「これは明日飲んだほうが本当は飲みやすいんだけど、せっかくだからこのまま飲んでみようか」
「そうだね。煎りたてはなかなか飲めないもんね。私が挽くよ」
「電動ミルもあるといいな」
「イタリア製のが欲しいんだっけ」
「あんなのはまだ無理。お湯が沸いたらそれはボイルする」
小鍋に粉を入れたらお湯を注ぐ。砂時計をひっくり返しながら理由を教えてくれた。
「すごい泡だろ。煎ってすぐ粉にしたらこうなるからドリップは無理なんだ」
「それ茶漉しじゃない」
「これしかないからこれで漉す。普通はネルフィルターだと思う」
砂時計が落ちきったら別の小鍋に粉を漉し取りながらコーヒーを移す。
「はい、できあがり」
「いただきます」
そのコーヒーはちゃんとブラジルの味がした。
「でもなんか違う。味に偏りがあるというか、物足りないというか」
「うん。それが煎りたての味」
焙煎した豆の残りを紙袋に入れてもらって翌朝の始発で帰宅した。
電車の中で思う。昨日までは、同じ私鉄沿線に住んでいながらも、なんとなく距離を縮めることなく暮らしてきた。服を着替えるように簡単な日常的なメタモルフォーゼ。地に足はちゃんと着いている。
これから私たちはどこに向かうのだろう。




