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坂上真子の物語 3/7

「太い梁と漆喰の壁のヨーロッパ風の内装。オールドビーンズの深煎りをネルのハンドドリップで提供するスタイルが共通してるんだ」

「でもその松樹さんという人は銀座のお店とは関係がないのでしょう」

「そこはちょっとややこしくてさ」


北上君とは直接のやり取りもするようになった。もちろんMLで話すこともある。


驚いたことに彼はパソコンを持っていなかった。それじゃあどうやってメールを送受信しているかというと電子手帳だ。大学の先輩からもらった ZAURUS PI-6500 と手持ちのPHS端末のPS-702が接続可能なことを知ってモデムを購入。大学生協のカウンターでBIGLOBEの申込書を書いた。それから雑誌のメーリングリスト特集を手掛かりにコーヒーMLにたどり着いたのだ。


「行動力があるねえ」

「だってすごく面白そうだったから。よかったら新宿のお店に行ってみない」


それはもしかしてデートなのでは。でもお店にはとても興味がある。喫茶店のカップがマイセンだなんて。


「土曜ならいいよ」



会社では田中君が新卒入社して研修が始まった。金山さんが犬なら田中君はかわいい子犬だ。でも私より年上。


「真子さん、美香さんから伝言です。明日は美智子さんがお休みなので顧客対応をお願いします」

「はい、わかりました。田中君はだいぶん慣れてきたね。動きがいいよ」

「ありがとうございます。でも来週の工場研修は大変だってみんなが言うので不安です」

「来週は工場なんだ。それはたいへんだ」

「真子さんまでそんなこと」


本当に大変なんだって。私も半日だけやった。腰には気を付けてね。



ふだんはメールのやり取りで、たまにお出かけをした。行き先は自由が丘、神保町、下北沢などの喫茶店。どれも似たようなお店だ。メニューも似てる。なぜ。


「それはだって、プロデューサーと仕入先が共通だもの」

「チェーン店じゃない」

「違うよ。それにそれぞれの個性ははっきりしてるだろう。わかんないかなー」

「それくらいわかるよ。だけど良いと思う部分は違いよりも共通点だね。内装、照明、サービスはとても良い」

「それが完成されてるってことだよ」


北上君は大学の講義に出て、卒論の準備をして、宅配便のバイトをして、就職活動もする。将来はコーヒー専門店を自分でやりたいらしい。彼は夢を見るのに忙しい。


「卒論の準備って今からするの」

「遅いくらいだよ。俺はテーマが決まるのに時間がかかった。教授がなかなか納得しなくて」

「ふうん」

「80年代米国の金融規制緩和という内容。書くことはだいたい決まったからあとはワープロを借りてくるだけ」

「パソコンじゃないの」

「ただで貸してくれるって言われた。大丈夫だろう」



Macのローンが終わって気持ちが楽になったので北上君と同じPS-702を購入した。会社でPHSや携帯電話を支給されているのは営業部だけなので、初めての携帯端末だった。しかし同じタイミングで北上君のほうが端末を変えてしまうのである。


「これが DATA Carrots DL-S26P という新機種。PIAFSっていう新しい通信方式を使うから安定していて速いんだ」

「速くてもZAURUSじゃない。ウェブは見られないんでしょう」

「今はまだこれでいい。メールとBIGLOBEのフォーラムで十分。ウェブが必要になったらその時はパソコンを買うよ」


その変わった形のPHSはPメールにはちゃんと対応していたので納得することにした。パソコンのない生活は自分には無理だと思った。



山根さんがサンドイッチを食べながら小さく思い出し笑いをしていた。


「また笑ってる」

「えっ笑ってませんよ。真子ちゃんの気のせいだと思います」

「山根さんはかわいいな」


呆然とした顔で赤くなる様子を見て真子ちゃんも笑った。年上の人をからかうものではありません。だからたまにだけ。


「真子ちゃんも最近よく笑ってますよ」

「そんなはずないよ」

「着ているものが前と変わってますよねえ。腰にネルシャツなんか巻いちゃって」

「これは前から持ってるやつだし」

「真子ちゃんはかわいいなあ」


私が笑ってるって本当だろうか。何か楽しいことあったっけ。ケーキやコーヒーカップの画像が頭に浮かぶ。


「恋をしているでしょう」

「わかんない」


山根さんはにこにことサンドイッチを食べ終えて、それからふたりでリプトンの紅茶を飲んだ。


「今日は隣の人はいないんだね」

「山下さんは他社の展示会に行ってるよ。夕方まで戻らない」

「山根さんは行かなかったんだ」

「私は他に行くところあるし。私の仕事じゃないし」

「でもいっしょにいたいんでしょう」


図星を突いてみる簡単なお仕事。しかし山根さんは今度はうろたえたりはしなかった。


「ええと、学ぶことが多いと思ってるだけ。本当にそう。わかるでしょう」


わかるはずないでしょう。


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